悪女は愛する人を手放さない。

りつ

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38、つかの間の

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「近頃めっきり寒くなったわねぇ」

 肌が乾燥しちゃうとパメラが小さな手鏡を見ながら呟く。二人はホテルのラウンジで最近の出来事やら何やらとりとめもなく話していた。

「乾燥はいろいろ怖いわよね。この前大通りの方で火事が起こったと聞いたわ」
「まぁ、怖い。火の元には気をつけるよう、使用人に言い聞かせておかなくっちゃ」

 そうね、とマティルダは微笑んだ。パメラもなぜかつられたように口元に笑みを浮かべる。

「こちらに引っ越してきてから、ずいぶんと調子がよくなったようね」
「そう?」
「ええ。やっぱりあの二人から解放されたことが大きいのよ」

 今まで気を遣って出されなかった話題を口にされ、マティルダは何だか懐かしいような、ひどく昔の出来事に思えた。

「あの人たち、今頃どうしているかしら」
「わたくしは今でも悲しみに浸っていると思うわ」
「先週あなたと観に行った悲劇のように?」
「そうよ。素晴らしい熱演ぶりで、お客でもとれるんじゃないかしら」

 どう? と聞かれ、マティルダはさらりと返した。

「だめよ。主演の二人は確かに本物にも敵わないくらいのお芝居ができるでしょうけれど、脇役が冷めちゃって、ちぐはぐな劇になってしまうわ」
「あら。だったら喜劇として上演すればいいわ。観ている誰もが愉快な気持ちになれる滑稽劇コメディーとしてね」
「大成功間違いなしね」

 マティルダとパメラはお互いに頷き合い、やがて声を立てて笑った。

「で、これからどうするの?」
「そうねぇ……」
「よかったらわたくしの屋敷へ来たら?」
「ご主人に悪いわよ」
「そんなこと気にしなくていいのに。むしろ歓迎するわよ。それにほら、ホテル暮らしもそろそろ飽きてきたんじゃない?」

 だとしても、やはりパメラの家で厄介になるのは申し訳なかった。

「それとも、まだ何か策でもあるの?」
「どうして?」
「だって、なんだかんだ言いつつ、実家にも帰っていないもの」

 ああ、それはと答える。

「お父様ね、今大事な時みたい」

 中の悪かった貴族ともようやく関係を修復でき、いよいよ本題に入っていく過程で、マティルダはやはり落ち着くまで離婚のことは黙っておきたかった。

「事情はわかるけど、のんびりしていると、また元の関係に戻ってしまうわよ」
「さすがに家も出たんだから、向こうもいい加減覚悟を決めてくれるはずよ」

 あら、とパメラは目を細めて妖しく微笑んだ。

「可愛い子猫がいなくなって、そろそろ我慢できなくなっている頃かもしれないわよ」
「可愛い子猫はわたしではないわ」
「そうかしら」
「そうよ」

 可愛くてたまらない子猫は、最初からシェイラに決まっている。

「……ねぇ、マティルダ。最初にわたくしたちが会った時のこと、覚えている?」
「あなたがわたしに、いじめられるのが好きかって、尋ねたことなら覚えているわ」

 忘れられるはずがない。そう答えれば、それもそうねとパメラは笑う。

「あれはね、実はいじめられる方が立場が上なの」
「どうして?」

 普通は逆ではないのだろうか。

「こういうふうにいじめてほしいっていう確かな理想があるから。そしてそれを相手に叶えさせようとするからよ」
「そうなの? でも……いじめる方が好き勝手できそうな気がするけれど」
「ふふ。それはだめよ。いじめる方は、相手が満足することで初めて幸せになれるんだから」

 そういうものなのだろうか。マティルダにはいまいちよくわからなかったが、経験豊富なパメラが言うならば、その通りな気もした。

「いじめる方は気づけば相手にたっぷりサービスして、甲斐甲斐しく尽くしているの。面白いでしょう?」
「そうね……。それにしてもあなた、本当にいろいろなことを知っているのね」
「わたくしの家へ来れば、もっとたくさんのことを教えてあげるわよ」

 だから遠慮せずいらっしゃいなとパメラは熱心に勧めてくる。マティルダはうーんと悩んで、とりあえずケーキスタンドに乗せてある一口サイズの菓子をパメラの口元へ運んで食べさせた。

「せっかく誘ってくれて悪いけれど、今はあなたとこうして会える日を楽しむことにするわ」
「あら嬉しい。でも、わたくし以外にも近頃よく会っている殿方がいるんでしょう?」

 その人とはどうなのだと聞かれても、マティルダはただの友人だと笑って答えた。

   ◇

「マティルダ。すみません。寝坊してしまって」
「こんにちは、ニック。焦らなくても大丈夫よ」

 ニックには今も一緒に散歩に付き合ってもらっているが、彼の目線はずっとポーリーに釘付けである。たまに突拍子もなく振られる会話も、緊張することなく自然と答えることができる。

(彼といると、気が楽だわ……)

 オズワルドやキースとも違う。同性と話す気軽さとも違う。

(わたし、この人のことが好きなのかしら……)

「どうなされたんですか?」

 じっと見ていたので、さすがにニックも気になってこちらに顔を向けた。野暮ったいようで、案外整った顔立ちをしていることに気づく。……だがやはり、それ以上の感情は胸にわき起こらない。

「いいえ。芸術的な寝癖だと思って」
「ああ、これですか? あはは。何度水で直そうとしても直らなくて。マティルダの髪はさらさらしていてとても綺麗ですね」
「ありがとう。以前パメラからもらった香油のおかげかもしれないわ。あなたにも今度あげる」
「わー本当ですか? ありがとうございます」

 にこにこ笑ってお礼を述べるニックにマティルダもつられて微笑んだ。

「あ……」
「どうしたの?」
「いえ……。今、向こうに怪しい人が見えた気がして……」

 ニックの視線の先、通りの反対側へ目を向けるが、たくさんの人が行き交っており、マティルダは誰が怪しいのか判別できない。

「誰か人を探していたんじゃないかしら」
「うーん。そうかなぁ……」

 ニックはどうも引っかかるといった表情だったが、マティルダはそうだと言い、案外用心深い性格なのかもしれないと彼の新たな一面を垣間見た気分だった。

 その後もマティルダはニックと度々散歩に出かけた。キースは以前の言葉で諦めたのか、もう来ることはなくなったのでニックとの二人きりであった。あんまり頻繁に誘うのも申し訳ないと一人で行こうともしたのだが、ニックは僕も行くよと言って必ずついてきた。

「そんなにポーリーと散歩したいの?」
「それもありますけど、あなたが心配だからです」
「まさか前のこと、まだ気になっているの?」
「はい。あれはやっぱり僕の見間違いじゃありません。あなたは全く気にしていないようですが、あっ」

 ポーリーが突然走り出した。握っていたリードが引っ張られ、ニックが地面にすっ転ぶ。

「まぁ大変! ポーリー!」
「待ってくれ! ポーリー!」

 ニックは転んだ痛みなどどうでもいいと素早く立ち上がると、ポーリーを追いかけていく。普段ののんびりとした雰囲気からは想像もできないほどの走りっぷりに、マティルダはあっという間に置いていかれる。視線だけで追うと、ポーリーは自分と同じくらいの体格の犬とじゃれあっていた。

(ポーリーったらお友達に会えて嬉しくなっちゃったのね)

 もしかするとガールフレンドかもしれない。

 ニックも無事にリードを取り戻すことができ、マティルダは息切れしてしまいその場で立ち止まった。

 ちょうどその時、マティルダの真横で一台の馬車が止まる。怪訝に思うよりも邪魔になるので早く行かなくちゃ、と前を通り過ぎようとした瞬間、扉が開き、ぐいっと強い力で腕を引かれた。あまりにも驚いてしまい、暴れる暇もなく、中へ連れ込まれてしまう。

「出せ」

 低い声。懐かしい声に、マティルダは呆然とする。悲鳴を上げる暇もなく馬車は動き出した。

「オズワルド様、どうし、んっ」

 焦がれるような瞳が間近に迫ったと思えば、噛みつくように口づけされた。これにはさすがにマティルダも我慢できないと拒絶しようとするが、大きな掌で顔を固定され、背中も押さえられて逃げることができない。

 いっそ舌を噛んでしまおうかと思ったが、オズワルドがあまりにも無我夢中で咥内を貪るのでマティルダは食われそうな気持ちになって、抵抗する意思も次第に奪われていく。

(くるし……)

 生理的な涙を浮かべ、マティルダはオズワルドにされるがままになった。彼がようやく気が済んだ時にはすでにぐったりと胸に寄りかかる有様となった。はぁはぁと息を乱すマティルダをきつく抱きしめると、彼は内から絞り出すような声で自分の名前を呟いた。

 もう、無理だとも……。


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