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28話

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 約30分後、

「ん……おはよう剛」

 起きた美琴は動揺することも無く、今の状況がさも当然かのように挨拶してきた。

「起きたか。なら練習を始められるか?」

「まだだ。少し時間をくれ」

 美琴はそう言って俺を強く抱きしめてきた。

「美琴……」

 師匠の事だ。この状態の美琴は俺が何を言っても聞かないように設定してあるだろう。

「すんすんすん」

 諦めて抱擁を受け入れていると、美琴は何故か首筋の匂いを嗅いでいた。

「それはやめてくれ」

 まだ付き合ってもいない相手にそういう事をするものじゃない。照れという感情が無いのかこいつは。

「何か文句でもあんのか?」

 こいつ、照れるどころかこの現状をさも当然だとでも思っているのか。

 まあ良いか。嫌ではないしな。

 誰かが来るまで待つか……


 その10分後、

「なみこ先生、どういう状況ですかこれ?」

 練習場に到着し、俺たちを見つけたMIUが何とも言えないで見ている。

 こんな場所で抱き合っていることに対してというよりは、不良キャラに憑依しているはずの美琴が俺に抱き着いているという状況に違和感を覚えているのだろう。

「師匠がこいつに偽の台本を読ませたせいでこうなったんだ。美琴、MIUが見ているから離れるんだ」

 MIUに理由を説明しつつ、美琴に離れてもらうように頼む。

「関係ないだろ」

「いや関係しかないが。後輩の前だぞ」

 後輩にそんな姿を見せても良いのかお前。

「なら良いじゃねえか」

 そう言って美琴は更に抱き着く力を強める。

「はあ……悪いなUMI。全て師匠のせいなんだ」

「別に構いませんよ。今日の練習は辞めておきますか?」

「いや、やるぞ。UMIに悪いし、今日一日このままだったら美琴は明日もそのままだからな」

 本当の台本を読み込んでもらわなければ、一生美琴はこのままである。

「分かりました。じゃあ行きましょうか」

「ああ。美琴、俺は練習に行ってくるから美琴は正しい台本を読み込んでくれ」

 そう伝えた後、美琴を引き剝がしてソファから立ち上がろうとするが、

「行くんじゃねえよ」

 美琴が女子とは思えない程の強い力で俺を抑えつけてきたので立ち上がれなかった。

 今どういう状況かというと、美琴に両手をソファの肘掛けに押し付けられ、俺の膝に膝立ちされて上から見下ろされている。漫画のシチュエーションとして滅茶苦茶良いな。来月か再来月にこのシーンを入れよう。


「と言われてもな。美琴も練習しないと本番に支障が出るんだぞ?」

 そんな感想は今は大事ではない。

 美琴には台本を読み返して貰わなければ。

 いくら美琴が名優で、本番まで時間があるとしても、この状態のままで本番を迎えられると困る。

「問題ない、俺だからな」

「問題しかない。とにかく、今から正しい台本を読みなおしてくれ」

「仕方ねえな。ただ、お前らの練習に付いていく」

「分かったよ。悪いがそれで良いか?UMI」

「私は構いませんよ」

「悪いな。じゃあいくぞ」

「ああ」

 俺に抱き着いたままの美琴を連れ、UMIと練習用の個室まで向かった。



「この場面、一条は危ないから引き留めてくると思うんですが」

「そうだな。ただ、方法はその時の気分によりそうだな」

「ですね」

「とりあえず考えられるのは黒服に任せる、直接手を掴んで引き止める、お姫様抱っこの3択だろうな。まずはそれに対応するセリフを考えよう」

「はい。私の解釈だと————」

 という風に一つ一つアドリブを潰している最中、美琴は背後から抱き着きながらダルそうに台本を読んでいた。

 かなり邪魔だったが、仕方がない。



「じゃあな」

 台本を読み始めてから1時間後、元の役に戻れたらしく、部屋から出ていった。

「おう、行ってこい」

「はい」


「椎名さん、凄い人ですね」

「ああ。高2でこの劇団の華に立つ女だからな」

 UMIは中学生で最も演技が上手い女優と評されているが、美琴もそれに負けない位に凄い役者だと贔屓目無しに言える。

「それもありますけど、あそこまで役に入り込める人なんて中々いませんよ」

「かもな。でも芸能界を探せばいくらでも居たんじゃないか?そのみち何十年というプロはいくらでも居るんだし」

 たまに役作りの為に40㎏増量しました、みたいな話は聞くし、美琴みたいな奴の一人や二人いてもおかしくはない。

 でも美琴の方が魅力たっぷりだとは思うが。

「あのレベルは居るわけがないですね。テレビを主戦場に戦う場合、椎名さんのスタイルは余りにも不利すぎます」

「そうなのか?」

「演じる役毎に人が変わっていたらバラエティ番組とかに出にくくなるからですよ」

「出にくくなるか?」

「はい。会うたびに性格が違う人にどう対応すれば良いんですか」

「確かにそうかもしれない」

 学校の奴らが自然に受け入れていたから忘れていたが、知らない人から見たら意味不明だよな。

「でもその分演技力が高いので、一度大衆に受け入れられれば楽でしょうけどね」

「そうか。良かった」

 美琴なら大衆に受け入れられる事なんて容易だろうから大丈夫そうだ。

「椎名さんの事、好きなんですね」

 そんな俺を見てか、MIUが穏やかな笑みでそう言ってきた。

「そりゃあな。じゃなければ漫画家を続けられていない」

「漫画家を?」

「ああ、色んな意味でな」

「そうなんですか」

「別に悪い意味ではないからな」

「なら良いんですけど」

 そこからMIUは深く追求してくることも無く、普通に話し合いに戻った。
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