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昼食を終え、二人で近くのショッピングモールに移動した。目的は雑貨屋で、中にある食器コーナーを眺める。
成海の持ち込んだ食器も一見きれいに見えるのだが、背面が欠けている物だとかをこれを機に買い換えたいのだそうだ。
僕も、成海と並んで長くリビングで何かをする事が増え、大きなマグカップが欲しいと思っていたところだった。容量の大きいものを持ち上げて重さを確かめていると、横から手元を覗き込まれる。
「マグカップを買い直すのか?」
「うん。成海が持ってる大きいやつと同じくらいのが欲しい」
「ああ、だったらこのシリーズが多分同じものだと思う」
よく見ればマグカップの形が同じで、成海が持っている物と同じ色もあった。猫カフェに向かう時に、この店にも立ち寄っていたのだろう。
猫の姿でマグカップを使うわけではない。僕がこの中からカップを選んだら、気を悪くしないだろうか。
「この中から選んだらお揃いになっちゃうけど、嫌だったりしない?」
「なんでだ?」
逆に問い返されて、答えに戸惑う。
「自分だけのマグカップ……みたいな?」
「別に気にしない。適度な重みがあって使いやすい、いい商品だと思うが」
そこまで言われてしまえば、この中から選ぶ他ない。いくつかの色を持ち上げ、どの色がいいだろうかと眺める。
成海が持っていたマグカップは青みを帯びた紺色で、落ち着いた色味だった。
「ねえ、僕が持つなら何色だと思う?」
さり気なく聞いたように言葉を発して、胸はどくどくと鳴っていた。せっかく二人でいる空間で使うなら、その色に自分を乗せてみたかった。
「橙色……かな」
伸びた腕が、薄い橙色のカップを持ち上げる。猫の姿の僕が持たない色……その色を彼が選んだことを意外に思いながら、唇を開く。
「白とか、灰色とか、黄緑とかじゃなくて?」
「猫の時の色はそうなんだろうが、玲音ってゆっくり陽の光を浴びてるイメージだから」
「よく寝るって言いたいの?」
「起きてる時もあるだろ」
成海が棚に戻そうとしたカップを横から奪い取り、手のひらに包み込む。橙色、お日様の色。彼が僕をイメージする色が、猫の姿だけから連想する色ではないことが嬉しかった。
すこし浮上した気分に任せて、にこ、と微笑みかける。
「じゃあ、これにする」
そっと成海が持つ買い物カゴに入れると、彼は頬を掻いた。
その後、皿もいくつか選んで一緒にカゴに入れていく。同じ家の環境を整えるために話をするのが楽しくて、くすぐったい気持ちがした。
やっぱりそれぞれ好みがあって、拘る箇所も違う。成海が普段どう考えて生活しているかが窺える言葉を、面白く思いながら受け取った。
これくらいにしておこうか、とレジに向かうと、マグカップも含めてまた素早く支払われてしまった。猫カフェと昼食の時だってあわや奢りになりそうで必死に受け取ってもらったのだが、また成海は商品を持って無言で歩き出す。
「ちょ、お金。マグカップは完全に僕のものでしょ……!」
「いやだ。折角プレゼントできるんだからいいだろ」
よくない、と言いつつ追いかけると、速度を緩めてくれる。
造りは綺麗だが固くて怖いと思っていたのに、いつの間に彼の表情はこんなに動くようになっていたんだろう。
振り返った端整な顔立ちが今日は柔らかく見えて、一段と魅入られた。
「…………受け取ってくれないのか?」
混じる不安げな響きに、唇を尖らせる。
「そういうのずるい……」
僕が諦めたのを察すると、成海は嬉しそうに唇を持ち上げた。
喫茶店で出会ったときは、こんな表情をするなんて知らなかった。何重にも積もった雪のようであったのに、今はこんなにも目まぐるしく別の波紋を見せてくれる。
他の人に気づかれなければいい。誰も彼もが怖がって、彼の本質を見ないでいればいい。そう思ってしまう自分の感情は、可愛らしい猫、からは懸け離れていた。
僕たちの二人暮らしは、順調に日を重ねていく。
取り立てて問題と呼べるような事も起きなかったが、僕はよく猫の姿を取るようになった。猫であれば、成海が嬉しそうに撫でてくれるからだ。
彼からくしゃくしゃにされていた髪を持つ人の姿だって嫌いではなかったはずなのに、今の僕は価値を見失っていた。
服だって、僕はやたらと手触りのいいものを選ぶ。けれど、選んだとしても猫が持つあの手触りはない。
猫だって、人だって、全部をひっくるめて僕のはずだ。片方だけが愛されて、僕は自分の半分に嫉妬心を向けていた。
季節は暖かさを増していくのに反して僕だけ取り残されている。そんな日の教室で、蚕四を見つけた。
幼馴染みの周囲に誰もいない事を確認して、ゆっくりと近付く。
「おはよう、蚕四」
蚕四は僕の方を振り向くと、眉を顰める。
「お。おはよ花苗。……お前、隈できてんぞ。ちゃんと寝てるか?」
「うん。ちょっと夜更かししちゃっただけ」
いまは少しずつ不安が重なって、体調を乱している。魂が身体に強く影響する僕たちは、精神に身体が引き摺られがちだった。
蚕四は僕の腕に手を伸ばし、ぽんぽん、と叩いた。彼は人としての僕にも、猫としての僕にも態度が変わることはない。なんだか、ただそれだけの事がひどく懐かしかった。
「お前。精神が崩れると絶対に身体を壊すんだから、ひどくなったら大学休んじゃえよ」
「それは流石に休むよ」
「どうだか。龍屋に任せてたら、しばらく肌艶良かったから安心してたんだけどな。あいつもお前の面倒ばっか見てられないか」
成海が体調不良を心配した時は、僕はさっさと猫の姿になって逃げてしまう。彼の責任ではないのだが、僕はあいまいに笑って誤魔化した。
隣の席に鞄を置き、筆箱を取り出す。
「龍屋。お前に変な事してない?」
ぼと、と手のひらから机に筆箱を落とした。はぁ? と僕の喉からは批難めいた声が漏れ、細められた視線は妄言を吐いた友人に向かう。
いやいや、と友人は両手を挙げ、取り繕うように揺れた声を出した。
「もう付き合ってたりするのかな、って思って」
「付き合ってないし、成海は別に変なこともしないから!」
ノートでぺしん、と幼馴染みの頭を叩くと、ぜんぜん痛くないのに痛え、と声が漏れる。
「いや、……割と真面目にカマ掛けたのにな。俺、龍屋は花苗だから同居を持ちかけたんだと思ってるよ」
「蚕四の妄想! 勘違い!」
「だって、そもそも猫を飼いたいんなら普通に引っ越せばいいじゃん。なーんかお前に対してやたら甘いしさ。花苗が龍屋と付き合う気ないなら、逆に警戒したほうがいいよ」
どうなの、と突っ込まれて、僕はぐっと口籠もる。
恋人になったら、きっとあの掌は人の身でも僕のものだ。追及されればそれが魅力的に映ってしまって、そう捉える自身に困惑した。
返事をできずにいる僕に、蚕四は訳知り顔でにたりと笑った。
「あー、そう。へえ。まあ、花苗がいいなら別にいいけど。おまえ奥手なんだから、ちゃんと正直になれよ」
「うるさいー! 微妙なとこなんだからせっつかないでよ」
彼女持ちの余裕か、蚕四は僕をからかっては励ますことを繰り返す。講義が始まる前、にたにたと悪趣味に笑う幼馴染みを罵っている内に、すこし気分は晴れた。
気晴らしの所為か、講義は珍しく集中して受けることができた気がする。でも、それを幼馴染みに伝えて礼を言うのは何だか気恥ずかしかった。
鞄の中に入っていた飴玉を投げつけるように渡して、成海と約束している学食へ向かって駆け去る。
学内の渡り廊下まで歩いて、ふと冷たい風につられて顔を上げた。まだ時期としては寒いが、もう少ししたら春休みが始まる。
成海の家に行こうか、と計画も立てていて、僕は彼のご家族なら秘密を打ち明けてもいいと思っていた。役に立ちたい、喜んでほしい、と猫らしくない奉仕感情に気が急いて仕方がない。
こんな歪んだ顔を見てほしくないのに、会う時間を少しでも貰えるのなら受け取りたがる。長い冬に凍り付いた感情を、僕は完全に持て余していた。
「成海」
学食のある棟は建て替え後さほど経っておらず、学食も清潔感のある色味と木の質感をわざと残した居心地のいいスペースだ。
券売機の近くで目立つ姿を見つけて、腕に手を添える。まったく意識していなかった頃に始めたスキンシップは癖になってしまっていて、いま止めるほうが不自然だ。
こちらを見返す成海の表情は、僕以外が見ても感じるくらい柔らかい。
「俺はもう決まってるが、玲音は何食べる?」
「何だと思う?」
決まっていることを示唆するように問い返すと、成海が斜め前の券売機を見つめる。
「きつねうどん」
「狐はイヌ科だもん」
お金を入れ、日替わり魚定食のボタンを押す。成海は残念そうに続けてお金を入れ、こっちは肉定食を選んだようだ。
列に並んで定食を受け取ると、空いている席へと向かう。暖房の効いた室内は暖かく、大きな窓から見える中庭の寒さとは切り離されている。
「「いただきます」」
箸を持ち上げ、さっそくアジフライに手を付ける。さくりと音を立てる衣、配膳時にソースを掛けた部分は甘辛く、ご飯に合う味付けだった。
んー、と美味しさを表現していると、目の前の成海も生姜焼きを口に運んでいる。
「今日は魚が当たりだよ」
「肉だろ」
意見が分かれるのだっていつものことだ。やいやい言いながら食事を終え、セルフで提供されているお茶を片手にのんびりと雑談を続ける。
並んで寛いでいる僕たちに声が掛かったのは、会話が一息ついた時のことだった。
「龍屋、話してるとこ悪い。ノート借りっぱなしだったからさ」
話しかけてきたのは、成海がよく行動を共にしている顔ぶれだった。
おう、と成海はノートを受け取り、鞄に仕舞う。それで終わりかと思ったが、彼らの表情は好奇心に満ちている。
対して、成海はもう用はないだろう、と言わんばかりに言葉を掛けようとはしない。
「……龍屋の同居人、紹介してくんないの?」
「別に俺が友達なだけで、玲音とは友達じゃないだろお前ら」
やだやだとごねる友人達を押しやり、つなぎをする様子もない。あまりにも可哀想になって、横から口を開いた。
「初めまして。花苗です」
「こんにちは、俺は左柄。こっちは────」
各々が自己紹介をする間、成海はむっつりと緑茶を啜っていた。
明らかに表情の変わった成海の肩に、左柄が手を置く。
「かわいこちゃん独り占めしたいのは分かるけど、お前がいない時に俺らも見ててやれるじゃん。面識あるくらいいいだろ」
「バッ……カ! お前ら絡みたがりだから、面倒じゃないか心配してるだけだ」
肩に乗った手を払い落とし、成海は僕の態度を探るように視線を向けてきた。にこ、と笑い返して、面倒に思っていないことを伝える。
「嬉しいよ。成海の大事なお友達だもん」
言い終わると、その場に沈黙が満ちた。
なんだか不味いことを言っただろうか、と成海を見ると、はあ、と口元に手を当てて嘆息する。
「やっぱ紹介したくなかった……」
「いや、紹介してよかっただろ。こういう子だったら、なおさら俺らの目があるほうが安全だぞ」
左柄の言葉に、そうだそうだ、と他の友人達も同意する。
人の僕は、たまにこうやって話の流れを切ってしまうことがあった。蚕四には肉体的に守られるのもそうだが、幼馴染みが近くにいることで安心してもいられた。
けれど、そうやって幼馴染みに守られていたから、人としての僕の本質は幼い頃からあまり変わっていないのかもしれない。
猫の僕は好きでいられるのに、人の僕を、自信を持って好きだと言うことは難しい。
「花苗くん。連絡先教えて」
「……いいよー」
はっと我に返り、慌てて言葉を取り繕う。目の前の成海は、むすっとした表情が元に戻ることはない。口を開いて漏れる声音も駄々っ子のそれだった。
「別に同居してるんだし、俺経由でいいだろ」
「お前経由とか、ぜったい経由しないだろ」
「するわけないだろ」
「……花苗くん、交換しよ」
僕はおろおろと成海と左柄の両方を見る。やがて成海は諦めたように好きにしろ、と手を振った。
左柄はにんまり笑い、携帯を近づけてアドレスを交換する。他の友人達とも連絡先を交換し、僕は携帯を仕舞い込んだ。
賑やかな友人達は成海に手を振ると、ざわめきの尾を引きながら去っていく。
「前に言ってた、深い付き合いのお友達、だよね?」
「まあな。あいつらどんだけ怖い顔しても気にしないから、怒った時は言葉で伝えるんだぞ」
うん、と頷くと、成海は冷えたお茶を口に運んだ。
成海は僕を友人達に紹介したくなかったのかもしれないが、僕はまた彼の新しい一面が見れたことを嬉しく思っている。口に出すには重たすぎる感情を、そっとまた胸に仕舞った。
次の講義が近くなり、立ち上がって移動を始める。
揃うようになった歩幅も、並んで歩く距離も、前よりも近くなった筈なのに、遠く感じるのは何故だろう。
「さむ」
渡り廊下でついそう言ってしまうと、隣に並んでいた指先が伸びてくる。冷えた僕の指を捕まえて、きゅっと握り込んだ。
「本当だ」
指先はすぐに離れてしまって、僕は彼の体温が残った指を握り込む。こっそりと唇を噛んで、漏れそうになる言葉を封じ込んだ。
もっと指先を握っていてほしかった。並んで手を繋いで歩きたかった。猫にできないことは、人の姿の僕でなければ叶えられない。
吸う息は冷たくて、喉を思いっきり冷やしていく。冷気が届いてしまったのか、胸はただ息ぐるしかった。
成海の持ち込んだ食器も一見きれいに見えるのだが、背面が欠けている物だとかをこれを機に買い換えたいのだそうだ。
僕も、成海と並んで長くリビングで何かをする事が増え、大きなマグカップが欲しいと思っていたところだった。容量の大きいものを持ち上げて重さを確かめていると、横から手元を覗き込まれる。
「マグカップを買い直すのか?」
「うん。成海が持ってる大きいやつと同じくらいのが欲しい」
「ああ、だったらこのシリーズが多分同じものだと思う」
よく見ればマグカップの形が同じで、成海が持っている物と同じ色もあった。猫カフェに向かう時に、この店にも立ち寄っていたのだろう。
猫の姿でマグカップを使うわけではない。僕がこの中からカップを選んだら、気を悪くしないだろうか。
「この中から選んだらお揃いになっちゃうけど、嫌だったりしない?」
「なんでだ?」
逆に問い返されて、答えに戸惑う。
「自分だけのマグカップ……みたいな?」
「別に気にしない。適度な重みがあって使いやすい、いい商品だと思うが」
そこまで言われてしまえば、この中から選ぶ他ない。いくつかの色を持ち上げ、どの色がいいだろうかと眺める。
成海が持っていたマグカップは青みを帯びた紺色で、落ち着いた色味だった。
「ねえ、僕が持つなら何色だと思う?」
さり気なく聞いたように言葉を発して、胸はどくどくと鳴っていた。せっかく二人でいる空間で使うなら、その色に自分を乗せてみたかった。
「橙色……かな」
伸びた腕が、薄い橙色のカップを持ち上げる。猫の姿の僕が持たない色……その色を彼が選んだことを意外に思いながら、唇を開く。
「白とか、灰色とか、黄緑とかじゃなくて?」
「猫の時の色はそうなんだろうが、玲音ってゆっくり陽の光を浴びてるイメージだから」
「よく寝るって言いたいの?」
「起きてる時もあるだろ」
成海が棚に戻そうとしたカップを横から奪い取り、手のひらに包み込む。橙色、お日様の色。彼が僕をイメージする色が、猫の姿だけから連想する色ではないことが嬉しかった。
すこし浮上した気分に任せて、にこ、と微笑みかける。
「じゃあ、これにする」
そっと成海が持つ買い物カゴに入れると、彼は頬を掻いた。
その後、皿もいくつか選んで一緒にカゴに入れていく。同じ家の環境を整えるために話をするのが楽しくて、くすぐったい気持ちがした。
やっぱりそれぞれ好みがあって、拘る箇所も違う。成海が普段どう考えて生活しているかが窺える言葉を、面白く思いながら受け取った。
これくらいにしておこうか、とレジに向かうと、マグカップも含めてまた素早く支払われてしまった。猫カフェと昼食の時だってあわや奢りになりそうで必死に受け取ってもらったのだが、また成海は商品を持って無言で歩き出す。
「ちょ、お金。マグカップは完全に僕のものでしょ……!」
「いやだ。折角プレゼントできるんだからいいだろ」
よくない、と言いつつ追いかけると、速度を緩めてくれる。
造りは綺麗だが固くて怖いと思っていたのに、いつの間に彼の表情はこんなに動くようになっていたんだろう。
振り返った端整な顔立ちが今日は柔らかく見えて、一段と魅入られた。
「…………受け取ってくれないのか?」
混じる不安げな響きに、唇を尖らせる。
「そういうのずるい……」
僕が諦めたのを察すると、成海は嬉しそうに唇を持ち上げた。
喫茶店で出会ったときは、こんな表情をするなんて知らなかった。何重にも積もった雪のようであったのに、今はこんなにも目まぐるしく別の波紋を見せてくれる。
他の人に気づかれなければいい。誰も彼もが怖がって、彼の本質を見ないでいればいい。そう思ってしまう自分の感情は、可愛らしい猫、からは懸け離れていた。
僕たちの二人暮らしは、順調に日を重ねていく。
取り立てて問題と呼べるような事も起きなかったが、僕はよく猫の姿を取るようになった。猫であれば、成海が嬉しそうに撫でてくれるからだ。
彼からくしゃくしゃにされていた髪を持つ人の姿だって嫌いではなかったはずなのに、今の僕は価値を見失っていた。
服だって、僕はやたらと手触りのいいものを選ぶ。けれど、選んだとしても猫が持つあの手触りはない。
猫だって、人だって、全部をひっくるめて僕のはずだ。片方だけが愛されて、僕は自分の半分に嫉妬心を向けていた。
季節は暖かさを増していくのに反して僕だけ取り残されている。そんな日の教室で、蚕四を見つけた。
幼馴染みの周囲に誰もいない事を確認して、ゆっくりと近付く。
「おはよう、蚕四」
蚕四は僕の方を振り向くと、眉を顰める。
「お。おはよ花苗。……お前、隈できてんぞ。ちゃんと寝てるか?」
「うん。ちょっと夜更かししちゃっただけ」
いまは少しずつ不安が重なって、体調を乱している。魂が身体に強く影響する僕たちは、精神に身体が引き摺られがちだった。
蚕四は僕の腕に手を伸ばし、ぽんぽん、と叩いた。彼は人としての僕にも、猫としての僕にも態度が変わることはない。なんだか、ただそれだけの事がひどく懐かしかった。
「お前。精神が崩れると絶対に身体を壊すんだから、ひどくなったら大学休んじゃえよ」
「それは流石に休むよ」
「どうだか。龍屋に任せてたら、しばらく肌艶良かったから安心してたんだけどな。あいつもお前の面倒ばっか見てられないか」
成海が体調不良を心配した時は、僕はさっさと猫の姿になって逃げてしまう。彼の責任ではないのだが、僕はあいまいに笑って誤魔化した。
隣の席に鞄を置き、筆箱を取り出す。
「龍屋。お前に変な事してない?」
ぼと、と手のひらから机に筆箱を落とした。はぁ? と僕の喉からは批難めいた声が漏れ、細められた視線は妄言を吐いた友人に向かう。
いやいや、と友人は両手を挙げ、取り繕うように揺れた声を出した。
「もう付き合ってたりするのかな、って思って」
「付き合ってないし、成海は別に変なこともしないから!」
ノートでぺしん、と幼馴染みの頭を叩くと、ぜんぜん痛くないのに痛え、と声が漏れる。
「いや、……割と真面目にカマ掛けたのにな。俺、龍屋は花苗だから同居を持ちかけたんだと思ってるよ」
「蚕四の妄想! 勘違い!」
「だって、そもそも猫を飼いたいんなら普通に引っ越せばいいじゃん。なーんかお前に対してやたら甘いしさ。花苗が龍屋と付き合う気ないなら、逆に警戒したほうがいいよ」
どうなの、と突っ込まれて、僕はぐっと口籠もる。
恋人になったら、きっとあの掌は人の身でも僕のものだ。追及されればそれが魅力的に映ってしまって、そう捉える自身に困惑した。
返事をできずにいる僕に、蚕四は訳知り顔でにたりと笑った。
「あー、そう。へえ。まあ、花苗がいいなら別にいいけど。おまえ奥手なんだから、ちゃんと正直になれよ」
「うるさいー! 微妙なとこなんだからせっつかないでよ」
彼女持ちの余裕か、蚕四は僕をからかっては励ますことを繰り返す。講義が始まる前、にたにたと悪趣味に笑う幼馴染みを罵っている内に、すこし気分は晴れた。
気晴らしの所為か、講義は珍しく集中して受けることができた気がする。でも、それを幼馴染みに伝えて礼を言うのは何だか気恥ずかしかった。
鞄の中に入っていた飴玉を投げつけるように渡して、成海と約束している学食へ向かって駆け去る。
学内の渡り廊下まで歩いて、ふと冷たい風につられて顔を上げた。まだ時期としては寒いが、もう少ししたら春休みが始まる。
成海の家に行こうか、と計画も立てていて、僕は彼のご家族なら秘密を打ち明けてもいいと思っていた。役に立ちたい、喜んでほしい、と猫らしくない奉仕感情に気が急いて仕方がない。
こんな歪んだ顔を見てほしくないのに、会う時間を少しでも貰えるのなら受け取りたがる。長い冬に凍り付いた感情を、僕は完全に持て余していた。
「成海」
学食のある棟は建て替え後さほど経っておらず、学食も清潔感のある色味と木の質感をわざと残した居心地のいいスペースだ。
券売機の近くで目立つ姿を見つけて、腕に手を添える。まったく意識していなかった頃に始めたスキンシップは癖になってしまっていて、いま止めるほうが不自然だ。
こちらを見返す成海の表情は、僕以外が見ても感じるくらい柔らかい。
「俺はもう決まってるが、玲音は何食べる?」
「何だと思う?」
決まっていることを示唆するように問い返すと、成海が斜め前の券売機を見つめる。
「きつねうどん」
「狐はイヌ科だもん」
お金を入れ、日替わり魚定食のボタンを押す。成海は残念そうに続けてお金を入れ、こっちは肉定食を選んだようだ。
列に並んで定食を受け取ると、空いている席へと向かう。暖房の効いた室内は暖かく、大きな窓から見える中庭の寒さとは切り離されている。
「「いただきます」」
箸を持ち上げ、さっそくアジフライに手を付ける。さくりと音を立てる衣、配膳時にソースを掛けた部分は甘辛く、ご飯に合う味付けだった。
んー、と美味しさを表現していると、目の前の成海も生姜焼きを口に運んでいる。
「今日は魚が当たりだよ」
「肉だろ」
意見が分かれるのだっていつものことだ。やいやい言いながら食事を終え、セルフで提供されているお茶を片手にのんびりと雑談を続ける。
並んで寛いでいる僕たちに声が掛かったのは、会話が一息ついた時のことだった。
「龍屋、話してるとこ悪い。ノート借りっぱなしだったからさ」
話しかけてきたのは、成海がよく行動を共にしている顔ぶれだった。
おう、と成海はノートを受け取り、鞄に仕舞う。それで終わりかと思ったが、彼らの表情は好奇心に満ちている。
対して、成海はもう用はないだろう、と言わんばかりに言葉を掛けようとはしない。
「……龍屋の同居人、紹介してくんないの?」
「別に俺が友達なだけで、玲音とは友達じゃないだろお前ら」
やだやだとごねる友人達を押しやり、つなぎをする様子もない。あまりにも可哀想になって、横から口を開いた。
「初めまして。花苗です」
「こんにちは、俺は左柄。こっちは────」
各々が自己紹介をする間、成海はむっつりと緑茶を啜っていた。
明らかに表情の変わった成海の肩に、左柄が手を置く。
「かわいこちゃん独り占めしたいのは分かるけど、お前がいない時に俺らも見ててやれるじゃん。面識あるくらいいいだろ」
「バッ……カ! お前ら絡みたがりだから、面倒じゃないか心配してるだけだ」
肩に乗った手を払い落とし、成海は僕の態度を探るように視線を向けてきた。にこ、と笑い返して、面倒に思っていないことを伝える。
「嬉しいよ。成海の大事なお友達だもん」
言い終わると、その場に沈黙が満ちた。
なんだか不味いことを言っただろうか、と成海を見ると、はあ、と口元に手を当てて嘆息する。
「やっぱ紹介したくなかった……」
「いや、紹介してよかっただろ。こういう子だったら、なおさら俺らの目があるほうが安全だぞ」
左柄の言葉に、そうだそうだ、と他の友人達も同意する。
人の僕は、たまにこうやって話の流れを切ってしまうことがあった。蚕四には肉体的に守られるのもそうだが、幼馴染みが近くにいることで安心してもいられた。
けれど、そうやって幼馴染みに守られていたから、人としての僕の本質は幼い頃からあまり変わっていないのかもしれない。
猫の僕は好きでいられるのに、人の僕を、自信を持って好きだと言うことは難しい。
「花苗くん。連絡先教えて」
「……いいよー」
はっと我に返り、慌てて言葉を取り繕う。目の前の成海は、むすっとした表情が元に戻ることはない。口を開いて漏れる声音も駄々っ子のそれだった。
「別に同居してるんだし、俺経由でいいだろ」
「お前経由とか、ぜったい経由しないだろ」
「するわけないだろ」
「……花苗くん、交換しよ」
僕はおろおろと成海と左柄の両方を見る。やがて成海は諦めたように好きにしろ、と手を振った。
左柄はにんまり笑い、携帯を近づけてアドレスを交換する。他の友人達とも連絡先を交換し、僕は携帯を仕舞い込んだ。
賑やかな友人達は成海に手を振ると、ざわめきの尾を引きながら去っていく。
「前に言ってた、深い付き合いのお友達、だよね?」
「まあな。あいつらどんだけ怖い顔しても気にしないから、怒った時は言葉で伝えるんだぞ」
うん、と頷くと、成海は冷えたお茶を口に運んだ。
成海は僕を友人達に紹介したくなかったのかもしれないが、僕はまた彼の新しい一面が見れたことを嬉しく思っている。口に出すには重たすぎる感情を、そっとまた胸に仕舞った。
次の講義が近くなり、立ち上がって移動を始める。
揃うようになった歩幅も、並んで歩く距離も、前よりも近くなった筈なのに、遠く感じるのは何故だろう。
「さむ」
渡り廊下でついそう言ってしまうと、隣に並んでいた指先が伸びてくる。冷えた僕の指を捕まえて、きゅっと握り込んだ。
「本当だ」
指先はすぐに離れてしまって、僕は彼の体温が残った指を握り込む。こっそりと唇を噛んで、漏れそうになる言葉を封じ込んだ。
もっと指先を握っていてほしかった。並んで手を繋いで歩きたかった。猫にできないことは、人の姿の僕でなければ叶えられない。
吸う息は冷たくて、喉を思いっきり冷やしていく。冷気が届いてしまったのか、胸はただ息ぐるしかった。
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主人公は顔の右半分に火傷を負っていて、右手が無いという状態です。
全3話完結。
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