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第五話 弘徽殿の中宮
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「まったく……」
左近衛府の官舎にて、かの男は不貞腐れていた。
黒地に輪無唐草紋が浮き彫りされた闕腋袍 (※従四位の武官服)に身を包み、片肘をどんっと文台に置いた彼は、そこに顎をのせて眉を寄せる。
お陰で積まれていた書の山が崩れ、派手な音を立てて床に落下していく。
「おい、冬真。筆を止めるなよ。終わらなくなるぞ」
そう冬真を注意したのは、左近衛府のもう一人の中将・九条義隆である。
「どこのどいつか知らんが、任務怠慢にもほどがある!」
冬真の乱暴な仕草によって目の前の視界は開けたが、書の山は周りに幾つもある。どれもこれまで大内裏での警備の記録、起きた事件の詳細など記されたものだが、そろそろ新しいものにまとめねばと思っているうちに、たまりにたまったらしい。お陰で下級武官を総動員しても終わらず、左近衛中将である冬真たちまで手伝う羽目になった。
もともとじっとしていることが嫌いな冬真は、数冊片付けて音を上げた。
「惰眠を貪っていたお前がいうなよ……」
なんでも冬真は、何度か船を漕いでいたらしい。
幸い、それを咎める左近衛府の長官である大将はこの場にいない。
「げっ……」
視線を落とした冬真は、自分が担当していた書を見て吃驚した。
墨の線がまっすぐ伸びたかと思えば右に折れ、更に左、斜めと、それは文字というよりも、何かの生き物に近い。
わかったのは、それ最初から書き直すことになったということだ。
冬真がようやく筆を走らせてしばらく、義隆が徐に口を開いた。
「そういえば、小倉山北東の廃寺に髑髏の妖が棲み着いたらしい」
「次から次へと、よくもまぁ事件が続くもんだ」
小倉山は紅葉の名所で、西麓と南麓は桂川が流れ、東麓は嵯峨野である。
「感心している場合じゃないぞ。いる場所が問題なんだ」
王都にいても問題だと思うが、小倉山の北東になにがあるといえば、風葬地・化野がある。その廃寺は化野に近く、亡者が妖に呼ばれ、百鬼夜行を始めないだろうかと、噂になっているという。
「つまり、怨霊として祟るのではと?」
「ああ。現に、藤壺にいるだろ?」
「かの女御が、祟りに現れているというのか?」
「皆、公然と口にはしないが、――お前も気をつけろよ」
義隆が、冬真に気をつけろと言ったのは「お前も藤原一門」だかららしい。
まさか藤原姓全てを祟るとは思えなかったが、飛香舎の前主・藤壺の女御は関白父娘に呪詛され、この子・第一宮も呪詛されたと当時は密かに噂になったという。
確かに関白にすれば、第一皇子が東宮宣下を受けて次期帝となると、外祖父となる関白の目論見は外れていただろう。しかも、子を産んだ藤壺の女御は藤原の血筋ではない。
(あの関白さまならやりかねないが、中宮さまはどうだろう)
中宮・藤原瞳子は薫橘の君と呼ばれるほどの美女だ。
性格は父親の関白・頼房に似ず優しく、帝が恋に走っても嫉妬するような女人ではないという。しかしこの噂について、頼房は否定しているらしい。
こうなると忙しくなるのは、近衛府ではなく陰陽寮であろう。
(また晴明に、美味い酒でも持っていくか……)
冬真はそう思いつつ、筆を走らせた。
◆
温明殿・内侍所では、女房たちが揉めていた。
「あなたがいきなさいよ!」
「いやよ! あなたのほうがいきなさいよ!」
行く行かないで揉める彼女たちに、藤原菖蒲は肩を落とし嘆息した。
「いったい、なにがあったんですの?」
「若菖蒲の君……」
(その呼び方はやめて欲しいんだけど……)
端午の節会生まれの勝ち気な姫――という意味でついた異称に、菖蒲は辟易していた。
「ここでは――」
苦笑すると、女房たちは畏まった。
「申し訳ございません……、藤典侍さま」
菖蒲の地位・典侍は内侍所では内侍の下、藤原姓のため「藤」を冠して藤典侍と呼ばれている。
聞けば、弘徽殿の中宮・瞳子が呼んでいるという。弘徽殿担当の女房が里に下がったため、呼ばれれば誰かが行かなくてはならない。
中宮と従姉妹である藤内侍・藤原章子が行けばいいと思うが、彼女曰く、内侍所の長が離れぬわけにはいかぬ――と言ったらしい。 彼女たちが弘徽殿で行きたがらないその理由は、一月前まで遡る。
当時、中宮は雀を飼っていた。その雀がある日、籠から消えた。恐らく、女房の誰かが餌をやろうと籠を開け、そのうちに逃げられてしまったのだろう。逃がした者を捕まえると、頭中将が言っているという。
(また、面倒な人物が……)
頭中将・藤原冬房――、右近衛府の中将にして、蔵人頭。さらに、関白・藤原頼房の次男となれば、いずれはである。いつも人好きのする顔をしているが、時折見せる冷ややかな笑みに、さすが父子と思ってしまう菖蒲である。
つまり、弘徽殿に行くと頭中将が待っていて、責められるのではないかと彼女たちは思っているらしい。
結局――。
「やっぱり、こうなるのよねぇ……」
弘徽殿に向かう簀子縁にて、菖蒲は上目遣いで嘆く。
彼女たちからさっさっと離れればよかったものを、苦手とする藤内侍に呼ばれてしまった。しかも藤典侍ではなく、敢えて若菖蒲の君と呼んでくること自体、怪しい。
案の定、菖蒲が弘徽殿に行かされることになった。
弘徽殿の廂の前で入室の許可を得た彼女は、思わず飛び退くという失態をやらしかけた。 中宮・瞳子といたのは頭中将ではなかったが――。
「やぁ、いつぞやはすまなかったねぇ」
白地に浮線綾文文様の直衣姿で、かの人物は微笑んだ。
檜扇越しに、瞳子が彼に視線を送っているが、かの人物も菖蒲もいえるわけがない。
かたや、他の女人の元に向かう途中で、かたやその男を幽鬼扱いした挙げ句、薙刀を振り下ろしました、などとは。
中宮といたのは、今上帝だったのである。
◆◆◆
日差しが注ぐ弘徽殿――、菖蒲からすれば滅多に来られない殿舎だが、この時ばかりは「即、帰りたい」と思ってしまう。
いや、帝に刃を振り下ろした不敬を働いたのだ。厳罰が下るかもしれない。
そもそもあの時――、幽鬼を退治してやろうと思ったのが災いした。
そんな菖蒲に比べれば、中宮・瞳子の装いは白から蘇芳へ移ろう撫子の襲に深緋の唐衣、波打つ黒髪がさらに美しく映えさせる。彼女は決して、薙刀など振り回したりはしないだろう。
しかしなぜか呼び出した人間を蚊帳の外に置いて、今上帝と中宮の舌戦が始まった。
「主上が、かの者とお知り合いとは、相変わらずお手が早いこと」
「中宮……、まるでわたしが盛りの付いた雄猫のような言い方だな……」
「似たようなものですわ、手を出すのなら、内侍所ではなく他の殿舎になさいませ。世話をしてくれるものがいなくなりましてよ? 主上」
美しい花には何とかというが、瞳子はかなりの棘を持っていたようだ。顔に似合わず、言葉は辛辣である。やはりあの関白の血筋と思ったが、関白・藤原頼房でも帝に対して、こうも嫌味は言わないだろう。確かに、菖蒲と出会った時でさえ帝は恋に走っている最中だったのだから、浮気されるほうとしては、嫌味を言いたくなるだろう。
しかし、嫉妬しているかいないのか、手を出しすぎと窘めておきながら、他の殿舎ならお構いまくという中宮・瞳子に、菖蒲は驚嘆した。
「あの……中宮さま……」
「あら、なぁに? 藤典侍」
「主上とはその……」
まさか薙刀で襲いかかりましたとはいえず、菖蒲は困窮した。
「そうだ中宮、彼女には手は出しておらぬ」
「あら、そうですの。前の内侍のこともあり、てっきりそうかと」
(なるほどね……)
最近まで瞳子の世話をし里に下がったという内侍――、恐らく帝の手がついたのだろう。
歴代の帝の中には、内侍との間に宮(※帝の子)を儲けた御仁もいたという。
帝は何かを言いかけて、半開きの蝙蝠扇でその口を隠した。
それから妙な間があき、帝が咳払いをした。
「どうだろうか? 中宮。彼女をそなたの新しい側仕えとするのは」
(はい?)
とんでもないことを言い出す帝に、菖蒲は唖然とした。
確かにあの藤内侍から離れられるのいいことだが。
「それはいいですわね? 主上」
すっかりその気の二人に、菖蒲は全力で辞退した。
これまで多少の失敗は許されてきたが、中宮の側となるとそうもいくまい。なにしろ雀の件で頭中将が犯人を捜しますなどと言っているくらいである。
どんな罰が与えられるかはわからないが、〝上品〟という言葉から離れている自分が、なにをしでかすか怖い。すると中宮・瞳子が話の矛先を菖蒲に向けた。
「藤内侍、あなたの武勇伝は聞きましてよ? あの藤原冬真どのと、泥棒を追い払ったんですって?」
(誰よ? そんな話を中宮さまに吹き込んだのは……)
恐らく、藤内侍・章子だろう。
忙しいと言いながら、よくも半月前の事を覚えているものである。
半月前――藤原南家は右大臣家に、賊が入った。
右大臣の息子は近衛府中将、よくもまぁそんな男が住んでいる邸にやってきたものだが、その日は菖蒲もやって来ていた。
菖蒲の邸は右大臣邸から少し行った所にあり、叔父と姪という間柄ということもあって、右大臣邸は我邸も同然であった。
賊はなんと、屋根から菖蒲が眠る北の対屋にやって来た。本来なら当主の正妻である北の方が暮らす場所だが、右大臣の北の方はとうに他界し、現在は菖蒲が訪ねてくると寝所となった。さて賊だが、菖蒲も驚いたが賊も驚いたようだ。
菖蒲は悲鳴も上げず、賊を睨んだのだから無理はない。
そのあとは、菖蒲は思い出すも恥ずかしい。
ただ、従兄である冬真に「お前が可愛らしい姫でなくてよかったよ」と言われたが。
確かに、その時は今のように女房装束ではなく、緋袴に五つ衣という小袿姿だったが、檜扇で男の顔を叩き、足を引っかけて転ばす姫は菖蒲ぐらいだろう。
いくらここでは存分に暴れてもいいと帝と瞳子に言われてもである。では遠慮なく、とはいかないだろう。
「ですが……中宮さま……」
言い募る菖蒲の言葉を、またも帝が遮った。
「藤内侍、例の幽鬼の件、存じていよう? もしアレが中宮を呪っているのならば、守って欲しいのだ」
「はぁ……」
気が重いが、帝に言われてしまっては嫌とはいえない。
「そういえば、主上。安倍晴明どのにも今回の件を依頼されたとか?」
「わたしとしては、アレが藤壺でなく、さらに、そなたたちを祟るモノではないと祈りたいのだよ」
帝の言う〝そなたたち〟の中には、関白も含まれているのだろう。
「主上、わたしも父も、藤壺さまと宮を呪詛などしておりませんわ」
まっすぐと帝を見据える瞳子の目は、偽りを言っているようには菖蒲には見えなかった。
左近衛府の官舎にて、かの男は不貞腐れていた。
黒地に輪無唐草紋が浮き彫りされた闕腋袍 (※従四位の武官服)に身を包み、片肘をどんっと文台に置いた彼は、そこに顎をのせて眉を寄せる。
お陰で積まれていた書の山が崩れ、派手な音を立てて床に落下していく。
「おい、冬真。筆を止めるなよ。終わらなくなるぞ」
そう冬真を注意したのは、左近衛府のもう一人の中将・九条義隆である。
「どこのどいつか知らんが、任務怠慢にもほどがある!」
冬真の乱暴な仕草によって目の前の視界は開けたが、書の山は周りに幾つもある。どれもこれまで大内裏での警備の記録、起きた事件の詳細など記されたものだが、そろそろ新しいものにまとめねばと思っているうちに、たまりにたまったらしい。お陰で下級武官を総動員しても終わらず、左近衛中将である冬真たちまで手伝う羽目になった。
もともとじっとしていることが嫌いな冬真は、数冊片付けて音を上げた。
「惰眠を貪っていたお前がいうなよ……」
なんでも冬真は、何度か船を漕いでいたらしい。
幸い、それを咎める左近衛府の長官である大将はこの場にいない。
「げっ……」
視線を落とした冬真は、自分が担当していた書を見て吃驚した。
墨の線がまっすぐ伸びたかと思えば右に折れ、更に左、斜めと、それは文字というよりも、何かの生き物に近い。
わかったのは、それ最初から書き直すことになったということだ。
冬真がようやく筆を走らせてしばらく、義隆が徐に口を開いた。
「そういえば、小倉山北東の廃寺に髑髏の妖が棲み着いたらしい」
「次から次へと、よくもまぁ事件が続くもんだ」
小倉山は紅葉の名所で、西麓と南麓は桂川が流れ、東麓は嵯峨野である。
「感心している場合じゃないぞ。いる場所が問題なんだ」
王都にいても問題だと思うが、小倉山の北東になにがあるといえば、風葬地・化野がある。その廃寺は化野に近く、亡者が妖に呼ばれ、百鬼夜行を始めないだろうかと、噂になっているという。
「つまり、怨霊として祟るのではと?」
「ああ。現に、藤壺にいるだろ?」
「かの女御が、祟りに現れているというのか?」
「皆、公然と口にはしないが、――お前も気をつけろよ」
義隆が、冬真に気をつけろと言ったのは「お前も藤原一門」だかららしい。
まさか藤原姓全てを祟るとは思えなかったが、飛香舎の前主・藤壺の女御は関白父娘に呪詛され、この子・第一宮も呪詛されたと当時は密かに噂になったという。
確かに関白にすれば、第一皇子が東宮宣下を受けて次期帝となると、外祖父となる関白の目論見は外れていただろう。しかも、子を産んだ藤壺の女御は藤原の血筋ではない。
(あの関白さまならやりかねないが、中宮さまはどうだろう)
中宮・藤原瞳子は薫橘の君と呼ばれるほどの美女だ。
性格は父親の関白・頼房に似ず優しく、帝が恋に走っても嫉妬するような女人ではないという。しかしこの噂について、頼房は否定しているらしい。
こうなると忙しくなるのは、近衛府ではなく陰陽寮であろう。
(また晴明に、美味い酒でも持っていくか……)
冬真はそう思いつつ、筆を走らせた。
◆
温明殿・内侍所では、女房たちが揉めていた。
「あなたがいきなさいよ!」
「いやよ! あなたのほうがいきなさいよ!」
行く行かないで揉める彼女たちに、藤原菖蒲は肩を落とし嘆息した。
「いったい、なにがあったんですの?」
「若菖蒲の君……」
(その呼び方はやめて欲しいんだけど……)
端午の節会生まれの勝ち気な姫――という意味でついた異称に、菖蒲は辟易していた。
「ここでは――」
苦笑すると、女房たちは畏まった。
「申し訳ございません……、藤典侍さま」
菖蒲の地位・典侍は内侍所では内侍の下、藤原姓のため「藤」を冠して藤典侍と呼ばれている。
聞けば、弘徽殿の中宮・瞳子が呼んでいるという。弘徽殿担当の女房が里に下がったため、呼ばれれば誰かが行かなくてはならない。
中宮と従姉妹である藤内侍・藤原章子が行けばいいと思うが、彼女曰く、内侍所の長が離れぬわけにはいかぬ――と言ったらしい。 彼女たちが弘徽殿で行きたがらないその理由は、一月前まで遡る。
当時、中宮は雀を飼っていた。その雀がある日、籠から消えた。恐らく、女房の誰かが餌をやろうと籠を開け、そのうちに逃げられてしまったのだろう。逃がした者を捕まえると、頭中将が言っているという。
(また、面倒な人物が……)
頭中将・藤原冬房――、右近衛府の中将にして、蔵人頭。さらに、関白・藤原頼房の次男となれば、いずれはである。いつも人好きのする顔をしているが、時折見せる冷ややかな笑みに、さすが父子と思ってしまう菖蒲である。
つまり、弘徽殿に行くと頭中将が待っていて、責められるのではないかと彼女たちは思っているらしい。
結局――。
「やっぱり、こうなるのよねぇ……」
弘徽殿に向かう簀子縁にて、菖蒲は上目遣いで嘆く。
彼女たちからさっさっと離れればよかったものを、苦手とする藤内侍に呼ばれてしまった。しかも藤典侍ではなく、敢えて若菖蒲の君と呼んでくること自体、怪しい。
案の定、菖蒲が弘徽殿に行かされることになった。
弘徽殿の廂の前で入室の許可を得た彼女は、思わず飛び退くという失態をやらしかけた。 中宮・瞳子といたのは頭中将ではなかったが――。
「やぁ、いつぞやはすまなかったねぇ」
白地に浮線綾文文様の直衣姿で、かの人物は微笑んだ。
檜扇越しに、瞳子が彼に視線を送っているが、かの人物も菖蒲もいえるわけがない。
かたや、他の女人の元に向かう途中で、かたやその男を幽鬼扱いした挙げ句、薙刀を振り下ろしました、などとは。
中宮といたのは、今上帝だったのである。
◆◆◆
日差しが注ぐ弘徽殿――、菖蒲からすれば滅多に来られない殿舎だが、この時ばかりは「即、帰りたい」と思ってしまう。
いや、帝に刃を振り下ろした不敬を働いたのだ。厳罰が下るかもしれない。
そもそもあの時――、幽鬼を退治してやろうと思ったのが災いした。
そんな菖蒲に比べれば、中宮・瞳子の装いは白から蘇芳へ移ろう撫子の襲に深緋の唐衣、波打つ黒髪がさらに美しく映えさせる。彼女は決して、薙刀など振り回したりはしないだろう。
しかしなぜか呼び出した人間を蚊帳の外に置いて、今上帝と中宮の舌戦が始まった。
「主上が、かの者とお知り合いとは、相変わらずお手が早いこと」
「中宮……、まるでわたしが盛りの付いた雄猫のような言い方だな……」
「似たようなものですわ、手を出すのなら、内侍所ではなく他の殿舎になさいませ。世話をしてくれるものがいなくなりましてよ? 主上」
美しい花には何とかというが、瞳子はかなりの棘を持っていたようだ。顔に似合わず、言葉は辛辣である。やはりあの関白の血筋と思ったが、関白・藤原頼房でも帝に対して、こうも嫌味は言わないだろう。確かに、菖蒲と出会った時でさえ帝は恋に走っている最中だったのだから、浮気されるほうとしては、嫌味を言いたくなるだろう。
しかし、嫉妬しているかいないのか、手を出しすぎと窘めておきながら、他の殿舎ならお構いまくという中宮・瞳子に、菖蒲は驚嘆した。
「あの……中宮さま……」
「あら、なぁに? 藤典侍」
「主上とはその……」
まさか薙刀で襲いかかりましたとはいえず、菖蒲は困窮した。
「そうだ中宮、彼女には手は出しておらぬ」
「あら、そうですの。前の内侍のこともあり、てっきりそうかと」
(なるほどね……)
最近まで瞳子の世話をし里に下がったという内侍――、恐らく帝の手がついたのだろう。
歴代の帝の中には、内侍との間に宮(※帝の子)を儲けた御仁もいたという。
帝は何かを言いかけて、半開きの蝙蝠扇でその口を隠した。
それから妙な間があき、帝が咳払いをした。
「どうだろうか? 中宮。彼女をそなたの新しい側仕えとするのは」
(はい?)
とんでもないことを言い出す帝に、菖蒲は唖然とした。
確かにあの藤内侍から離れられるのいいことだが。
「それはいいですわね? 主上」
すっかりその気の二人に、菖蒲は全力で辞退した。
これまで多少の失敗は許されてきたが、中宮の側となるとそうもいくまい。なにしろ雀の件で頭中将が犯人を捜しますなどと言っているくらいである。
どんな罰が与えられるかはわからないが、〝上品〟という言葉から離れている自分が、なにをしでかすか怖い。すると中宮・瞳子が話の矛先を菖蒲に向けた。
「藤内侍、あなたの武勇伝は聞きましてよ? あの藤原冬真どのと、泥棒を追い払ったんですって?」
(誰よ? そんな話を中宮さまに吹き込んだのは……)
恐らく、藤内侍・章子だろう。
忙しいと言いながら、よくも半月前の事を覚えているものである。
半月前――藤原南家は右大臣家に、賊が入った。
右大臣の息子は近衛府中将、よくもまぁそんな男が住んでいる邸にやってきたものだが、その日は菖蒲もやって来ていた。
菖蒲の邸は右大臣邸から少し行った所にあり、叔父と姪という間柄ということもあって、右大臣邸は我邸も同然であった。
賊はなんと、屋根から菖蒲が眠る北の対屋にやって来た。本来なら当主の正妻である北の方が暮らす場所だが、右大臣の北の方はとうに他界し、現在は菖蒲が訪ねてくると寝所となった。さて賊だが、菖蒲も驚いたが賊も驚いたようだ。
菖蒲は悲鳴も上げず、賊を睨んだのだから無理はない。
そのあとは、菖蒲は思い出すも恥ずかしい。
ただ、従兄である冬真に「お前が可愛らしい姫でなくてよかったよ」と言われたが。
確かに、その時は今のように女房装束ではなく、緋袴に五つ衣という小袿姿だったが、檜扇で男の顔を叩き、足を引っかけて転ばす姫は菖蒲ぐらいだろう。
いくらここでは存分に暴れてもいいと帝と瞳子に言われてもである。では遠慮なく、とはいかないだろう。
「ですが……中宮さま……」
言い募る菖蒲の言葉を、またも帝が遮った。
「藤内侍、例の幽鬼の件、存じていよう? もしアレが中宮を呪っているのならば、守って欲しいのだ」
「はぁ……」
気が重いが、帝に言われてしまっては嫌とはいえない。
「そういえば、主上。安倍晴明どのにも今回の件を依頼されたとか?」
「わたしとしては、アレが藤壺でなく、さらに、そなたたちを祟るモノではないと祈りたいのだよ」
帝の言う〝そなたたち〟の中には、関白も含まれているのだろう。
「主上、わたしも父も、藤壺さまと宮を呪詛などしておりませんわ」
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