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22、初恋
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「初めまして。可愛らしいお嬢さん」
現在キースはインブリー公爵家の当主であるが、マティルダと会った時はまだ正式な跡取りと決まっていたわけではなかった。むしろ可能性としては、ずっと低かった。
そんな彼が、マティルダの家で開かれた茶会に参加していた。
「本日はお招きいただき光栄です」
キースはマティルダよりも五歳年が上だった。他にも大勢子どもたちはいたというのに、彼はわざわざ独りぼっちになっていたマティルダを気にかけ、声をかけてくれた。だから初めて会った時から彼はマティルダの王子様で、特別な異性となった。
幼い頃は内気で人見知りの激しかったマティルダだが、キースの屈託のない笑顔には心を開き、彼のことを知りたいという気持ちにさせられた。キースもそんなマティルダの気持ちに気づき、優しい言葉で、少女の知らない世界を紡いでくれた。
「キース。また、あなたと会いたい」
別れ際、マティルダは勇気を出して告白した。目を丸くさせていたキースはふっと微笑み、腰を屈めると、頬を上気させた少女の瞳を甘く見つめてきた。
「じゃあ、お父様に頼んでごらん。また僕と遊びたいって。そうすれば、きっと叶うよ」
少女は言われたとおり、そうした。キースにまた会いたかったから。生まれて初めて湧いた恋心を止められなかったから。
普段滅多に物をねだらない――その前に与えられるマティルダが、初めて自分からしてほしいことを口にして、父である男爵はたいそう驚いた。そして何か考え込むように口髭を弄り、もしかしたら断られるかもしれないと少女が不安に駆られた時、わかったと約束してくれた。
マティルダは嬉しかった。またキースと会える。
「マティルダ。また会えて嬉しいよ」
キースの言葉に嘘偽りはなかった。彼は本当にマティルダに――最近王家の目に障る男爵家に招待されて喜んだ。かくれんぼなど、マティルダが別のことに気を取られている間、自由に屋敷を調べ回れる時間ができる遊びを何より楽しんだ。
男爵の書斎に忍び込んで、引き出しを開けて、書類一枚一枚に素早く目を通しては戻して、何か、何かないかと探す時間を一番に――
「キース? 何をしているの」
出かけたはずの父が帰ってきて、マティルダの手を引いて書斎に入ると、信じられない顔をしてキースは固まっていた。彼の顔は告げていた。どうしてここに男爵がいるのだと。
「悪戯かい、キース君」
父は慌てず、叱ることもせず、むしろこの状況が愉しいとばかりに口元に笑みを浮かべて、固まっているキースを見ていた。マティルダはよくわからなかった。けれど真っ青になっていくキースの表情に不安な気持ちになって、助けを求めるように父親を見上げれば、彼は大丈夫だというように娘の小さな手を握り返し、本当のことを教えてくれた。
「マティルダ。キース君はどうやら探し物をしていたようだ」
「探し物?」
「そう。お父様が悪いことをしていないか、その証拠をね」
マティルダは目を丸くした。
「お父様は、そんなことしないわ」
父はいつも優しい。母を亡くしたばかりのマティルダのことをずっと可哀想にと慰めてくれる。
「どうしてキース、そんなことしているの?」
少女の素直で、心からの疑問に、キースはますます顔色を失くす。
「ぼ、僕は……」
「マティルダ。キース君はこの家に入るために、おまえを利用したみたいだ」
「利用……?」
「そう。私ではなく、まだ子どものおまえなら人を疑うことなく素直に信じてくれると思って、我儘なら何でも叶えてくれる子どもだと思って、おまえを手懐けようと思ったんだ」
マティルダは目を真ん丸と見開いて父を見つめ、次いでゆっくりとキースへと目をやった。
「うそ、ついていたの、キース」
「ちが……」
違う。キースは涙で目を滲ませた少女にその言葉を言えなかった。
「マティルダ。キース君を責めてはいけないよ。彼にも、きっとどうにもできない事情があったのだろうからね」
父は娘の手を放すと、キースの方へ歩み寄っていく。一歩近づいていくにつれて、キースの身体は震え、後ろの大きな、はめ殺しのガラス窓へと当たった。
「残念ながらきみが探しているようなものは見つからないよ。王家は我が家のことを怪しいと踏んでいるようだが、ただの気のせいだ」
その代わり、と男爵はポケットから鍵を取り出して一番上の引き出しを開けると、封筒に入った書類をキースに手渡した。
「これを国王陛下に渡すといい。私からの手土産だ」
「これは……」
「きみたちは新参者の私を気にしているようだが、目をかけるべき存在はもっと身近にいることを忘れない方がいい」
それは王家に長年仕えてきた高位貴族の裏切りに相当する確かな証拠が綴られた文書だった。どうして父がそれを持っているのか、どんな意図で使うつもりだったかはわからない。ただわかることは、十六のキースなど父からすればどうにでもなる子どもに過ぎなかった。
「私からの贈り物ではなく、きみが見つけたことにするといい」
父の提案にキースは瞠目する。
「きみも大変だな。ただ最初に生まれただけで何の取り柄もない長男に家の命運を任せなければならないんだから。盲目な両親に自身の言葉は届かず、手柄を立てることで国王陛下に自分を後継者にするよう命じてもらおうと考えるなんて、実に健気で立派な心掛けだ」
だがね、と聞き分けのない子を諭すようにキースの肩に手を置き、微笑んだ。
「私の娘を利用して我が家に忍び込むのは良くないことだよ。やるのならば、もっと上手くやりなさい」
何も言えないキースに父は微笑んで、帰りなさいと告げた。王家のスパイとして送り込まれてきたキースに腹を立てることもせず、手土産まで持たせて丁重にお帰り申し上げたのが、マティルダの父だった。
マティルダはキースの裏切りが未だ受け入れられず、ただ彼が帰っていく様を呆然と眺めていた。
「キース……」
小さな声だったのにキースには届いていたのか、肩をびくりと大げさに揺らした。振り返った彼はナイフで刺されたような顔をして、すまないと呟いた。
(ぜんぶほんとうで、うそだったんだ)
お父様が言ったように自分を利用していたことは本当だった。
自分を好きだと言ってくれたことは嘘だった。
「――彼にはね、婚約者がいるそうだよ」
父はショックで何も言えなくなった娘を抱きしめ、さらに残酷な事実を突きつけてくる。
「正式に公爵家を継ぐことが決まったら、すぐにでも結婚するだろう」
「キースを、好きになってはいけなかったの?」
好きになったからこんなに苦しい気持ちを味わうことになったのかと、マティルダは泣いて真っ赤になった目で父を見上げた。
「いいや。人と接する限り、何かしらの感情を抱くことは避けられない。そうでなければ、生きていることはひどくつまらないからね。おまえがキースを好きになったことは必要なことだったんだよ」
父は次々と零れ落ちてくる涙を優しく拭ってやりながら、マティルダの濡れた黒い瞳を愛おしさを込めて見つめてきた。
「マティルダ。人は裏切る生き物だ。だから簡単に信用してはいけない。自分を一番信用しなさい。自分の気持ちを、大切にしなさい」
それが父の慰めだった。いや、慰めではなく、教訓だったのかもしれない。
現在キースはインブリー公爵家の当主であるが、マティルダと会った時はまだ正式な跡取りと決まっていたわけではなかった。むしろ可能性としては、ずっと低かった。
そんな彼が、マティルダの家で開かれた茶会に参加していた。
「本日はお招きいただき光栄です」
キースはマティルダよりも五歳年が上だった。他にも大勢子どもたちはいたというのに、彼はわざわざ独りぼっちになっていたマティルダを気にかけ、声をかけてくれた。だから初めて会った時から彼はマティルダの王子様で、特別な異性となった。
幼い頃は内気で人見知りの激しかったマティルダだが、キースの屈託のない笑顔には心を開き、彼のことを知りたいという気持ちにさせられた。キースもそんなマティルダの気持ちに気づき、優しい言葉で、少女の知らない世界を紡いでくれた。
「キース。また、あなたと会いたい」
別れ際、マティルダは勇気を出して告白した。目を丸くさせていたキースはふっと微笑み、腰を屈めると、頬を上気させた少女の瞳を甘く見つめてきた。
「じゃあ、お父様に頼んでごらん。また僕と遊びたいって。そうすれば、きっと叶うよ」
少女は言われたとおり、そうした。キースにまた会いたかったから。生まれて初めて湧いた恋心を止められなかったから。
普段滅多に物をねだらない――その前に与えられるマティルダが、初めて自分からしてほしいことを口にして、父である男爵はたいそう驚いた。そして何か考え込むように口髭を弄り、もしかしたら断られるかもしれないと少女が不安に駆られた時、わかったと約束してくれた。
マティルダは嬉しかった。またキースと会える。
「マティルダ。また会えて嬉しいよ」
キースの言葉に嘘偽りはなかった。彼は本当にマティルダに――最近王家の目に障る男爵家に招待されて喜んだ。かくれんぼなど、マティルダが別のことに気を取られている間、自由に屋敷を調べ回れる時間ができる遊びを何より楽しんだ。
男爵の書斎に忍び込んで、引き出しを開けて、書類一枚一枚に素早く目を通しては戻して、何か、何かないかと探す時間を一番に――
「キース? 何をしているの」
出かけたはずの父が帰ってきて、マティルダの手を引いて書斎に入ると、信じられない顔をしてキースは固まっていた。彼の顔は告げていた。どうしてここに男爵がいるのだと。
「悪戯かい、キース君」
父は慌てず、叱ることもせず、むしろこの状況が愉しいとばかりに口元に笑みを浮かべて、固まっているキースを見ていた。マティルダはよくわからなかった。けれど真っ青になっていくキースの表情に不安な気持ちになって、助けを求めるように父親を見上げれば、彼は大丈夫だというように娘の小さな手を握り返し、本当のことを教えてくれた。
「マティルダ。キース君はどうやら探し物をしていたようだ」
「探し物?」
「そう。お父様が悪いことをしていないか、その証拠をね」
マティルダは目を丸くした。
「お父様は、そんなことしないわ」
父はいつも優しい。母を亡くしたばかりのマティルダのことをずっと可哀想にと慰めてくれる。
「どうしてキース、そんなことしているの?」
少女の素直で、心からの疑問に、キースはますます顔色を失くす。
「ぼ、僕は……」
「マティルダ。キース君はこの家に入るために、おまえを利用したみたいだ」
「利用……?」
「そう。私ではなく、まだ子どものおまえなら人を疑うことなく素直に信じてくれると思って、我儘なら何でも叶えてくれる子どもだと思って、おまえを手懐けようと思ったんだ」
マティルダは目を真ん丸と見開いて父を見つめ、次いでゆっくりとキースへと目をやった。
「うそ、ついていたの、キース」
「ちが……」
違う。キースは涙で目を滲ませた少女にその言葉を言えなかった。
「マティルダ。キース君を責めてはいけないよ。彼にも、きっとどうにもできない事情があったのだろうからね」
父は娘の手を放すと、キースの方へ歩み寄っていく。一歩近づいていくにつれて、キースの身体は震え、後ろの大きな、はめ殺しのガラス窓へと当たった。
「残念ながらきみが探しているようなものは見つからないよ。王家は我が家のことを怪しいと踏んでいるようだが、ただの気のせいだ」
その代わり、と男爵はポケットから鍵を取り出して一番上の引き出しを開けると、封筒に入った書類をキースに手渡した。
「これを国王陛下に渡すといい。私からの手土産だ」
「これは……」
「きみたちは新参者の私を気にしているようだが、目をかけるべき存在はもっと身近にいることを忘れない方がいい」
それは王家に長年仕えてきた高位貴族の裏切りに相当する確かな証拠が綴られた文書だった。どうして父がそれを持っているのか、どんな意図で使うつもりだったかはわからない。ただわかることは、十六のキースなど父からすればどうにでもなる子どもに過ぎなかった。
「私からの贈り物ではなく、きみが見つけたことにするといい」
父の提案にキースは瞠目する。
「きみも大変だな。ただ最初に生まれただけで何の取り柄もない長男に家の命運を任せなければならないんだから。盲目な両親に自身の言葉は届かず、手柄を立てることで国王陛下に自分を後継者にするよう命じてもらおうと考えるなんて、実に健気で立派な心掛けだ」
だがね、と聞き分けのない子を諭すようにキースの肩に手を置き、微笑んだ。
「私の娘を利用して我が家に忍び込むのは良くないことだよ。やるのならば、もっと上手くやりなさい」
何も言えないキースに父は微笑んで、帰りなさいと告げた。王家のスパイとして送り込まれてきたキースに腹を立てることもせず、手土産まで持たせて丁重にお帰り申し上げたのが、マティルダの父だった。
マティルダはキースの裏切りが未だ受け入れられず、ただ彼が帰っていく様を呆然と眺めていた。
「キース……」
小さな声だったのにキースには届いていたのか、肩をびくりと大げさに揺らした。振り返った彼はナイフで刺されたような顔をして、すまないと呟いた。
(ぜんぶほんとうで、うそだったんだ)
お父様が言ったように自分を利用していたことは本当だった。
自分を好きだと言ってくれたことは嘘だった。
「――彼にはね、婚約者がいるそうだよ」
父はショックで何も言えなくなった娘を抱きしめ、さらに残酷な事実を突きつけてくる。
「正式に公爵家を継ぐことが決まったら、すぐにでも結婚するだろう」
「キースを、好きになってはいけなかったの?」
好きになったからこんなに苦しい気持ちを味わうことになったのかと、マティルダは泣いて真っ赤になった目で父を見上げた。
「いいや。人と接する限り、何かしらの感情を抱くことは避けられない。そうでなければ、生きていることはひどくつまらないからね。おまえがキースを好きになったことは必要なことだったんだよ」
父は次々と零れ落ちてくる涙を優しく拭ってやりながら、マティルダの濡れた黒い瞳を愛おしさを込めて見つめてきた。
「マティルダ。人は裏切る生き物だ。だから簡単に信用してはいけない。自分を一番信用しなさい。自分の気持ちを、大切にしなさい」
それが父の慰めだった。いや、慰めではなく、教訓だったのかもしれない。
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