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前日譚 私は婚約破棄を選び取った
閑話:婚約者に恋をしました
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フェリシアは、正面に座る婚約者を見て、頬を染めた。
見る者の時を止めると評される彼の美しい容姿を目にして、思わず頬が染まることは何度となくあったけれど、今日は彼が目の前にいるというだけで、頬が熱を持つ。それどころか鼓動も高まり、会話もおぼつかない。
――今まで、どうしていたかしら。
何とか「今まで」を思い出し、先ずは頬の熱を冷ますために、レイモンドの背後にちらりと視線を流した。けれど、それは悪手だった。それも最大級の悪手で、頬の熱はさらに高まってしまった。
レイモンドの背後に控えていたのは、頬の熱など難なく冷ましてくれる、冷然としたダスティンだけではなかったのだ。新しく加わったヘンリーが、穏やかな微笑みを浮かべていた。
因果応報の羞恥に、フェリシアは立ち上がって素振りを100回はしたい思いに駆られる。しかし、彼女の視線の先を見逃すことはなかったレイモンドは、輝くような笑顔を向けることで、彼女の時を止めた。
「私のことを、気にしてくれるんだね」
――!
もうあらゆる意味から、フェリシアは固まってしまった。
長い付き合いの中でも、極上と言えるレイモンドの笑顔を見たことにも。
ヘンリーをレイモンドの護衛――というよりもレイモンドに女性の影がないかどうかを監視してもらっていることを、知られてしまったことにも。
これだけ恥ずかしい思いを味わっても、それでもヘンリーに探って欲しいと望み続ける自分にも。
固まってしまった彼女は、どう自分を立て直せばいいのかなど、全く思いつかない。それなのに、目の前の婚約者は容赦ない。
くすりと笑いを零して、フェリシアの手を包んだのだ。
心臓が手に移動したのではないかと思えるほど、手は熱を持った。自分の手を覆い隠す、彼の大きな手に視線が囚われてしまう。
彼の手に、彼が自分に触れていることに、縫い止められたフェリシアの耳に、そっと囁きが落とされた。
「私もフェリが気になるよ。フェリの周りには男性が多いから」
多分に社交辞令と揶揄いの入った言葉だと分かりながらも、彼の言葉一つに胸には灯りが灯る。
恋というものに、これほど振り回されるとは思いもしなかった。
そう、フェリシアは婚約者に恋をした。
初めて会ったときから彼は特別で、大事な人だった。
それは、彼が自分の婚約者だということもあっただろう。
初めて会ったときに、彼が「王太子」の殻を破って声を立てて笑ったくれたこともあったろう。
彼が他愛ない自分の話を、眩しいものを見るかのように目を細めて、一心に耳を傾けてくれることもあったはずだ。
もしかしたら、レイモンドへの自分の想いは、出会ったときから恋という言葉に当てはまるものだったのかも知れない。
けれど、フェリシアにとって、彼はかけがえのない人で、彼には自分がどのような存在なのか気になって
仕方ないと、――これが世に言う恋なのだと、はっきり自覚した瞬間は、つい最近だった。
◇◇◇◇◇
あの日、自分が彼の目の前で怪我を負う失態を犯してから、彼はそれまでと変わった。その一つとして、庭でのお茶会はなくなってしまった。
けれど、自分の話を喜んでくれることは変わらない。柔らかな笑顔を浮かべ、一心に耳を傾けてくれる。
そして、武芸の練習を増やしたレイモンドは、深いところまで話について来てくれるようになった。今までは、そのことをただ喜んでいたけれど――
彼が変わらず自分との会話を楽しんでくれることは、とても、本当に、ありがたいものなのだと、先日、分かったのだ。
それを思い出し、紅茶に伸ばした手を思わず止め、 正面に座る彼を眺めた。
彼はいつものようにフェリの視線を直ぐに受け止め、柔らかな笑顔を返してくれる。
つられて笑顔を返しながら、ようやくカップの持ち手をつまんだ。それとなく紛らわしたつもりだったのに、彼には通用しなかった。
「フェリ?」
問うように呼びかけられ、カップを持った手は彼の両手で包まれた。
長い指と大きな手。包まれた自分の手は、しっかりと出来た彼の剣だこを感じ取った。――あの日の前にはなかったものだ。
短期間にここまで剣だこができるまでに、彼はどれほどの練習を積んだのだろう。その練習時間を作り出すために、彼はどれほど苦心したのだろう。
いいことなのか悪いことなのか、それはさておき、彼をここまで変わらせてしまったことに、どうしても胸の痛みを覚えてしまう。
だから、彼の努力の証しに触れたフェリシアは、隠すことを諦めた。
――彼の表情を曇らせてしまうことが分かっていたけれど。
「婚約者がレイで、幸運だなと思ったの」
正直な告白に、レイモンドは頬を染め、同時に、喜びが彼の顔に広がっていく。
いつもとは違う彼の美しさに見惚れつつ、このまま彼が何も問わないでくれればと願ったけれど、やはりレイモンドは直ぐに立ち直ってしまった。
彼は眼差しだけで、「理由」を問いかけてくる。
フェリシアを案じ、一言も聞き漏らすまいと、それどころか彼女のどんな動きも見落とすまいと、こちらをひたと見つめる青い瞳に、改めて自分の幸運を感じながら、フェリシアは打ち明け始めた。
今まで練習の手合わせをしてくれていたヴィクターが、成長期に入った。
フェリシアも少し前に成長期に入っていたけれど、男性のそれは度合いが違う。
身長も体重も見る見るうちに成長して、フェリシアの身長をあっさりと抜き去り、なお伸びている。
今はまだ、ヴィクターが成長した自身の身体に馴染まず、難儀している状態だが、恐らく、あと僅かな期間で、フェリシアではヴィクターの相手が務まらなくなってしまうだろう。
そのことに対して、もの悲しい思いが過ったけれど、現実は現実である。
師範のような、十分に技量が出来上がった者ならまだしも、フェリシアもヴィクターもまだまだ道半ばだ。
相手にならない技量の者と手合わせをしても、上達は難しい。
ヴィクターのためにも、別の練習相手を作ろう。悪いことではない。新しい相手と練習すれば、新しい課題も見付かるだろうから。
――そう気持ちを切り替え、試しに新しい相手を頼んだところ、意外にもあっさりと勝ってしまい――、
相手――ケントは、自分を避けるようになってしまった。
そのことに少し傷ついてしまったのだ。
ケントとは歳も近く、ヴィクターの次に打ち解けた仲間だと思っていたから。
声をかける暇も無く遠ざかる彼の背中を見送りながら、ふと思った。自分が男性だったら、彼は相手をしてくれたのだろうかと。
なぜなら、ケントはフェリシアではない練習相手――男性の練習相手に負けても、また同じ相手と練習していたから。
女性が男性よりも強いということは、相手の男性に複雑な思いを与える場合もあるのだということを、初めて知った。将来、圧倒的に男性が多い軍の総司令官になることが期待されている自分の立場を思えば、とても大事なことで、遅かったぐらいだ。
「そして、気がついたの。レイが婚約者で、私は本当に恵まれていることに」
あの日、男性であるレイモンドを「守った」。――失敗したけれど。
レイモンドは、フェリシアが怪我を負うことを恐れるようになってしまったものの、彼を守ろうとした自分を避けることはなかった。女性に守られたというのに。
レイモンドの度量の大きさに包まれていたからこそ、今まで男性の複雑な気持ちを分からずに来たのだ。
ようやく気がついた事実に、フェリシアは胸が温まるのを感じた。
話し終えたとき、レイモンドの表情は、フェリシアの予想とは異なり、とても複雑なものだった。フェリシアが少し傷ついたことに、やはり眉を寄せたけれど、仄かに頬を染めている。
珍しい表情を見つめる彼女の前で、彼はしばらく沈思した後、やがて、綺麗な笑みを浮かべた。
「フェリ、私と久々に手合わせをしてくれるかい?」
見惚れるほどの美しい笑みに呑まれたフェリシアは、即座に頷いたけれど、小さな疑問が過った。
――なぜかしら、ドレスの下に隠した短剣に手をやりたいと思ってしまうのは。
後にフェリシアは自分の感覚が正しかったことを学ぶことになる。レイモンドの、この美しい笑みは怒り表れであることを。
◇◇◇◇◇◇
レイモンドは、ほんの2日後には日程を調整して軍の練習場に足を運んだ。
2年前の、あの失態の日の前までは、レイモンドも時間に余裕があり、手合わせをしてくれていた。その時は警護を考慮し、人の少ない時間と場所を選んでいたけれど、今回のレイモンドは普通の時間に、軍の誰もが使用する練習場に顔を出した。
当然のことながら、練習場には多くの騎士がいる。
その場の全ての視線を集めながらも、何ら気負うことなく、いつもの穏やかな笑みを浮かべたレイモンドは、フェリシアに手合わせを願った。予定を聞かされていなかった騎士たちから、響めきが起こるのを耳にしながら、フェリシアは承諾したものの、一瞬、恐れが過った。
もし自分が勝ってしまったとき、レイモンドも――。
目を閉じて、恐れを振り払った。そのような彼なら、とうの昔に変わっている。そもそも剣を構える前から、勝つことを考えるなど不遜なことだ。
フェリシアは小さく息を吸い込み、剣を構えた。
練習場に居合わせた全ての騎士が手を止め、二人を見つめる中、手合わせが始まった。
―――2年前とは違う。
初めの一撃を受け止めたときに、思ったことはそれだった。
レイモンドはフェリシアとヴィクターよりも歳が上なだけあって、ヴィクターよりも身長が高く、体格も大きい。ここ2年で鍛えたこともあり、大人の体格と遜色がない。つまり、その分、攻撃に重さがあった。
けれども本格的な練習を始めてから2年だ。物心ついた頃から訓練に明け暮れているヴィクター程の技量はない。普通に考えるなら、ヴィクターに慣れたフェリシアには難しい相手ではなかった。
それなのに、フェリシアは全身を研ぎ澄まして、向き合っていた。
レイモンドから発せられる気迫が、彼女をそこまで追い込んでいたのだ。
彼の動きには、婚約者への手加減も、女性への手加減もない。隙を見せれば、命を奪われるような凄みがあった。
恐らく時間にしては、5分にも満たない短い手合わせだったはずだ。
けれど、剣をレイモンドの喉元に突きつけて勝負を付けたフェリシアは、自分が誰と手合わせしていたかも忘れるほど、集中していたことに気がついた。
息を弾ませたまま、呆然と目の前のレイモンドを見つめていると、彼はゆっくりと笑顔を浮かべた。
「やはり、フェリは強いね」
純粋な賞賛に、トクリと鼓動が高まった。意識は戻ったというのに、なぜだか彼の笑顔から目が離せない。
息を整えながら、彼は少し苦笑した。
「悔しいけれど、フェリは武芸に勤しんでいるときが一番生き生きしているね。……私とのお茶会の時間よりも」
耳元に囁きを落としてレイモンドは練習場から去り、皆が落ち着きを取り戻した頃、ヴィクターが近づいてきて呟いた。
「強くないが、強い相手だったな」
その言葉に強く同意したとき、またトクリと鼓動が跳ねた。
ヴィクターの言うとおり、レイモンドの武芸の腕は、騎士の基準からすれば強くはなかった。騎士の中では中の上ほどの技量だった。
けれど、それを承知しながら、多くの視線を浴びる中で自分と手合わせしてくれたのだ。全身全霊をかけて。
そして予想どおり負けたけれど、それを僻むこともなく、フェリシアの強さを認め、称えてくれた。
彼の強さを感じた。
きっと騎士の皆に、彼は見せたかったのだろう。強い者に負けただけなのだと。
好き――。
ふっと浮かび上がった想いに、 光が駆け抜けた気がした。
生まれたばかりの想いは、勢いを付けて彼女を満たしていく。想いに埋め尽くされた彼女は、大切な想いを、もう一度、言葉に紡いだ。
私は、彼のことが好き――。
これが、フェリシアが恋を知った瞬間だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
お読み下さりありがとうございました。お気づきの方もいらしたかも知れませんが、恋愛小説大賞(申し訳ございません。正式名称を控えていませんでした)に参加していました。期間中、応援下さりありがとうございました。
番外編を期間中に完結させたかったのですが、間に合わずお恥ずかしい限りです……。期間は過ぎましたが、完結を目指して精進致します。よろしくお願いします。
見る者の時を止めると評される彼の美しい容姿を目にして、思わず頬が染まることは何度となくあったけれど、今日は彼が目の前にいるというだけで、頬が熱を持つ。それどころか鼓動も高まり、会話もおぼつかない。
――今まで、どうしていたかしら。
何とか「今まで」を思い出し、先ずは頬の熱を冷ますために、レイモンドの背後にちらりと視線を流した。けれど、それは悪手だった。それも最大級の悪手で、頬の熱はさらに高まってしまった。
レイモンドの背後に控えていたのは、頬の熱など難なく冷ましてくれる、冷然としたダスティンだけではなかったのだ。新しく加わったヘンリーが、穏やかな微笑みを浮かべていた。
因果応報の羞恥に、フェリシアは立ち上がって素振りを100回はしたい思いに駆られる。しかし、彼女の視線の先を見逃すことはなかったレイモンドは、輝くような笑顔を向けることで、彼女の時を止めた。
「私のことを、気にしてくれるんだね」
――!
もうあらゆる意味から、フェリシアは固まってしまった。
長い付き合いの中でも、極上と言えるレイモンドの笑顔を見たことにも。
ヘンリーをレイモンドの護衛――というよりもレイモンドに女性の影がないかどうかを監視してもらっていることを、知られてしまったことにも。
これだけ恥ずかしい思いを味わっても、それでもヘンリーに探って欲しいと望み続ける自分にも。
固まってしまった彼女は、どう自分を立て直せばいいのかなど、全く思いつかない。それなのに、目の前の婚約者は容赦ない。
くすりと笑いを零して、フェリシアの手を包んだのだ。
心臓が手に移動したのではないかと思えるほど、手は熱を持った。自分の手を覆い隠す、彼の大きな手に視線が囚われてしまう。
彼の手に、彼が自分に触れていることに、縫い止められたフェリシアの耳に、そっと囁きが落とされた。
「私もフェリが気になるよ。フェリの周りには男性が多いから」
多分に社交辞令と揶揄いの入った言葉だと分かりながらも、彼の言葉一つに胸には灯りが灯る。
恋というものに、これほど振り回されるとは思いもしなかった。
そう、フェリシアは婚約者に恋をした。
初めて会ったときから彼は特別で、大事な人だった。
それは、彼が自分の婚約者だということもあっただろう。
初めて会ったときに、彼が「王太子」の殻を破って声を立てて笑ったくれたこともあったろう。
彼が他愛ない自分の話を、眩しいものを見るかのように目を細めて、一心に耳を傾けてくれることもあったはずだ。
もしかしたら、レイモンドへの自分の想いは、出会ったときから恋という言葉に当てはまるものだったのかも知れない。
けれど、フェリシアにとって、彼はかけがえのない人で、彼には自分がどのような存在なのか気になって
仕方ないと、――これが世に言う恋なのだと、はっきり自覚した瞬間は、つい最近だった。
◇◇◇◇◇
あの日、自分が彼の目の前で怪我を負う失態を犯してから、彼はそれまでと変わった。その一つとして、庭でのお茶会はなくなってしまった。
けれど、自分の話を喜んでくれることは変わらない。柔らかな笑顔を浮かべ、一心に耳を傾けてくれる。
そして、武芸の練習を増やしたレイモンドは、深いところまで話について来てくれるようになった。今までは、そのことをただ喜んでいたけれど――
彼が変わらず自分との会話を楽しんでくれることは、とても、本当に、ありがたいものなのだと、先日、分かったのだ。
それを思い出し、紅茶に伸ばした手を思わず止め、 正面に座る彼を眺めた。
彼はいつものようにフェリの視線を直ぐに受け止め、柔らかな笑顔を返してくれる。
つられて笑顔を返しながら、ようやくカップの持ち手をつまんだ。それとなく紛らわしたつもりだったのに、彼には通用しなかった。
「フェリ?」
問うように呼びかけられ、カップを持った手は彼の両手で包まれた。
長い指と大きな手。包まれた自分の手は、しっかりと出来た彼の剣だこを感じ取った。――あの日の前にはなかったものだ。
短期間にここまで剣だこができるまでに、彼はどれほどの練習を積んだのだろう。その練習時間を作り出すために、彼はどれほど苦心したのだろう。
いいことなのか悪いことなのか、それはさておき、彼をここまで変わらせてしまったことに、どうしても胸の痛みを覚えてしまう。
だから、彼の努力の証しに触れたフェリシアは、隠すことを諦めた。
――彼の表情を曇らせてしまうことが分かっていたけれど。
「婚約者がレイで、幸運だなと思ったの」
正直な告白に、レイモンドは頬を染め、同時に、喜びが彼の顔に広がっていく。
いつもとは違う彼の美しさに見惚れつつ、このまま彼が何も問わないでくれればと願ったけれど、やはりレイモンドは直ぐに立ち直ってしまった。
彼は眼差しだけで、「理由」を問いかけてくる。
フェリシアを案じ、一言も聞き漏らすまいと、それどころか彼女のどんな動きも見落とすまいと、こちらをひたと見つめる青い瞳に、改めて自分の幸運を感じながら、フェリシアは打ち明け始めた。
今まで練習の手合わせをしてくれていたヴィクターが、成長期に入った。
フェリシアも少し前に成長期に入っていたけれど、男性のそれは度合いが違う。
身長も体重も見る見るうちに成長して、フェリシアの身長をあっさりと抜き去り、なお伸びている。
今はまだ、ヴィクターが成長した自身の身体に馴染まず、難儀している状態だが、恐らく、あと僅かな期間で、フェリシアではヴィクターの相手が務まらなくなってしまうだろう。
そのことに対して、もの悲しい思いが過ったけれど、現実は現実である。
師範のような、十分に技量が出来上がった者ならまだしも、フェリシアもヴィクターもまだまだ道半ばだ。
相手にならない技量の者と手合わせをしても、上達は難しい。
ヴィクターのためにも、別の練習相手を作ろう。悪いことではない。新しい相手と練習すれば、新しい課題も見付かるだろうから。
――そう気持ちを切り替え、試しに新しい相手を頼んだところ、意外にもあっさりと勝ってしまい――、
相手――ケントは、自分を避けるようになってしまった。
そのことに少し傷ついてしまったのだ。
ケントとは歳も近く、ヴィクターの次に打ち解けた仲間だと思っていたから。
声をかける暇も無く遠ざかる彼の背中を見送りながら、ふと思った。自分が男性だったら、彼は相手をしてくれたのだろうかと。
なぜなら、ケントはフェリシアではない練習相手――男性の練習相手に負けても、また同じ相手と練習していたから。
女性が男性よりも強いということは、相手の男性に複雑な思いを与える場合もあるのだということを、初めて知った。将来、圧倒的に男性が多い軍の総司令官になることが期待されている自分の立場を思えば、とても大事なことで、遅かったぐらいだ。
「そして、気がついたの。レイが婚約者で、私は本当に恵まれていることに」
あの日、男性であるレイモンドを「守った」。――失敗したけれど。
レイモンドは、フェリシアが怪我を負うことを恐れるようになってしまったものの、彼を守ろうとした自分を避けることはなかった。女性に守られたというのに。
レイモンドの度量の大きさに包まれていたからこそ、今まで男性の複雑な気持ちを分からずに来たのだ。
ようやく気がついた事実に、フェリシアは胸が温まるのを感じた。
話し終えたとき、レイモンドの表情は、フェリシアの予想とは異なり、とても複雑なものだった。フェリシアが少し傷ついたことに、やはり眉を寄せたけれど、仄かに頬を染めている。
珍しい表情を見つめる彼女の前で、彼はしばらく沈思した後、やがて、綺麗な笑みを浮かべた。
「フェリ、私と久々に手合わせをしてくれるかい?」
見惚れるほどの美しい笑みに呑まれたフェリシアは、即座に頷いたけれど、小さな疑問が過った。
――なぜかしら、ドレスの下に隠した短剣に手をやりたいと思ってしまうのは。
後にフェリシアは自分の感覚が正しかったことを学ぶことになる。レイモンドの、この美しい笑みは怒り表れであることを。
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レイモンドは、ほんの2日後には日程を調整して軍の練習場に足を運んだ。
2年前の、あの失態の日の前までは、レイモンドも時間に余裕があり、手合わせをしてくれていた。その時は警護を考慮し、人の少ない時間と場所を選んでいたけれど、今回のレイモンドは普通の時間に、軍の誰もが使用する練習場に顔を出した。
当然のことながら、練習場には多くの騎士がいる。
その場の全ての視線を集めながらも、何ら気負うことなく、いつもの穏やかな笑みを浮かべたレイモンドは、フェリシアに手合わせを願った。予定を聞かされていなかった騎士たちから、響めきが起こるのを耳にしながら、フェリシアは承諾したものの、一瞬、恐れが過った。
もし自分が勝ってしまったとき、レイモンドも――。
目を閉じて、恐れを振り払った。そのような彼なら、とうの昔に変わっている。そもそも剣を構える前から、勝つことを考えるなど不遜なことだ。
フェリシアは小さく息を吸い込み、剣を構えた。
練習場に居合わせた全ての騎士が手を止め、二人を見つめる中、手合わせが始まった。
―――2年前とは違う。
初めの一撃を受け止めたときに、思ったことはそれだった。
レイモンドはフェリシアとヴィクターよりも歳が上なだけあって、ヴィクターよりも身長が高く、体格も大きい。ここ2年で鍛えたこともあり、大人の体格と遜色がない。つまり、その分、攻撃に重さがあった。
けれども本格的な練習を始めてから2年だ。物心ついた頃から訓練に明け暮れているヴィクター程の技量はない。普通に考えるなら、ヴィクターに慣れたフェリシアには難しい相手ではなかった。
それなのに、フェリシアは全身を研ぎ澄まして、向き合っていた。
レイモンドから発せられる気迫が、彼女をそこまで追い込んでいたのだ。
彼の動きには、婚約者への手加減も、女性への手加減もない。隙を見せれば、命を奪われるような凄みがあった。
恐らく時間にしては、5分にも満たない短い手合わせだったはずだ。
けれど、剣をレイモンドの喉元に突きつけて勝負を付けたフェリシアは、自分が誰と手合わせしていたかも忘れるほど、集中していたことに気がついた。
息を弾ませたまま、呆然と目の前のレイモンドを見つめていると、彼はゆっくりと笑顔を浮かべた。
「やはり、フェリは強いね」
純粋な賞賛に、トクリと鼓動が高まった。意識は戻ったというのに、なぜだか彼の笑顔から目が離せない。
息を整えながら、彼は少し苦笑した。
「悔しいけれど、フェリは武芸に勤しんでいるときが一番生き生きしているね。……私とのお茶会の時間よりも」
耳元に囁きを落としてレイモンドは練習場から去り、皆が落ち着きを取り戻した頃、ヴィクターが近づいてきて呟いた。
「強くないが、強い相手だったな」
その言葉に強く同意したとき、またトクリと鼓動が跳ねた。
ヴィクターの言うとおり、レイモンドの武芸の腕は、騎士の基準からすれば強くはなかった。騎士の中では中の上ほどの技量だった。
けれど、それを承知しながら、多くの視線を浴びる中で自分と手合わせしてくれたのだ。全身全霊をかけて。
そして予想どおり負けたけれど、それを僻むこともなく、フェリシアの強さを認め、称えてくれた。
彼の強さを感じた。
きっと騎士の皆に、彼は見せたかったのだろう。強い者に負けただけなのだと。
好き――。
ふっと浮かび上がった想いに、 光が駆け抜けた気がした。
生まれたばかりの想いは、勢いを付けて彼女を満たしていく。想いに埋め尽くされた彼女は、大切な想いを、もう一度、言葉に紡いだ。
私は、彼のことが好き――。
これが、フェリシアが恋を知った瞬間だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
お読み下さりありがとうございました。お気づきの方もいらしたかも知れませんが、恋愛小説大賞(申し訳ございません。正式名称を控えていませんでした)に参加していました。期間中、応援下さりありがとうございました。
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