草履とヒール

九条 いち

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 モールを出て、少し歩いた所にあるカフェで休憩をすることにした。美術館に併設されているカフェで大正時代に建てられたものらしい。内装も大正ロマンを感じさせる。2階分ある高い天井に規則的に設置されたいくつもの大きな格子状の窓、それらに負けない存在感がある丸状の柱たち。ウォールナットの落ち着いたテーブルに椅子、腰壁の色も同じ材で揃えられていて、床を踏む度に年季が入り乾いた木材からコツコツと音が帰ってくるのが心地いい。
 黒のレザーがあしらわれた席に着くと、白桃ピューレ入りの炭酸ドリンクとアイスコーヒーを注文した。
「何ですか、さっきの?」
 普通に聞こうと思ったが、通政さん熱演のチャラ男を思い出すとニヤニヤが止まらない。
「事務所の人間に教わった。怪しまれたら似てる一般人で通せと」
「ふーん。そうなんですか。通政さん、演技下手ですね」
「本人が一番わかっている」
 通政さんが、配られてきたコーヒーを口にする。通政さんを横目に太めのストローを取り出し、ドリンクに入れる。喉を滑らかに刺激する炭酸の後にピューレが少しずつ入ってくる。小さな感触を楽しむように舌の上で転がして飲み込むと、桃の爽やかな香りが鼻に抜けていく。
「美味しい」
「そうか」
「通政さんのコーヒーは?」
「美味い。飲むか?」
「ブラック飲めないの知ってて言ってます?」
「そうだったか?」
 覚えてた。通政さんの顔は絶対覚えてる顔だった。さっきの仕返しと言わんばかりの攻撃に頬を膨らませることしかできなかった。
 私を見て、笑いながらコーヒーを飲む通政さんを見ていると、本当に現代人に見えてくる。私よりコーヒー飲めるし……。このカフェでいると、背景と相俟って大正時代の人にも見えてくる。
「通政さんって、いつの時代にも馴染んでカメレオンみたいですね」
「カメレオンって何だ?」
 そっか。通政さん知らないんだ。こっちの生活にも慣れて、ずっといる私よりスマートに生活をしている彼に嬉しいような悲しいような感情を抱いていた。でも、ちょっとしたことをまだ知らない彼を見ると、必要とされているようで嬉しかった。
「秘密です」
「なぜだ」
「何となく」
 はぁー、と大袈裟にため息をついて見せる彼を見ながらもう一口、白桃ピューレを喉に流し込んだ。


*****


 物音がして目を覚ますと、彼が上着を脱いでいた。
「お疲れ様です」
「すまない、起こしたか」
「朝は私が起こしちゃったし、お互い様ですよ」
 通政さんは私の頭を撫でると浴室に行ってしまった。少ししてシャワーから水の流れる音がする。通政さんが出てくるまで待っていよう。そう思っていたのだが、いつの間にか眠ってしまっていた。

 アラームの鳴る五分前に目が覚める。通政さんを起こさないようにと思っていたらいつの間にかこの時間に起きられる様になった。横に目をやると、いつもいるはずの彼はいなかった。
「通政さん……?」
 眠い目を擦りながら起き上がる。目をシバシバさせながら見回すと、彼は机にいた。書物を読んでいたようだ。
「まさか、ずっと起きていたんですか?」
「もうすぐ俺も出掛けないといけないからな。寝起きで悪いが話があるんだ。いいか?」
「わかりました」
 通政さんと同じように、彼に向かい合って正座する。大事な話をする時はいつもこうだから、だいぶ慣れてきた。
「部屋を借りようと思う。深夜に帰る度に起こしてしまうのは申し訳ないからな。費用は事務所が負担してくれる」
「え? ああ、そうなん、ですか……」
 確かにお互いの睡眠が妨げられている自覚はあった。別々に住んだ方がそれは改善するだろう。でも、素直に喜べなかった。
「……どこに住むんですか?」
「ここの隣だ。今空いているだろう?」
「えっ、あっ、そうですね!」
 声が上ずってしまった。喜んでいるのが丸わかりな反応をしてしまい、顔に熱が集まる。平静を装うように彼から視線を外すして答える。
「わかりました。そうしましょう」
 その方がお互いのためになるし、すぐ横に住むなら何かあった時にも助けられる。彼の提案はとても魅力的だった。

 元々少なかった彼の荷物が部屋から完全になくなると、多少の後悔が出てくる。
 顔を合わせる時間はめっきり減ってしまった。最近は家に帰っているかどうかもわからない。通政さんは私より年上だし、過干渉なのも鬱陶しいだろうと思い、私からも連絡を控えていた。
 いつも通り、彼の部屋に響かないように静かに朝の支度を済ませて玄関に向かう。
 玄関を開けると通政さんがいた。
「あっ……おかえりなさい」
「ただいま」
 通政さんの部屋は隣なのだけれど。だいぶ酔っているのだろう。目が虚ろだ。ひと月ぶりに見た彼の顔に笑みがこぼれる。嬉しくて彼をいたわるように抱きしめると彼の重みが肩にのしかかる。
「うわっ! ちょっと寝ないでください。ベッドまでは頑張って」
 足取りのおぼつかない彼を支えながら部屋の中まで運ぶ。ベッドに倒れ込むように沈む彼を確認して声をかける。
「起きたらちゃんと水飲んでくださいね。何かいるものがあれば帰りに買って帰りますから」
「椿……」
 彼の言葉を聞くために彼の顔に近寄る。するとぐいっと頭を引き寄せられくちびるが触れる。チュッと水音が鳴り、一度離れたが、すぐに彼のくちびるが追ってきて舌が潜り込んでくる。
「んっ……ふっ……ん」
 久しぶりのキスに腰元が甘く痺れる。
「みち、まさ……さん」
「これでいいんだろ……」
 それだけ言って彼は枕に頭を落とし、動かなくなった。少しすると小さな寝息が聞こえてくる。
 『これでいいんだろ』ってどういうこと? まるで私を満足させるために仕方なくやったような言葉にやりきれない思いがこみあげてくる。彼にキスをされたときに微かに香った甘ったるいフレグランスの香りは明らかに女性用の香水だった。
 最近帰ってきてなかったのは仕事じゃなくて、女性とそういう関係になっていたのかもしれない。
 浮気……?
 いや、そんなはずは……。その前に、私は彼女なのだろうか? 付き合おうと言われたわけでもない。出掛ける時は調べ物をする時ぐらいで恋人らしいデートとい言えるのは一回だけ。
 出会ったのもただ、現代に来た時にいた家が私の家だけってだけ。同居してるのもそれの延長。欲が溜まった時に私がいたからした。相手が私じゃなくても、誰でもそうなっていた気がする。私である必要性は感じられない。そんなところに綺麗なモデルの女性と知り合えば、そちらにいくのも当然の流れで。
 目が潤むのを我慢して上を向く。アイメイクが崩れないように目尻の涙をティッシュで拭って家を出た。

 全然仕事に集中できなかった。彼の言葉の意味を考えると手が止まってしまい、周りの音が聞こえなくなった。家に帰ると通政さんの姿はなく、綺麗に整えられたベッドが私を出迎えた。
『持っておいてくれ』
 事務所が賃貸料を払ってくれるが通政さんには戸籍がない。何とか言い訳を考えて私の名義で借りた隣の部屋。それでも合鍵をもらって、思わずその鍵を握りしめて通政さんに抱きついてたな。
 今思えば貸借人は私だから当たり前だったのに。勝手に舞い上がって自分の部屋の鍵も渡していた。彼女顔していた自分を殴りたくなる。消えてしまいたい……。
 玄関の戸が開く音がした。今朝も会ったのに何の用だろう。急いで部屋の鏡で身だしなみを確認する。
 何やってるんだろ。こんな時でも通政さんに良く思われようとする自分にイラついた。手で髪を掻き乱してから部屋の戸を開けた。
「どうしました」
 距離を取ろうと意識すると、思いかけずに冷たい口調になってしまった。
「夜遅くにすまない。部屋の灯りが見えて……その、一緒に寝ないか。明日は休みなんだ」
「……その格好、どうしたんですか」
 通政さんはスリーピーススーツを着ていた。
 濃紺のスーツに映える黒い長い髪…………はなくなっていた。
 短くなった黒髪がラフにオールバックでセットされている。今の彼を何も知らずに見た人は男前のエリートとしか思わないだろう。さぞモテそうだ。
「スーツというやつだろう。持っていないと言ったらくれた」
「髪は……」
「そちらの方が似合うと言われてな。切ってもらった」
 私が聞いた時には切りたくないと言っていて、その後も髪のことをいろんな人に聞かれたが切ろうとはしていなかった。それがあっさり切ってしまうなんて……。通政さんは変わってしまった。
「似合ってますよ」
 できるだけ上手に笑顔を作る。
「よかった」
 ほっとしたのか彼の表情も緩み、私の頬に手を伸ばす。抱きしめられると懐かしい香りがして彼の体温を感じる。
「椿……」
 顎を持ち上げられ彼と目が合う。自然とくちびるが開く。
 互いの吐息がかかる距離に近づいたとき、香水の香りがした。今朝と同じ甘ったるい匂いに吐き気がする。
 またすぐに彼女と会ったの? 断られたから私の元に来たの?
 嫌な想像ばかりが頭の中で広がっていく。もう何も考えたくない。
 私は彼をベッドに連れていき押し倒した。
「どうした、椿」
 深夜に部屋に来て下の世話をしろというならしてあげる。満足したならさっさと帰ればいい。その代わり私も他の人を想像する。
「目つぶって誰かさんでも想像したら?」
「おい、椿」
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