この愛を思い知れ

我利我利亡者

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おまけ4

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 この頃、エリックは不安でモヤモヤとした鬱屈するような日々を過ごしていた。体調やメンタルといった自己に関するコントロールがしっかりとできるエリックがここまで塞ぎ込む理由は言うまでもない。唯一コントロールの範疇外に居る彼の愛してやまないユージーンその人が、エリックの悩みの種だからだ。
 とは言っても別にユージーンが問題行動を起こしてエリックを困らせ、心に漣を立たせている訳ではない。むしろ一見したところはその逆で、ユージーンはエリックの完璧な伴侶として毎日を過ごしている。ユージーンは仕事に家事に一生懸命でその手腕は非の打ち所がないし、エリックに対する愛情を隠しもしない。ユージーンが朝一番に起きてする事と言えばエリックの顔を見てふんにゃり笑う事だったし、夜だってエリックに引っ付いて離れようともしなかった。
 さて、それではユージーンの何がそこまでエリックを悩ましているのだろうか? 浪費癖があって家計を食い潰している? いや、むしろユージーンは倹約家で任された金額内で上手に必要になってくる様々な出費をやりくりしている。それなら、服装の趣味が物凄く悪いとか? 確かにユージーンは服装に興味はないが、センスは普通だしいつもシンプルなデザインの服ばかり選んで着ているので悪い意味で目を引く事はない。身だしなみに気を使ってない訳でもないし、少なくとも隣に立ちたくなくなるような格好はしていなかった。だとしたら何だ? 虚言癖でもあるのか? まさか、そんな筈ない。だってユージーンはエリックが今まであった中で、そしてきっとこれから会う中でも、1番誠実な人柄の人物だ。その言動には虚言癖の虚の字もない。
 果たして、エリックが頭を悩ますユージーンの問題点とは、一体全体何なのだろうか? それを知る為にも、2人の生活をほんの少し、覗いてみよう……。
「……今日こそ聞く……。ジーンに思い切って聞く……。聞かなきゃ何も始まらない……」
 エリックとユージーンの2人が住む家は、町の外れの閑静な住宅地に建っている。人や物の行き来が盛んで賑わいのある町の中心部からは外れていて、住人も落ち着いた面々の多いこの場所は、前半生だけで十分騒ぎに巻き込まれて疲れたので、後は穏やかに暮らしたい2人にとってはとてもいい立地だった。チラホラと各々の家に向けて家路を急ぐ人波に紛れながら、エリックは口の中でブツブツと何事かを呟いている。
「いつまでもウジウジしてちゃ何も始まらない。ジーンとずっと一緒に居たいなら、そう思えばこそ、ちゃんと話をして後顧の憂いを絶たなくては……」
 どこか疲弊し座ったような目つきでそんな事を独りごちながら、エリックは足を進める。やがて、そう暫くもしない内に彼は自分達の家の扉の前に立った。扉の横の窓からは暖かな明かりが漏れていて、中からは腹の空いてくるいい匂いがする。今日の食事当番であるユージーンが、エリックの為に明かりを付けて食事の準備をしてくれているのだ。以前ならばその事実を考えただけでエリックの頬は幸せに緩んでいたのに、今は違う。エリックは明らかに悲しげな表情を作り、苦しそうに唇を引き結んでいた。
 エリックは自宅の玄関扉を睨みつけるようにして鋭い目付きで見て、一瞬キュッと渋面を作ったが、直ぐにそれを引っこめる。なんでもないような表情を顔面に貼り付けると、ドアノブを握ってなんでもない風を装いつつ扉を開け家に入った。
「ただいま、ジーン」
「あ、リック! お帰り。待っててね、お夕飯あと少しでできるから」
 キッチンに立っていたユージーンが振り返り帰宅したエリックに柔らかく微笑みかける。エリックが傍まで近寄ると、切り途中の野菜と手に持った包丁を気にして上体だけしか振り返らなかったが、ユージーンはそれでも抱き締めさせてくれた。暖かな我が家、美しい伴侶、その伴侶の作ってくれた美味しい食事。幸せを絵に描いたようなその光景に、エリックは思わず頬を緩ませる。しかし、その笑顔はあっという間に胸中に巣食う不安のせいで直ぐに引っ込んでしまい、不自然に思われない程度に取り繕った笑みに取って変わってしまう。エリックはその事をユージーンに気が付かれないように、大急ぎで手を洗いに行く風を装ってその場を離れた。
 エリックが手を洗い部屋着に着替えてユージーンの元に戻ると、ユージーンが丁度食事の準備を終えた所だ。エリックもカトラリーを出してユージーンを手伝う。
「よし、準備できた! それじゃあ、食べようか」
「ああ、そうだな」
 2人で向かい合って席につき、食前の祈りをこなしてから食事を始めた。時々会話を挟みながら、和やかに食事は進む。とても平和な光景だ。しかし、顔面に貼り付け装った穏やかな笑顔とは裏腹に、エリックの心中はとても暗い。さて、それでは何がそこまでエリックを悩ませているのか。この光景を見ただけではまだ説明不足だろうから、1つずつ説明していこう。
 先ず、エリックが家に帰ってきたのはそれなりに遅い時間だ。ユージーンの作る夕食に間に合わない程ではないが、完成にギリギリ間に合っていないくらいの時刻にエリックは家に帰ってきた……筈だった。そう、。それなのにどうだろう。今日帰ってみればユージーンは未だ食事の準備を終えていない。別にエリックは作ってもらっている身で文句を言う気はないし、なんならユージーンの手料理が食べられるのなら、3日間待たされてその間断食したっていいと本気で考えているくらいである。
 では、何が問題なのか? ユージーンはキッチリした性格である。待ち合わせだとか、約束だとか、他人も絡むような決め事は事の他決められた時間を守り通そうとする。更に言うと前まではユージーンに早く会いたくて定時後即ダッシュで帰ってくるエリックの帰りに間に合うように食事の用意をしてくれていた。それがここ2ヶ月程、今日のように遅れるようになったのだ。まるで、何か他の事に時間を割いていて、準備が間に合わなかった、とでも言うかのように……。
 別にそれだけの事でエリックは目くじらを立てたりなんかしない。エリックのユージーンに対する甘やかしは天井知らずだから。だが、違和感は他にもある。先程帰宅の挨拶と共にエリックがユージーンにしたハグ。その時ユージーンからほのかに香ってきた、嗅ぎなれない香り。夕食の支度中という事もあり食べ物の匂いに紛れてしまってハッキリとわかった訳ではないが、あれは確かにだった。ユージーンは香水はつけないし、あの人工的で華やかな香りは、明らかに自然由来のもので芳香のする何かの側に居て移ったものではない。誰か香水をつけている人間からの移り香だろう。それはつまり、ユージーンが誰かと香りが移るくらい近くに、長時間一緒に居たという事に他ならない。
 そして、1番決定的な事。それはエリックがユージーンの数々の異変に。エリックはユージーンを愛している。それこそ、好き過ぎて爪の先を鑢がけしたとか、前髪を少しすいたとか、そんな些細な変化にすら言われる前に気がついてしまうくらいには。エリックに対するユージーンだってそうだ。いや、その筈だった……と言うべきか。
 確かにエリックはユージーンに対して自分が少なからず不信感を覚え始めているのを隠している。隠してはいるが、それでも聡くて気が利いて、エリックの事が大好きで彼に関するならどんな事も見逃さない以前のユージーンなら、エリックの変化に目敏く気が付いてくれた筈なのに。ところが、最近はどうだろう。ユージーン相手ならどう頑張っても隠しきれないであろうエリックの違和感を、ユージーンは見逃している。
 そのせいでエリックの脳内にはこんな不安が生まれていた。まさか……ユージーンはエリックに対する興味を失ってしまったのではないか? そのせいでエリックの事がどうでも良くなり、変化に気がつけなくなった、若しくは気がついても放置して見なかった振りをしているんじゃ……。そんな恐ろしい予想に、エリックはゾワリと背筋を震わせた。
「リック、どうしたの? ボーッとしてる?」
「ん、ああ。ユージーンの手料理が美味しくて、感動してた」
「えー? もう、なにそれ。フフッ。でも、有難う」
 エリックの言葉に照れ臭そうにはにかむユージーン。この上なく幸せな筈のその光景にすら、引っ掛かる雑念が多過ぎてエリックは前程喜べない。それでも何とかぎこちないながらも笑みを返す。明らかに様子がおかしいであろうその表情に、ユージーンは一切言及しない。
「ふー、食べた食べた。お皿洗っちゃおっと」
「ああ、皿洗いは俺がやっとくから、ジーンは先風呂に入ってきなよ」
「え、でも、リックの方が遅くまで働いて疲れてるだろうし、先に入って早く休んだ方がいいんじゃ」
「確かに退勤時間は俺の方が遅いが、家に帰ってからも家事をしてくれてたんだから、ユージーンだって疲れてるだろ? 折角先に食べ終わったんだから、湯船に浸かってゆっくりしてくるといい。それに、料理してもらったんだから、皿洗いぐらいさせてくれ」
「そう? それじゃあ、お言葉に甘えて」
 食器を流しに置いてお風呂お先にー、とエリックに手を振りつつ部屋を出ていくユージーン。エリックはその後ろ姿が壁の向こうに消えて見えなくなるまで笑顔を保ち続け見送った。ユージーンの足音が十分な程遠ざかり、浴室の方から水音が聞こえてくるようになってから、エリックはようやく笑顔を引っ込め大きな溜息を着く。
 エリックにとって、今の毎日はとても辛いものだった。自分は今でもユージーンを愛していると自負できるし毎日のように愛情が強まっていくのを感じているのに、ユージーンからの愛情を前程実感できなくなっているからだ。別に酷い事をされてる訳ではない。給料を全部取り上げられて財布扱いされている訳でも、毎日のハグやキスもいつも通りの量から目減りしてスキンシップがなくなった訳でもないからだ。
 それでもエリックは、ユージーンの些細な変化から、自分が彼から受けとっていると思っている愛情は本物なのか、己の願望が生み出した虚像ではないのか、と疑ってしまう。心做しかユージーンの作ってくれた美味しい夕飯も前より味気なく感じ、食が進まずタッパと一口の量ではこちらが勝る筈のユージーンより食べるのが遅くなってしまったくらいだ。自分がどうしようもないドツボに嵌っているのを感じ、エリックはまた溜息を繰り返す。
「また今日も、聞けなかった……」
 ユージーンに最近様子がおかしいように感じるが、なにか困り事はないか。それか、もし自分に直すべきところがあるのなら一思いに教えて欲しい。エリックが口にしようと思った質問は覚悟が固まらず結局胸の辺りで蟠ったままだ。ただ、漫然とした息苦しさのようなものだけがエリックの胸中に降り積もっていく。エリックにはただ、悶々と悩み続ける事しかできなかった。
 それから数日後の事である。その日もエリックはトボトボとと家に向かう道を歩いていた。この日の帰宅は随分早い。ここの所家に帰るのが憂鬱になって仕事に打ち込み、態と遅くに帰るようにしていたが、それを差し引いても早過ぎる。それも無理もない。今日のエリックは『ここのところ明らかに様子がおかしい。早退していいから愛する伴侶の顔を見て回復してこい』と変に気を回した仕事仲間に早々に職場を追い出されてしまったのだ。以前までなら大喜びだった早引けと帰宅だったが、残念ながら今のエリックは素直に喜べなかった。
 予告なく早く家に帰ってユージーンに嫌な顔をされたら……全く歓迎して貰えず本来の帰宅時間まで家に入れて貰えなかったら……。優しいユージーンがそんな事をする筈ないのに、ありもしない不安が首を擡げてくる始末。しかし、だからと言って家の外で時間を潰すのもまずい。ここら辺の人間は全員顔見知りだし、良くも悪くもエリックはかっこよくて仕事のできるユージーン自慢の旦那様として有名だ。道草を食おうものならたちまちユージーンの知る所になるだろう。それでこれ以上妙な空気になったらたまったもんじゃない。仕方なしにエリックは、重たい足を引き擦るようにして家路を進んだ。きっと大丈夫。ユージーンは俺を拒否しない……愛してくれている……今か今かと俺の帰りを待っている……。うわ言のように口の中でそんな事を呟くエリック。しかし、そんな淡い期待は、見事に裏切られてしまう事になる。
「……誰だよ、あいつ」
 エリックが視線を向けたその先。ユージーンとエリックの愛の巣である筈の家の庭先に、2人分の人影が立っている。片方は見間違えようもないエリックの最愛、ユージーン。そしてその傍らに寄り添うようにして立つのは、見た事もない若い男で……。
「ジーン!」
「あれっ、リック? こんな時間にどうし、うわっ!」
 気がつくと、エリックはユージーンに飛び掛るようにしてその細い手首を掴み、半開きだった玄関扉から家の中に引き摺りこんでいた。扉を乱暴に閉め、同時にガチャリと鍵をかける。それが終わるや否やエリックは、強い力でユージーンを壁に押付けた。エリックはこんな時までユージーンに配慮してそこまで強くはしなかったが、それでも体の自由を奪うには十分な強さだ。何が起きたのか理解が追いついていないのか、大きな目をパチクリとさせるユージーンを見下ろすエリック。その瞳はどす黒く沈み、一切の光を宿していない。
「ジーン……。さっき隣に居たのは誰だ……?」
「え、誰って、その……。友達、だけど?」
 ユージーンは無駄に正直者だ。そう、に。嘘は付けないし隠し事も滅法苦手。相手が気心知れて誠実で居る為に隠し事なんかしたくない相手筆頭のエリックなら、尚更。そうでなくともユージーンの事をよく知っているエリックである。ユージーンが何かを隠そうとしているなら、いの一番に気がつくだろう。しかし、この時のユージーンは狼狽えているだけで嘘をついているような様子は一切見られなかった。まさか、本当に友達なのか……? いいや、そんな事有り得ない。猜疑心の塊になったエリックは、ユージーンの言葉を素直に受け入れられなかった。
「友達? へえ、友達……、ねえ? 本当に、なのか?」
「え? 何を言ってるの? 当たり前じゃん! 友達じゃなかったらなんだって言うの?」
 何を当たり前の事を、と言わんばかりにキョトンとした表情を見せるユージーン。いつもなら普通だったら間抜けに映るようなこんな表情でも、ユージーンは可愛いなあなんて馬鹿な事を考える所だったが、今日のエリックはそれ所ではない。なんと言っても最愛の伴侶の隣に、何処の馬の骨ともしれない男が寄り添うようにして立っていたのである。それだけでも腸が煮えくり返りそうなのに、自分を心から愛してくれている筈の伴侶は何もないだなんて見え透いた嘘を着いているのだ。この時エリックの脳内には、凄まじい嵐が吹き荒れていた。
「それより、リック。今日は帰ってくるのがやけに早かったね。どうかしたの? ……あ、若しかして」
「俺の事はどうだっていい、話を逸らさないでくれ……!」
「え、ごめん……。えっと、リック? 何だか様子が変だよ? 具合が悪いなら無理せずお医者さんを」
「ジーン、お前はそこまで俺と2人で居たくないのか?」
「へ? そんな事全くないけど……」
 エリックの問いかけに何を馬鹿な事をとでも言いたげな呆れ顔をするユージーン。しかし、猜疑心に塗れたエリックには、それすらも態とらしく思えてしまう。ユージーンが、自分以外と一緒に居た。そして今度は自分と二人きりにならないようにしている。やっぱり、ユージーンはもう自分を愛してくれていないのでは……。そんな考えがエリックの頭を過ぎった。
 そんな、ユージーンがもう愛してくれていないなんて。この人と共に生きられるのなら地獄でも天国になり変わると思ったけれど、彼が隣に居てくれないのなら現世ですら地獄よりも辛過ぎて生きていく事はできっこない。自分はまだ、こんなにもユージーンを愛しているのに、彼からほんの少しでも思いを返して貰えないなんて……。泣きたくなるような考えがエリックの頭の中に去来し、ジワリジワリと絶望で思考が黒く塗り潰されていく。
 エリックにとってユージーンは全てだ。例えではなく、文字通りの意味で。例え自分の手足がもげてはらわたが引き摺り出されていようがユージーンが笑っているのならそれだけで幸せだし、どんなに多くの富や名声を得てもユージーンが泣いていたら途端に不幸になる。正しく、ユージーンはエリックにとって幸不幸を決める指針のようなものだった。彼に愛して貰えている限り、エリックはどれだけでも強くなれる。けれど……もし、ユージーンの気持ちがエリックから離れたらどうだろう? それどころか、ユージーンが他の人間を愛すようになんてなったら……。そんなの、絶望の二文字では軽々しく言い表せないだろう。
 だからこそ、エリックの指先は壁に押さえつけているユージーンの体から離れ、その首へと移行した。ホッソリとして美しく、白く柔らかいユージーンの首。指先に少し力を入れるだけで、簡単に手折れてしまいそうだ。エリックはそこを、指が食い込まない程度の強さでキュッと力を込めて締め付ける。
「リック?」
「……ジーン、お前にもう愛して貰えないなんて、そんなの俺は耐えられない。そんな事受け入れるくらいなら、いっその事この手で一思いにお前を……そして、その後俺も……」
 こちらを見上げてくるなんの憂いも含まない純真無垢な瞳の輝きを、エリックはこの時ばかりはほんの少し恨めしく思った。そんな信頼し切ったような目でこっちを見ておきながら、本当の意味でこの瞳に自分が映る事も、この唇が真実の愛を囁く事も、指先が大切そうに触れてくれる事も、全てもう叶わない。それはなんという地獄だろうか。今この瞬間にもただただユージーンが大切で、愛しくて、エリックは気も狂ってしまいそうな程だ。それなのにもう愛する人の中にはエリックが居ない。少なくとも前程には。そんな事エリックには、到底受け入れられなかった。
 ただ、思うがままに指先に力を込め始める。ジワリジワリと苦しくなっていっているだろうユージーンの首元。しかし、なんという事だろうか。ユージーンは今正に様子のおかしい相手に首に手をかけられているというのに、一切の危機感も浮かべず、当たり前の事を述べるトーンでとんでもない事を言うのだ。
「は? 何言ってんの? 心から愛してるけど?」
 エリックが何か反応を返す前に、ユージーンは手を伸ばしてエリックの頬に触れる。そうして愛しげな手つきで頬骨から顎先までを何度も往復するように撫でた。今なら首を絞め始めているエリックの手を外させる事もできたろうに、ユージーンはそうせずエリックにただ触れる事を優先させた。エリックが自分を傷つけるなんて事、一切疑っていないのだろう。その瞳は相変わらずキラキラと煌めきながら真っ直ぐエリックの目に向けられていて、まるでかけがえのない相手でも目の前にしているみたいに熱っぽく蕩けた。たったそれだけの事でエリックは1ミリたりとも動けなくなる。ユージーンがまだ自分を愛しているのではないかという幻想を垣間見てしまい、その幻にみっともなく縋って泣き喚きたくなってしまったのだ。
 ああ、駄目だ。自分にこの人は殺せない。例え今見た全てが嘘の演技でも、彼がもう自分を愛してくれなくても、心から愛するこの素晴らしい人を損なうなんて事、俺にはできない。エリックは呆然とそんな事を考え、ユージーンの首にかけていた手から力を抜いた。
「リック? 本当に様子がおかしいよ? やっぱりお医者様を呼ぼうか」
「いや、医者は要らん……」
「でも」
「本当に要らないんだ」
「そう……。ならせめて、今日は早めに休もう? 大好きなあなたに無理はして欲しくないんだ」
 ユージーンがエリックの手を引いてベッドルームへと足を向ける。エリックはそれに大人しくついて行った。トボトボと歩くその姿は傍から見ていて心配になる程に頼りない。ほんの少し風が吹いただけで霞んで消えてしまいそうに思える程だ。そんな様子をユージーンは心配そうにチラチラと振り返る。その事を分かっていながらも、エリックはこれまでのように微笑みかけて安心させてやる事ができなかった。今はユージーンの顔を見るだけで、我慢している涙が溢れ出しそうだったからだ。落ち込んだ様子で黙りこくるエリックに心配が募ったのだろうか。当たりを包む静寂を打ち破って、ユージーンが口を開く。
「それにしても、残念だね。折角の誕生日だったのに……」
「は? 誕生、日……?」
「え……、なんで驚いてるの……? 若しかして、気がついてなかったの……!?」
 ガバリと凄まじい勢いで振り返り、今にも嘘だろう!? と叫び出しそうな表情を見せるユージーン。対するエリックはポカンとしたまま頭の中を取りとめもない思考の断片が飛び交うばかりだ。誕生日? 誰の? ジーンの……ではないな。それなら次のはまだ大分先だ。知り合いや友人の誕生日、というのも会話の文脈的におかしい。ここで1番予測される誕生日の主は……。
「……今日、俺の誕生日なのか?」
「そうだよ!  僕の実家にいる頃、一緒に書類見て調べたじゃん! あの頃は色々制約が多くてちゃんと祝えなかったけど、もう柵は何もないんだから大手を振って祝えるって、張り切ったのに……!」
 エリックが自身の誕生日を失念していた事にユージーンは驚愕しきりの様子だ。まあ、ユージーンとしてはあれだけ僕の誕生日にテンションぶち上げて祝いまくってた癖に、いざ自分の番となったらやる気なさ過ぎだろ! という気持ちなのだろう。エリックに誕生日を祝って貰えて嬉しかった分彼の誕生日を楽しみにしていたユージーンからしてみれば、肩透かしを食らったようなものに違いない。
「え、待って。じゃあ最近様子がおかしかったのは、僕が準備してたサプライズのお祝いがバレてて、けどリックは優しいからそれを見ない振りしてくれてたからじゃないの?」
「サプライズ……? お祝い……?」
「なんてこった! あれが見ないフリしてくれてるからなんじゃなかったら、ずっと前から具合悪かったんじゃん! やっぱりお医者様を呼ぼうよ!」
 ワタワタと慌て始めたユージーンを、エリックは取り敢えず手で押し留める。本当に医者は必要なかったし、何より今の2人に必要なのは、話し合いだと分かり始めていたからだ。どうやら2人の認識には、重大な齟齬があるらしい。エリックだけでなくユージーンもだんだんその事を察してきたようだ。寝室に向かっていた進行方向をリビングへと切りかえ、エリックを先導し扉を開ける。その先に拡がっていたのは。
「見てよ! リック! この馬鹿みたいに飾り付けられたリビングを! あなたの誕生日パーティーを催す為に早引けして皆で頑張って飾り付けたんだよ! 本当に事前準備とかで気が付かなかったの!? いや、サプライズだから気が付かないのが1番なんだけどさ!」
「という事は、最近夕飯の支度が少し遅かったのは……」
「お夕飯の準備前、あなたが帰宅する前にプレゼントやサプライズパーティーの準備してたからですけど!?」
「じゃあ、ジーンから嗅ぎ慣れない香水の香りがしたのは……」
「ああ、それ? 多分奥様方の香水の香りが移ったんだね。リックの誕生日祝いを盛大にやりたいって言ったら。ご近所の人達が手伝ってくれたんだよ。なんか知らないけど皆めかしこんで僕達の家に来るから、その時の香水が移ったんだと思う」
「俺の異変に気が付かなかったのは……」
「僕が隠すの下手なせいでリックにサプライズパーティーを計画しているのがバレちゃってて、それでも優しいリックが知らないフリをしてくれてるから様子がおかしいんだと思ってたんだけど……。どうやら違うみたいだね?」
「で、でも、さっき知らない男と庭先に2人っきりでいたし……」
「リック……。覚えてないの? まあ、成長期もあってかなり見違えたけどさ。彼は斜向かいのご夫婦の3番目の息子さんの、チャールズだよ? ほら、この春から遠くの学校に行く為に家を出た、赤毛の可愛いチャールズ坊や。2人で一緒に友達になったじゃない。僕達にとっても懐いてたから、休みを利用してお祝いに駆けつけてくれたの。ていうか、しゃがんでて見えにくかったけどあの場には他にも5人くらい人が居たからね? パーティーの準備作業の小休憩に皆でお庭の花を見てたんだよ」
「……」
 疑念が完膚なきまでに次々と晴らされ、エリックはもう絶句するしかない。バラバラだったのを無理矢理当て嵌めて大きな疑念に育て上げていた事実のピースが、今度は無理なく組み合わさって真実を目の前に突きつけてきた。ユージーンの心が離れていったと思っていたのに、実際はユージーンの気持ちは変わらずで、それどころか愛情故に本人ですら忘れていた誕生日を他人を巻き込んでまで大掛かりに祝おうとしてくれていたのだという。もうエリックは色んな感情がグチャグチャにせめぎ合って、泣き笑いのような表情で呆然とするしかできなくなってしまっていた。
「ジーン……。俺、てっきりお前の気持ちが俺から離れたんじゃないかと思っちゃって……」
「はぁ!? んなわけないじゃん! 僕が愛してるのは後にも先にもあなただけなんですけど!? ……でも、そんな不安な思いをさせてしまってたんだね。ごめんよ、直ぐに気がつけなくて。もっと積極的に愛情を伝えるべきだったね」
「いや、ジーンは充分よくやってくれてるよ。これは俺の気持ちの問題だ。だって、ジーン。考えるに恐ろしいことだが、俺は……俺はお前を他の奴に渡すくらいなら、いっそ一思いにお前の事を殺してしまおうとまで……」
「そんなに塞ぎこまないで、リック。大丈夫。僕が不誠実な事をしたら、躊躇いなく殺していいよ。それで僕を全部あなたのものにして、どこにも行けないようにしていいんだ。あなたが不安に思うのなら、僕は誰にも会わなくてもいいし、手足や目を潰したっていい覚悟だってある」
「ジーン、俺を甘やかさないでくれ……」
「甘やかしてるんじゃない。僕は口先だけじゃない、本気の覚悟を持ってあなたにこんな事を言っているんだ。折角結婚したんだから、辛い事は1人で抱え込まないで僕にも背負わせてよ。僕はあなたにもっと甘えて欲しい。あなたを不安に思わせないように何度でも愛を伝えるつもりだけど、それだけじゃ足りないんだ。リックはもっと欲張っていいんだ。あなたが僕に向けてくれる独占欲を嬉しいと思う事はあっても、煩わしいだなんて思いもしないよ」
「ジーン……」
「リック……」
 ウットリと見つめ合う2人。自然と手と手を繋いで、体の距離が近づく。エリックが腰をかがめてユージーンの方に顔を近づければ、ユージーンの方は僅かに背伸びをしてエリックの方に顔を近づける。そうして2人の顔の距離が縮まり、とうとう唇が触れ合おうかという……その時。

コンコン

「あのー、エリックさん、ユージーンさん? 大丈夫ですか……?」
 扉をノックして声をかけてきた第三者の存在に、2人は動きをピタリと止める。どうやら、突然予定より早く現れたエリックがユージーンを連れて止めるまもなく家に入ってしまった事で、ユージーンと一緒に外で花を見ていた面々が心配して様子を伺っているらしい。暫くどうしたものかと戸惑っていたのかもしれないが、流石になんの音沙汰もなく心配になったのだろう。当事者2人は後少しでキスができる距離で逡巡するように固まっていたが、再び不安そうな様子でノックを繰り返されて不承不承体を離した。
「エリックさん、ユージーンさ……。あ、出てきた!」
「すいません、驚かせちゃいましたね」
「いや、それはいいんですけど……大丈夫ですか? さっきエリックさん顔色悪かったし表情も強ばってましたけど……。ユージーンさん捕まえて家の中に飛び込んじゃうし」
「いやー、仕事でストレスが溜まってたんですよ。今日早く帰ってきたのもそれで同僚に心配されたからなんです。溜まったストレスのせいでジーンの姿を見た途端に我慢できなくなって、躾のなってない犬みたいに飛びついちゃいまして……。いやー、お恥ずかしい」
「ああ、それであんな感じに。いやあ、相変わらずお熱いですねえ。具合はもういいんですか?」
「ええ、もうスッカリ! ジーンが計画してくれた誕生日パーティーが楽しみで、ワクワクしてるくらいです!」
「アハハ、それは良かったです」
 そんなことを話している間に、パーティーの開始に間に合うようにまた何人か2人の知り合いがやってくる。立ち話もなんなので、ユージーン達は家に客人を招き入れた。パーティーの準備があと少し残っていたので、それをやっつけつつ談笑しながら過ごせば楽しい時間はあっという間だ。全員揃った客人に盛大に誕生日を祝って貰えたエリックは、照れ臭そうにしながらもなかなか嬉しそうにしていた。まあ、1番嬉しそうにしていたのは、常時隣に侍らせたユージーンにケーキをあーんしてもらったり、甘えられて何回もキスをされたりした時だったのだが。存在を忘れるくらい自分の誕生日に関心のないエリックだったが、今回の誕生日パーティーはいたくお気に召したようだった。
 1度はユージーンの気持ちが自分から離れたのかと絶望し、無理心中未遂までしかけたエリックだったが、誕生日パーティーが終わる頃にはそんな後暗い気持ちは完全に払拭されたようだ。まあ、エリックに不安な思いをさせてしまった事を気に病んだユージーンが、心を込めてエリックに尽くして甘やかし、世話を焼きまくったのだから当然だろう。エリックを二度と不安にさせまいと張り切って、あれやこれやと細やかな心遣いをしてくれるユージーンにエリックはもう頬が緩みっぱなしだ。ここの所の不安定な心情を補って更にお釣りが出るくらい幸せな気持ちで、エリックは始終ユージーンにベッタリと引っ付いていた。
 人間である以上、どんなに互いに理解し合っていて、同時に愛し合っていても誤解や擦れ違いが起きるのは仕方のない事だ。相手を愛すればこそ、聞けない事や確かめられない事が増えていくのもまた事実。エリックとユージーンにも、また何か危機が訪れるかもしれない。それでも、この2人ならその都度無事に乗り越えられるだろう。愛し合う2人なら、きっと。
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fuu
2025.01.26 fuu

★★★

解除

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