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異本 蠣崎新三郎の恋 その十三
しおりを挟む歌のことである。
そんな壮年期以降の新三郎慶広は、若者であった頃に自分が昔詠んだ歌を思い出すと、赤面苦笑せざるを得なかった。齢を重ねてからも、歌については修練を怠らず、経験も積んでいる。都から著名な連歌師を招き、あるいは上方で数々の高名な歌人に接した。その後の目からすれば、なんとも稚拙で、面映ゆい。
古今集あたりの調べを懸命に真似ようとして、もちろんうまくはない。若者の背伸びが、滑稽ですらあった。
(だが、……。)
白髪の増えた新三郎がふと思い出すと、痛いほどの思いに駆られるばかりの歌が、そうした若書きの中にはあった。
歌とともに、美しく、そして恐ろしい場所でもあった浪岡城が鮮やかに目の裏に蘇るのだ。この上ない極楽と阿鼻叫喚の地獄がともにあった、あの迷路のような浪岡御所。
また、ふと古い自作らしい歌を頭に蘇らせ、
(おや、これは儂の歌か?)
とよく考えてみると、違うこともある。
女の立場からの歌のようでもある。
(姫さまの……!)
それも、いまの新三郎の本来の審美眼からすると、それほどのものではないはずだった。妙に堅苦しく、規則を気にしすぎているようで、わざとしたように―したのであろう―古めかしい気もする。新三郎が交わった当代の京の歌詠みの貴族たちならば、お行儀のよろしいお歌で、と嗤うであろう。下手ではないがどこといって取るに足りない、平凡な歌だと片付けられる種類のものであるに違いなかった。
だが、思いだした新三郎の胸の中には、その三十一文字のすべてが痛切な響きを帯びた。
(おれにあてて詠まれた歌……! おれのためにだけ、詠まれた、おれだけのもの……!)
そうには違いなかったからだ。歌に詠みこまれた姫さまの想いは、すべて若かった新三郎に向けられていた。
姫さまの歌など、その後、どのような形でもこの世に残らなかったのだが、新三郎の記憶の中では、とうとう消えることはなかった所以である。
新三郎はありありと思いだす。
永遠に喪われてしまい、いまはもうどこにもない、さ栄姫の肉体。かの女の品のよい、いくらかも気取り、取り澄ました歌とともに、あきらかに老いた新三郎の中で、二十歳ほどの女の温かみや匂いや触感が徐々に蘇ってくる。
やさしい声、なまめかしい吐息、震える小さな叫びが、心の耳に届く。愛する人がこの躰の下で登りつめた戦慄を受けとめたとき、甘く崩れた声を耳にしたとき、意外なほどに強い力で細い足が絡みつき、さらにぴったりと汗ばんだ肌と肌が密着したとき、なんという幸福感をおれは得ただろうか。
若者らしい肉の昂奮が去ったあとの静かに安らいだひととき、腕の中の恋人と、自分たちの永遠をいとも簡単に確信できていたことよ。それもまた、たしかにおれがしっかりと掴んで離さないはずのものだった。
それらすべては、しかし、去った。取り返しのつかぬところに、おれはもう来てしまった。もう、あの浪岡御所には決して戻れぬ。……甘い追憶を、必ず刺すような味の悔恨が追ってくる。新三郎の胸は、悔悟の痛みに凍りつくようになる。
そんなとき、新三郎は大舘の一番高い楼に、誰にも告げずにのぼる。丘の上から町の夜の底を見下ろしながら、ひとり静かに哭くしかないのだ。昼間はそれなりの自足をもたらす、おのれの治める、坂の多い町の景色は見えず、闇の中をただ潮くさい風だけが吹いている。海鳴りがひどく遠い。
自分は全てを喪った。結句、何も手に入れられなかったのではないか……という惧れが、北の土地の領主を苛む。
それを強い意志で振り払うのが、新三郎が自分に課した義務であった。今夜もそうした。明日せねばならぬことを数え、滲んだ涙を自嘲の苦笑いとともに拭う。
それなのに、そこで決まって思いだす。
(姫さまは、おれのあんな歌を、褒めてくださったな。お喜びになられたのだ。あれは、うれしく、誇らしかった……!)
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