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2、邪魔な自分
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数日経ち、マティルダはようやく自分が夫に初夜をすっぽかされたこと、夫と義兄の妻がただならぬ関係であったことが理解できた。
自分が二人にとって、邪魔な存在であるということも。
(オズワルド様は、本当はお義姉様と結婚なさるつもりだったのかもしれない)
いや、きっとそうだったのだろう。
ちょうど、侯爵が亡くなって三年経つ。シェイラがその間再婚しなかったことを考えれば、オズワルドとずっと同じ屋根の下で暮らしていたとあれば、二人がそういう関係だと考える方が自然だ。
(わたし、これからどうすればいいのかしら……)
まさかシェイラとの不貞を見ていたとも知らないオズワルドは、初夜に訪れなかったことを謝り、マティルダがまだ若いことを理由に述べた。
「あなたと私は十歳も年が離れています。だから正直、まだ身体を繋げることに不安があります。若いあなたを傷つけてしまいそうで、怖いんです。だからこちらの我儘で大変申し訳ないのですが、もう少し先にしてくれると助かります」
あの光景を見なければ、自分は信じただろうか。歳が離れているといっても十歳差なんて別に珍しくない。中にはもっと離れている夫婦だっているのだ。それでもオズワルドの誠実な物言いには、本当にそうだと思っている真剣さがあって、嘘だとわかっていてもマティルダは素直に信じる振りをした。
「本当はわたしも怖かったんです。だからオズワルド様がそうおっしゃってくれて、正直ほっとしましたわ」
そんな嘘を、自分もまたするりと言葉にできた。なぜかオズワルドに合わせなければならない、あの夜に見たことをなかったことにしなければならないという気持ちになった。
物分かりのいい妻の言葉に、普段表情に乏しいオズワルドが珍しくほっとした様子を見せたので、なんだかおかしかった。
そして以前も言ったように、何か欲しいものや不都合があったら、遠慮なく使用人や自分に言うよう告げた。
不要な妻にしては、ずいぶんと親切であった。
「ねぇ、わたしは何をすればいいのかしら」
「奥様にしていただくことは特にありませんので、どうぞお好きにお過ごしください」
自分の世話をしてくれるメイドはいつもそう言う。
「でも……何かあるでしょう? だって侯爵の妻ですもの……」
自分で口にしておきながら、どんどん尻すぼみになっていく。
目線を下げて、所在なさげに髪を弄るマティルダをメイドは困ったように見つめる。
「貴族は本来働かないものですわ」
「でも……」
シェイラはいつも何かしている。使用人たちに相談されて、頼りにされて、この屋敷を切り盛りしている。
(そっか……。お義姉様が、この家の使用人たちにとっては女主人なんだ)
考えてみれば当たり前だ。だって彼女はオズワルドの兄の妻だったのだから。この屋敷は二人の家だ。そこにオズワルドが帰ってきて……
「ねぇ、オズワルド様はずっとこの屋敷で暮らしていたの?」
化粧台に座ってされるがままになっていたマティルダが突然口にした問いかけに、メイドは一瞬強張った顔つきをした。それを鏡越しにじっと彼女は見つめており、メイドがすぐに取り繕ったような、何かを隠すように笑みを浮かべた変化も、見逃さなかった。
「ええ。ここはオズワルド様にとってもご実家ですから。ですがお仕事がお忙しいのか、よく頻繁に家を留守にしていらっしゃったので、別々に暮らしていたとも言えましょう」
貴族の跡を継ぐのは長男だ。次男、三男は自分で暮らしを立てていかなければならない。医者や弁護士、軍人など名誉ある職業に就く者が多い中、オズワルドは商売に関わっていた。
金儲けの仕事など高貴な人間は最も忌避するべきだが、時代の流れなのか、それとも何かきっかけがあったのか、彼は隣国を相手に貿易会社を経営している。屋敷へ帰ってくるのも、本当にたまにであったらしい。
「でも、侯爵が亡くなられて跡を継いだのだから、お仕事も今までとずっと同じというわけにはいかなかったでしょう?」
実際、マティルダと結婚するまでは仕事は部下に任せて、屋敷に滞在することが多かったと父から聞いていた。確かめるように口にすれば、メイドは歯切れ悪くも、肯定した。
「ええ、そうですね……ご主人を亡くされたばかりの夫人一人では、何かと心細く、面倒な手続きもありましたから」
「そう……」
たしかにあのシェイラの見た目では、何かと苦労したように思える。……苦労していなくても、支えてあげたいと思うのではないか。
そんなふうに考える自分がいて、マティルダは嫌だなと思った。不快なものを無理矢理呑み込まされたような、そんな煩わしさを覚えた。
「今日出かけて行ったのは、やっぱりお仕事かしら?」
「ええ。そう、伺っております……」
「そう。昨夜も、ずいぶんと遅かったようね」
どこで寝ているのだろう。自室だろうか。それとも書斎で、初夜の時のようにシェイラと――
『オズワルド……っ』
あの時聴いた声が、頭の中で繰り返される。どうしてだろう、と思っていると、黙り込んでしまったマティルダが心配になったのか、メイドが「旦那様は」と明るい声で先ほどの続きを話してくる。
「昔から、仕事ばかりに精を出していたので、きっとじっとしているのが苦手なんですわ」
「そうなの?」
「はい。それと、可愛らしい奥様と結婚なされたばかりで、緊張なさっているのだと思います」
「わたし相手に、オズワルド様が緊張するなんて思えないけれど」
しますよ、とメイドは砕けた様子で笑った。だから本心に思えた。
「歳が離れているから?」
「それもあるかもしれませんが、奥様はどこか浮世離れしていますもの」
メイドはマティルダの黒髪をさらりと指で梳いて見せた。
「こんなに綺麗な髪、見たことありませんわ。櫛もいらなくて、羨ましいですわ」
「……ありがとう」
マティルダはぎこちない笑みを浮かべてお礼を述べる。
「母譲りなの」
「たしかご出身は異国の方でしたのよね? 男爵はとても愛していらっしゃったとか」
「ええ」
病気でマティルダが幼い頃に亡くなったが、父は再婚せず今でも母を愛している。成長にするにつれて、母に似ているとよく言われるようになった。
「きっと大変魅力的な方だったのでしょうね。奥様も、同じくらい旦那様から愛されるはずです」
「そうね……そうなると、いいわ」
前向きな返事にメイドも安心したように笑みを返し、一日をどう過ごすかの話題へと変えた。
「ここのお屋敷はとても広いですから。庭も立派ですし、図書室も本がたくさんありますわ。きっと、奥様もお気に入りの過ごし方が見つかるはずです」
「……そうね」
自分に期待されることは何もない。
マティルダはまずそのことを理解した。
自分が二人にとって、邪魔な存在であるということも。
(オズワルド様は、本当はお義姉様と結婚なさるつもりだったのかもしれない)
いや、きっとそうだったのだろう。
ちょうど、侯爵が亡くなって三年経つ。シェイラがその間再婚しなかったことを考えれば、オズワルドとずっと同じ屋根の下で暮らしていたとあれば、二人がそういう関係だと考える方が自然だ。
(わたし、これからどうすればいいのかしら……)
まさかシェイラとの不貞を見ていたとも知らないオズワルドは、初夜に訪れなかったことを謝り、マティルダがまだ若いことを理由に述べた。
「あなたと私は十歳も年が離れています。だから正直、まだ身体を繋げることに不安があります。若いあなたを傷つけてしまいそうで、怖いんです。だからこちらの我儘で大変申し訳ないのですが、もう少し先にしてくれると助かります」
あの光景を見なければ、自分は信じただろうか。歳が離れているといっても十歳差なんて別に珍しくない。中にはもっと離れている夫婦だっているのだ。それでもオズワルドの誠実な物言いには、本当にそうだと思っている真剣さがあって、嘘だとわかっていてもマティルダは素直に信じる振りをした。
「本当はわたしも怖かったんです。だからオズワルド様がそうおっしゃってくれて、正直ほっとしましたわ」
そんな嘘を、自分もまたするりと言葉にできた。なぜかオズワルドに合わせなければならない、あの夜に見たことをなかったことにしなければならないという気持ちになった。
物分かりのいい妻の言葉に、普段表情に乏しいオズワルドが珍しくほっとした様子を見せたので、なんだかおかしかった。
そして以前も言ったように、何か欲しいものや不都合があったら、遠慮なく使用人や自分に言うよう告げた。
不要な妻にしては、ずいぶんと親切であった。
「ねぇ、わたしは何をすればいいのかしら」
「奥様にしていただくことは特にありませんので、どうぞお好きにお過ごしください」
自分の世話をしてくれるメイドはいつもそう言う。
「でも……何かあるでしょう? だって侯爵の妻ですもの……」
自分で口にしておきながら、どんどん尻すぼみになっていく。
目線を下げて、所在なさげに髪を弄るマティルダをメイドは困ったように見つめる。
「貴族は本来働かないものですわ」
「でも……」
シェイラはいつも何かしている。使用人たちに相談されて、頼りにされて、この屋敷を切り盛りしている。
(そっか……。お義姉様が、この家の使用人たちにとっては女主人なんだ)
考えてみれば当たり前だ。だって彼女はオズワルドの兄の妻だったのだから。この屋敷は二人の家だ。そこにオズワルドが帰ってきて……
「ねぇ、オズワルド様はずっとこの屋敷で暮らしていたの?」
化粧台に座ってされるがままになっていたマティルダが突然口にした問いかけに、メイドは一瞬強張った顔つきをした。それを鏡越しにじっと彼女は見つめており、メイドがすぐに取り繕ったような、何かを隠すように笑みを浮かべた変化も、見逃さなかった。
「ええ。ここはオズワルド様にとってもご実家ですから。ですがお仕事がお忙しいのか、よく頻繁に家を留守にしていらっしゃったので、別々に暮らしていたとも言えましょう」
貴族の跡を継ぐのは長男だ。次男、三男は自分で暮らしを立てていかなければならない。医者や弁護士、軍人など名誉ある職業に就く者が多い中、オズワルドは商売に関わっていた。
金儲けの仕事など高貴な人間は最も忌避するべきだが、時代の流れなのか、それとも何かきっかけがあったのか、彼は隣国を相手に貿易会社を経営している。屋敷へ帰ってくるのも、本当にたまにであったらしい。
「でも、侯爵が亡くなられて跡を継いだのだから、お仕事も今までとずっと同じというわけにはいかなかったでしょう?」
実際、マティルダと結婚するまでは仕事は部下に任せて、屋敷に滞在することが多かったと父から聞いていた。確かめるように口にすれば、メイドは歯切れ悪くも、肯定した。
「ええ、そうですね……ご主人を亡くされたばかりの夫人一人では、何かと心細く、面倒な手続きもありましたから」
「そう……」
たしかにあのシェイラの見た目では、何かと苦労したように思える。……苦労していなくても、支えてあげたいと思うのではないか。
そんなふうに考える自分がいて、マティルダは嫌だなと思った。不快なものを無理矢理呑み込まされたような、そんな煩わしさを覚えた。
「今日出かけて行ったのは、やっぱりお仕事かしら?」
「ええ。そう、伺っております……」
「そう。昨夜も、ずいぶんと遅かったようね」
どこで寝ているのだろう。自室だろうか。それとも書斎で、初夜の時のようにシェイラと――
『オズワルド……っ』
あの時聴いた声が、頭の中で繰り返される。どうしてだろう、と思っていると、黙り込んでしまったマティルダが心配になったのか、メイドが「旦那様は」と明るい声で先ほどの続きを話してくる。
「昔から、仕事ばかりに精を出していたので、きっとじっとしているのが苦手なんですわ」
「そうなの?」
「はい。それと、可愛らしい奥様と結婚なされたばかりで、緊張なさっているのだと思います」
「わたし相手に、オズワルド様が緊張するなんて思えないけれど」
しますよ、とメイドは砕けた様子で笑った。だから本心に思えた。
「歳が離れているから?」
「それもあるかもしれませんが、奥様はどこか浮世離れしていますもの」
メイドはマティルダの黒髪をさらりと指で梳いて見せた。
「こんなに綺麗な髪、見たことありませんわ。櫛もいらなくて、羨ましいですわ」
「……ありがとう」
マティルダはぎこちない笑みを浮かべてお礼を述べる。
「母譲りなの」
「たしかご出身は異国の方でしたのよね? 男爵はとても愛していらっしゃったとか」
「ええ」
病気でマティルダが幼い頃に亡くなったが、父は再婚せず今でも母を愛している。成長にするにつれて、母に似ているとよく言われるようになった。
「きっと大変魅力的な方だったのでしょうね。奥様も、同じくらい旦那様から愛されるはずです」
「そうね……そうなると、いいわ」
前向きな返事にメイドも安心したように笑みを返し、一日をどう過ごすかの話題へと変えた。
「ここのお屋敷はとても広いですから。庭も立派ですし、図書室も本がたくさんありますわ。きっと、奥様もお気に入りの過ごし方が見つかるはずです」
「……そうね」
自分に期待されることは何もない。
マティルダはまずそのことを理解した。
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