猫が湯ざめをする前に

くさなぎ秋良

文字の大きさ
16 / 50

チェリストの住む森

しおりを挟む
 くさなぎが一番好きな楽器はチェロである。
 20年以上バイオリンを習ったのも、そもそものきっかけは『本当はチェロを習いたかったが、近くに教室がなかったから似たような楽器を選んだ』というものだった。

 大人になってから念願叶って札幌交響楽団所属のチェロ奏者に師事できたものの、諸事情で長くは通えなかった。今の住居がアパートでなかったら、独学でもチェロを弾いているに違いない。

 音色がとにかく、たまらなく好きなのだ。弦楽四重奏でもチェロばかり目で追ってしまうし、耳もチェロの音を拾おうとする。曲の主役にもなれ、脇役にもなれるチェロの懐の深さが好きでもある。

 おまけに男女問わずチェロを弾く姿は、くさなぎの心を惹きつける。楽器の向きはコントラバスと同じだが、椅子に座っているのがいいのだ。バイオリンも椅子に座って演奏することがある。しかし椅子に座っていればいいというものではなく、チェロにはバイオリンにはないものがある。

 後ろからふわりと恋人を抱きしめるような姿勢と腕のライン、それに少し俯き加減になる視線がいいのだ。その腕の回し具合が包むこむようで素晴らしい。
 おまけにバイオリンとは違って顔の角度が自然なので、チェリストが音楽に陶酔する表情が映える。俯き加減でも、上向きでも、そこにはエロティシズム溢れる艶美さが漂う。

 そんな視点で見られていると知れば、ほとんどのチェリストが不気味がるだろう。くさなぎは変態の域に達する勢いでチェロを盲目的に愛している。自分のチェロを持てたなら、毎日話しかけるだろうし、一緒に寝るかもしれない。

 チェロの曲を聴くとき、くさなぎは時間を忘れる。曲そのものを味わい、演奏者に思いを馳せ、そしてまた曲の中へ意識を飛ばす。

 それはまるで深い森を歩くようなものだ。
 まだらにこぼれる光もあれば、雨の日もある。苔むした道で澄んだ空気を吸い、清水のせせらぎに渇きを癒す。
 そんなチェロの曲でできた森のあちこちで、チェリストが恍惚とした表情を浮かべているのに出会う。うっとりと見惚れ、そしてまた音楽の森を彷徨う。

 チェロをまた弾けるときはくるのだろうか。
 大切な人にするようにチェロに腕を回し、松ヤニの匂いを吸い込み、弦を指でなぞる日はいつになるのだろう。

 興味を覚えること、心が惹かれること、挑戦したいこと、そういったものに出会えること自体、一種の奇跡なのだ。『これをやりたい』と感じることがあれば、多少無理をしてもできるときにしておくこと。息子たちにそう伝えようと誓っている。
 
 何故なら、彼女はチェリストの住む森を知っているからだ。

 さて、今宵はここらで風呂を出よう。

 猫が湯ざめをする前に。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

熟女教師に何度も迫られて…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
二度と味わえない体験をした実話中心のショート・ショート集です

婚約者の幼馴染?それが何か?

仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた 「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」 目の前にいる私の事はガン無視である 「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」 リカルドにそう言われたマリサは 「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」 ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・ 「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」 「そんな!リカルド酷い!」 マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している  この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」 「まってくれタバサ!誤解なんだ」 リカルドを置いて、タバサは席を立った

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

Web小説のあれやこれ

水無月礼人
エッセイ・ノンフィクション
 沢山の小説投稿サイトが存在しますが、作品をバズらせるには自分と相性が良いサイトへ投稿する必要が有ります。  筆者目線ではありますが、いくつかのサイトで活動して感じた良い所・悪い所をまとめてみました。サイト選びの参考になることができたら幸いです。 ※【エブリスタ】でも公開しています。

処理中です...