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第一章 最期の試練

第18話 是と鳴く獣

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 千銅は憤怒の形相で葉雪を睨みつけ、低く恫喝する。

「貴様! 人間の分際で、軽々しく四帝と……! …………えっ?」

 千銅はもう一度「え?」と呟くと、葉雪を見たまま岩のように固まった。波立っていた髪も一瞬にして凪となる。

 しかし陶静の「千銅様?」と呟く声に、千銅ははっと意識を取り戻した。そして何かを振り払うように、頭を振る。

「……いいや、まさか……」
「なにがまさかだ」

 千銅は葉雪から顔を逸らし、何かを逡巡するように視線をさ迷わせた。葉雪は千銅の視界に入るように、一歩踏み出す。

「……お前さっき、『人間の分際で』とか言ったな? お前たち天上人は、決して人間より高貴な存在ではない。人間を護る存在だ。侮蔑するのはもちろん、睥睨するなどもってのほか」
「……っ!」
「お前! 千銅様になんてことを!!」

 陶静が進み出て、葉雪の肩に掴みかかる。それを千銅は制し、頭を振りながら俯いた。

「……すまない、陶静。少し離れていてくれないか。私はこの男と、話がある」
「ち、千銅様……」
「退路を確保しておいてくれ。直ぐに済むから」

 陶静は納得できないといった顔をしていたが、渋々離れて行った。彼が見えなくなると、千銅が葉雪へと視線を戻す。
 千銅の葉雪へと向ける目は、まるで幽霊でも見るかのようだった。驚愕と困惑の間を行ったり来たりする表情に、葉雪は思わず吹き出す。

「久しぶりだな、泉嶽せんがく。もしかしてこの間の見合いは……彼の為にわざと寝坊したのか?」
「……っ」
「それにしても、『千銅』か。幼名で呼ばせてるとは……お前も可愛い事をするな」
「……まことに……黒烏こくお様?」

 千銅が消え入りそうな声で言い、正していた姿勢をだらりと緩ませた。男らしい眉も、これ以上ないほど垂れさがる。

 葉雪が「おう」と頷くと、千銅もとい泉嶽がくしゃりと顔を歪ませた。そして大きな手で顔を覆い、肩を揺らした。指の間からぽたりぽたりと雫が落ちてくる。

「……っこの百年、どうされていたのですか……」
「元気にしていたよ」
「おれは……おれ達は、あなたが居なくなった昊穹で……」
「ああ、私が居ない穴を埋めるのは辛かったろう」
「そういう事を言っているのではありません!」

 正に滂沱の涙を流し、泉嶽は葉雪へ訴えかける。

 泉嶽は昊穹の軍部に属し、一個部隊を任された武将である。葉雪が統率していた昊殻は軍部の直属ではなかったが、同じ武官として多くの関わりがあった。

 葉雪がいなくなった昊穹で、どのような組織改変が成されたかは知りえない。しかし人手不足だという事は、しつこいほど禄命星君から聞いている。

 葉雪は人差し指を立てて、唇へと寄せる。

「しーっ。陶静に聞こえるぞ。……まぁ、話は後で聞いてやるから、先に堕獣をなんとかするぞ」
「……ふぐっ、この状態では無理ですよ……」

 目の前の泉嶽は、先程までの威風堂々とした姿とは大違いである。しかし彼の本来の姿は、今が正しい。
 泉嶽は屈強な武官だが、物静かで穏やかな性格だ。そしてその体格に見合わず、かなり涙脆い。

 先程までの態度は、陶静にいい所を見せたい一心での格好つけである。一人称すらも背伸びしてたとなると、いよいよ本気だろう。

「泣き止めば良いだろうが。ったく、泣き虫は相変わらずか」
「俺を泣かすのは、あなたぐらいです!!」
「人聞きの悪い」

 曖昧に笑いで誤魔化し、葉雪は堕獣に向き合った。陣から出た蔦が、一本また一本と千切れて消えていく。
 葉雪は陣に足を踏み入れ、堕獣の前へと立った。

 堕獣の身体を覆う黒い炎は、生に対する業のようなものだ。命というものは、それだけで業が生まれる。それが瘴気となり、また命を冒す。

 善も悪もなく、冒し冒され、自我を失う。そんな生物のことが、葉雪には哀しく思えて仕方がない。

「……よっこらしょ」

 伏せている堕獣と目を合わせるように、葉雪はしゃがみこんだ。そして肺いっぱいに空気を吸い、堕獣の角へと息を吹きかける。
 纏っていた黒炎が退き、堕獣の頭部が露わになる。

 汚れてはいるが、白い獣毛を持つ狼だ。その額に手を伸ばすと、堕獣が警戒するように低く唸った。身体を捩じらせ、蔦から逃れようと藻掻く。

 葉雪は唇に小さな弧を描かせると、堕獣の角へと指を這わせる。

「動くな」

 呟くように言うと、堕獣の角の内部からごつりと音が漏れた。何かが砕かれているような音だ。その音の正体が分かったのか、堕獣の動きが止まる。
 ごつ、ごつ、と立て続けに音がなり、角の根に亀裂が走った。

「獣よ。私は、お前の角を砕く者だ」

 葉雪の言葉に反応し、堕獣は顔を上げた。
 どろりと濁った眼が、葉雪の双眸を覗き込むように見ている。何かを切望しているような瞳に、心の奥底がずくりと痛んだ。

「そうか……。お前は、終わりを望むか」

 葉雪がまた、今度は小さく息を吹きかけると、堕獣を拘束していた陣が消える。巻きついていた蔦も消え去ったが、堕獣は伏せたまま動かない。
 葉雪の手に角を預け、まるで全てを託すように葉雪の瞳を見つめ続ける。

 瘴気に完全に支配されると、自我が失われる。抗う事は叶わず、自分が何者かに変わっていくのを見つめ続けていくしかない。
 それはある意味、命を失うよりも辛い事かもしれない。

 右の角が崩れ去ると、葉雪は左にも手を伸ばした。
 堕獣となれば、角が生命の核だ。それを砕かれれば、堕獣は消滅する。それなのに目の前の獣は、抗おうとしない。

「……お前、もう一度、生きてみないか?」

 角を砕きながら、葉雪は空いた手を堕獣の頭に伸ばした。毛並みを撫でてやると、堕獣が低く唸る。
 その音が警戒音ではなく、喉を鳴らしている音だと気付いた葉雪は、口端を吊り上げた。

「ちょっと喧しいが、お前の姉や兄になってくれる獣らがたくさんいる。これからどう生きるかは、お前自身が決めると良い」
「……」
なら頭を垂れろ」

 堕獣は葉雪の手に額を擦り寄せたあと、頭を垂れた。
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