逃避録

桜舞春音

文字の大きさ
上 下
1 / 6

1 淫雨

しおりを挟む
 五月に入ってからというもの、ずっと雨が降り続いている。
 別にそれが嫌というわけではない。彼にとっては、そんなこと一切関係ないことだからだ。

「どうしてそんな事もきちんとできないのですか!!」
 バシンっと鈍く響く音とともに神宮類じんぐうるいの泣く声が一段と大きくなる。
 それを、他の子どもたちは黙って見ている。ここで微動でもしようものなら"正義"……新瑞橋未咲あらたまばしみさは容赦なく“教える“から。

 愛知県名古屋市。
 一般的には民度が高いとされる千種区の子どもたちだが、ここ高度保育施設には名古屋じゅうから訳ありの子どもたちが集められている。多くは、親兄弟を喪った子どもたちである。その中でも発達障害であるとか、知的障害であるとか、身勝手に面倒と見做された存在は里親に出されることもなくここに入れられる。表向きには成人までを上限年齢として学習から生活、職までを手あてする保護施設だが、実態は、なんの愛も受けられない檻だった。

 未咲は類を部屋に戻した。
 全くどうしてこう言ったことが理解できないのか。給与は良いし、保育士資格だけで公務員としての肩書を手に入れられたものの、それに騙されてここに就いたのは間違えた気がする。

 未咲が同期の大江爽伸おおえさやのと二人で努めているのは、五歳から一〇歳クラスの男の子。健常児ならイヤイヤ期を抜け出した頃であるが、この施設の子供はたいていが自閉症かADHDかを持っている。だから大変さは計り知れなかった。

「みさ先生怖かった……」
 類は未咲が消えてから、薄ら寒い遮光カーテンの部屋で同室の岩充がんみつると話していた。無機質な鉄製の二段ベッド、簡素な仕切りのトイレと洗面所がある一〇畳程度の子供部屋。これがあと三二部屋ある八階建ての建物が高度保育施設。通称BADROOM。
 BADROOMというのは卒業し世に出た者たちが外に出てから言うこととなるここの渾名。人権なんて微塵もないこの施設を指すため、主に一般人の間でヒソヒソ語られている言葉だった。

 充は類の二つ年上の七歳。こんなところで育ったうえ、彼には吃音と軽度のADHDがあるだけで非常に物知りで達観しているから、このフロアの子どもたちをまとめる、外の世界でいうならば学級委員みたいな存在だった。
 類が彼と同室になれたのは奇跡であるといえよう。類は診断こそついていないものの、どちらにせよ介助が必要なほどに注意欠如とASDの中核症状が酷かった。つまりそれはここでの生殺しを意味する。

「ユンホ、これ」
 夕食は、フロアごとに集まって食べることになっている。
「?」
 薄いクラムチャウダーをパンにつけていたバン・ユンホは隣の部屋の蒲郡和がまごおりやまとに紙を手渡された。
 それは、はるか向こうでなにか話し込んでいる類から回されてきたアンケート。



これは、なんなんだ?
しおりを挟む

処理中です...