オジサマ王子と初々しく

ともとし

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第十七話

正しい選択

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 マリセウスはボロボロになった階段を駆け上がり、四階に到着した頃には屋上へ続く道のりは僅かな足場しか残されていないほどに崩壊していた。ここを駆け上がるのは、命懸けと言っても過言ではないほどの惨状、もはや自然災害だと誰が見てもそう思う。
 他に道はないのか迷っていたその時、自分の名を呼ぶ声がした。この呼び名は、間違いなく愛しい人が助けを求めているとわかった瞬間……気がつけば身体が動いており、屋上へと到達していたのだ。

 「ヘルメス!!!」

 自立人形の頭上には、手足を動かして抵抗しているヘルメスの姿が。何があってそうなっているのかはわからないが、彼女に危険が及んでいるのは明白。マリセウスはすぐに人形へと駆け寄ろうとしたが、どこからか苦しそうな声がした。周囲を見渡すと、年季の入った櫓と何かの残骸、まさかと思って視線を上げると……宙吊りになっている姪の姿があった。

 「ターニャ!!!」

 追い詰められて逃げた先の櫓に登っている最中に、人形が足場を壊してあのような事が起きたのか?それで婚約者が先に捕まってしまったのか?などと考えが巡るが、今は一刻を争う状況なのは目に見えている。

 宙吊りになっているターニャはタンクの細いコックのようなものに両手を力の限り掴んでいるが、恐らくは体力関係なく落下までの時間が残されていない。
 人形に捕まったヘルメスは、それに比べたら時間の猶予はあるはずだ。だが、あの人形がどのようなアクションをするのか想像がつかない。大事に至る前に助けたい。
 『真っ先に助けるべきはどちらか』?
 この選択を誤れば、一人は助かっても一人は助からない。もしくは二人とも助からない。

 常に迅速な決断を出すマリセウスでも、迷いが生まれてしまった。

 人形の頭上で抵抗しつづけていたヘルメスは、そんな彼の迷いに察したのか真っ直ぐに視線を送った。
 愛しい人の視線に気がつき、それに対して返事をするかのようにマリセウスは小さくこぼした。

 「そんな……っ!」

 (……早く、ヘルメス様をお助け下さい!)

 ターニャは二人のやり取りを見ているわけではなかった。
 だが、叔父があの娘の名前を叫んでいたのを聞いて全てを察した。「自力でなんとかしなければならない」。そうしなければ昼間の決意がすべて無駄になる。だから助けなんていらない、強くならないと二人が安心して幸せになれないじゃないか。
 それが正しいのだと、ここに来てから何度も心の中で繰り返した。未練がましい自分を鼓舞するためにリングに上がって鬱憤を晴らした。
 しっかりと振られて整った失恋を経験した。もう思い残すことはない。

 (せめて、足元を……!)

 櫓の組み木に懸命に足を伸ばそうとしたその時、ターニャの視界はゆっくり時間が流れる世界になった。そして瞬間、確実な絶望が心を支配した。
 両手がコックから滑り落ち、自身の身体が落下して行く。

 子供の頃、邸の階段から足を踏み外した時もこのような体験をした。これだけゆっくりに時間が流れるなら助かるんじゃないかと思っていたが、あれは『ああ、これは怪我をする』と脳が決めつけて見せる危険信号の体験なのだろう、そうターニャは考えた。実際に自分の動きも、周囲と同じくゆっくりだった。穏やかなのに恐ろしいと子供ながら感じた。

 無駄だとわかっていても、再び手を伸ばして掴まろうとするも宙をから振る。
 何も掴めず、落ちていく様は今の自身に重なる所が多々あるものだ……ターニャは諦めた瞬間、心に大きなゆとりが出来てそんな思考を走らせた。

 (もっと早く諦めていたら、苦しくはなかったのに……馬鹿みたい。)

 声を上げることもせず、瞼を閉じてただその時を待った。痛いのは嫌だけども、せめてトラウマを残させたくはない最後の気遣いだった。
 だが、そんな気遣いは無駄に終わった。

 多少の痛みしか感じなかった。ベッドのような、いやそれよりかは固い。だけども体を投げ出して沈むような……全身の全部を任せてもいいような弾力を感じた。
 その瞬間に目を開くと、眼前には少し前に失恋させた相手の顔がすぐそこにあったのだ。

 「おじ、さま……?」

 間一髪のタイミングでターニャの下に滑り込んで見事に受け止めたらしく、叔父の表情から少なからず焦りがあったのが伺えた。

 「間に合った……っ!」

 絞り出すように安堵を与える言葉を出すと、息をつく間もなく立ち上がり、抱きかかえていたターニャの無事を確認して下ろした。

 ターニャは思わず放心した。
 何故、婚約者ではなく自分を優先して助けてしまったのだろう?どちらが危機的状況なのはわかりきっていたのに、仮に落下しても命に別状はないのはどう考えても私の方なのに……。モヤつくターニャは、叔父の肩越しに人形に拘束されているヘルメスに視線を向けると、意外な表情をしていた。
 心の底から、我が事のように安堵している顔だった。


 「よかったぁ……!」

 マリセウスにアイコンタクトを送ったとき、通じるかは一か八の賭けだった。
 説明している時間が惜しく、それでいてそんな事を口にすればターニャもまた同じことを言ってヘルメスを優先するように促してしまうだろう。そんな譲り合いよりも確実に道を選んだ。だから通じてくれた事とターニャが無事であったことに心底安心しきっていたのだ。
 ただし、ヘルメスは己の置かれた状況を飲み込むには詰めの甘さがあった。実の所、命の危機が迫っているのをまだ知らなかったのだから。

 抵抗するのもすっかり忘れていると、動きがピタリと止まった。ヘルメスは「どこか適当に投げ出される」とは思っていたが、自身の体を潜るらせるように人形の視線の先を覗き込んだ。

 何もない。
 その瞬間、思い出した。
 ここが屋上であることを。

 まさか……ヘルメスが思っていたそれは、彼女を一瞬にして恐怖に染めさせるのには十分すぎた。

 「う、わぁっ!?」

 ヘルメスの悲鳴を聞き、その先を見ると人形が頭上にいる彼女を振りかぶっていた。
 二人はその光景を見て、途端に全身が緊張感を走る。マリセウスはすぐに駆け出し、ターニャも一拍遅れて駆け寄ろうとするも、タンクの蛇口からから今更水が流れ落ちてきて、滝のせいで阻まれてしまい完全に出遅れしまう。

 「マリス様っ、助け──っ!?」

 必死の形相で駆け寄ってきてくれる彼に手を伸ばしたが瞬間、景色が変わった。
 雲が少ない青空が視界を占めたと思ったら屋上の鉄格子と人形の顔が見えて、お気に入りの革靴と下からの風圧で舞い上がったスカートが目に入る。
 ヘルメスもまた、世界がゆっくりと動いている現象に支配されたのだ。

 「ヘルメェエエス!!!」

 まるで適当に丸めた紙屑を投げるように、ヘルメスは屋上から投げ落とされてしまったのだ。
 
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