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はじまりのカップラーメン
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姉が男と消え、俺は甥っ子と暮らすことになった。
一人暮らし、三十路男の俺の家に、十歳の小学生がやってきたのだ。
血のつながりがあるとはいえ、一度も会ったことのない叔父の家に子どもを住まわせようだなんて、不用心にもほどがある。もし、俺が妙な性癖を持った変態だったらどうするのだろう。
だが、身勝手な親戚のやつらはこういうときだけ一致団結して、甥っ子を俺に押し付けた。
「あんたの人柄はわかってるから」「血縁が近いほうがこの子も安心できるでしょ」「立派な会社にお勤めなんだし、子ども一人くらいなんとかなるわよね」「結婚する時はまた相談しましょ」——などとそれらしいことを言って、黒いランドセルを背負った少年を俺のほうへと突き出した。
強欲で自己中心的なものの考え方しかできないあいつらにとって、子どもの世話などただただ面倒で不経済なものでしかないのだろう。だから俺に押し付けたのだ。
……俺だって、そうだ。
あいつらと似たようなものだ。
俯きがちな少年が目の前に立ったとき、”面倒だな”と感じたのは事実だった。
疎遠だった姉に子どもがいることさえ知らなかった。この子の父親が誰かすらもわからない。その上、姉はまた違う男を作ってどこかへ消えた。
少女の頃から自由奔放だった姉は、結局いつまでも大人になることができていない。面倒なことはすべて周りの人間がなんとかしてくれると思っている、頭の中にお花畑を生やしたただのガキだ。
あんな母親のもとに生まれてしまったこの子は不幸だ。
そして、俺なんかと一緒に暮らさなければならなくなったことは、さらなる不幸に違いない。
+
仕方なく家に連れ帰った甥っ子の名前は、朝斗という。
顔だけは美しかった姉に似て、目鼻立ちは整っているが、痩せっぽちで表情は暗い。
青白い顔をして、ランドセルのショルダー部分をギュッと握りしめたままのろのろと俺のあとをついてくる姿に、俺は一切かわいげを感じることができなかった。
だが、俺の家に入った途端、朝斗は「うわぁ」と小さな声を上げた。
都内に建つタワーマンションの上層階から見晴らせる夜景に感動した……わけではなく、部屋の中がひどくとっ散らかって、汚かったからだろう。
「なんだよ。一人暮らしの男の家なんて、こんなもんだ」
「……」
「まぁ……部屋は余ってるから、適当にお前の部屋を作るよ。とりあえずどっか適当に座って。なんか飯、頼むから」
部屋は広い。一人暮らしでは有り余るほどの広さの家を、俺は買った。
とある総合総社のインフラエンジニアとして働く俺は、年収だけは有り余るほどもらえている。
専門学校を出るまではずっと貧乏暮らしをしてきたこともあって、金の使い方がわからなかった。
だけど、広い家に住みたいという願望だけ、ずっと胸に抱き続けていた。
広くて、高いところにあって、住んでいるだけで周りから羨望の目で見られるような場所に憧れていた。だからこの家を買ったのだ。
……とはいえ、独り身には広すぎる家だったと、住んでみてから実感した。
ただっぴろいだけの部屋はどこもかしこもしんとしていて、五年住んだ今もまるで”俺の家”という感じがしない。
いつだって、この部屋にさえ俺の存在を無視されているような感覚が拭えない。すこぶる居心地の悪い場所だ。
マーキングをするように、あちこちに服やゴミを放置してみても、生活感のようなものが出てこない。
ただただ乱雑に散らかった部屋の中で、仕事用の大きなモニターだけが無機質な光を放っている。
パンデミック以降、うちの部署は在宅勤務を推奨している。
居心地の悪いこの家で、俺は二十四時間監禁されているかのような気分を味わいながら、仕事をしている。
——そんな家で暮らすこの子は不幸だ。
とはいえ、ずっと放っておくわけにはいかない。
物珍しげに部屋を見回し、うろうろと散らかった広い部屋を歩き回る少年の背中に、俺はおずおずと声をかけた。
「な、なんか食いたいもん、ある? せっかくだし、お前の好きなもの、頼もう」
子どもに対してどんなふうに声をかけたらいいのかもわからない。少し離れた場所にいる朝斗に届くよう、いつもより声を張ったら咽せてしまった。
こんな調子で、俺はこいつを育てていくことができるのだろうか。
だが朝斗は、俺に背を向けたまま立ち止まって固まっている。やはり声の掛け方が悪かったのか。怖がらせてしまっただろうか?
「ええと、ほら。なんかあんだろ。好きな食いもん」
「好きなもの……」
「そうだよ。姉貴が……お前の母さんがどんな料理を作ってたかは知らないけど、ハンバーグとか、オムライスとか?」
朝斗はゆっくりこっちに向き直り、ちょっと困ったような顔をしている。
だがここで急かすような真似をしてはいけない気がして黙っていると、朝斗はぽつりとこう言った。
「……カップラーメン」
「えっ? い、いや、遠慮しなくてもいいんだぞ? 俺が作るわけじゃなくて、このへんにある美味い店からなんだってオーダーできるんだ」
「ぼく、好きです。カップラーメン。いつも食べてたし」
「いつも? ……姉貴のやつ、料理しなかったのか?」
「お母さんは、あんまり家にいなかったから。お仕事が忙しいっていって、たくさんカップラーメン買っておいてくれてて。好きなやつを選んで一人で食べてたんです」
「な……」
あいつは仕事なんてしてなかった。
おおかた、朝斗を放り出して男と遊んでいただけだろう。
——あいつ……母親そっくりだな。呆れるくらい、おんなじことしてやがる。
胸の中が不愉快にざわついて、俺はぎゅっと唇を引き結んだ。
すると、朝斗の表情が不意に動く。
目を見開き、怯えたように唇をわななかせ、ひどく切羽詰まった口調でこう言った。
「あ、あの、大丈夫です。ぼく、おなかいっぱいだから、ご飯はいいです」
「えっ? な、なんで?」
「大丈夫です。……あ、部屋の片付けとかは得意なので、ぼくがやるんで、しばらくはここにいさせてください」
ぺこりと頭を下げた朝斗の、ランドセルの肩ベルトをギュッと掴む小さな手が、青白く震えている。
泣きたくなった。
まるで、幼い頃の自分を見ているようで。
俺はゆっくり朝斗のそばに歩み寄り、目の前に跪く。おずおずと手を持ち上げて小さな肩にそっと触れた。
だが、朝斗がびくっ! と全身を強張らせるものだから、すぐにパッと手を離す。
手の持って行きどころがわからなくて、しばらく空を彷徨わせたあと、こわごわと、朝斗の頭の上に、そっと、乗せた。
そして、ふわ、ふわ、と手を上下させ、ぎこちなく頭を撫でる。
「っ……」
怯えたような瞳が俺を見上げる。
よく見ると、目の形が俺にそっくりだ。俺と姉は顔立ちがよく似ていた。つまり、俺と朝斗だって似ているということだ。
自分との繋がりを感じた。
煩わしくて断ち切ることばかり考えていた血の繋がりを、今は少し、大切なもののように思えた。
「よし、じゃあ今日は、俺んちにあるカップラーメン、食べよう」
「……」
「んで、明日からは、もっと美味いもん、一緒に食べよう。ここで食べたっていいし、どこかに食べに行ったっていい。食べるものなら、俺んちのまわりにはたくさんある。いい店がいっぱいあるんだ」
ためらいがちで、恐る恐るのような、朝斗の視線。
その視線を受け止めながら、俺はぎこちなく、笑って見せた。
「片付けなんていいんだ。俺がぼちぼちやってくから。お前……朝斗はさ、俺なんかに気を遣わないでいいんだよ。子どもなんだから、子どもらしくしてたらいいんだ」
「……」
「食べたいものを食べたいって言えばいい。食べたいものがわからないんだったら、俺がいろいろ提案する。朝斗は、その中から選べばいい。あ、あと、欲しいものがあるなら遠慮なく言ってほしい。俺、子育てしたことないから、なんもわかんないんだよ。だから、そっちのほうが助かるんだ」
なるべくゆっくり、静かな声で、朝斗にそう語りかける。
すると朝斗の瞳から、少しだけ怯えの色が消えていくような気がして、俺は嬉しかった。
さっきよりも、すこし自然に微笑むことができた。
「あー……でも、育ち盛りだもんなぁ。外食ばっかじゃ健康によくないよな……うーん、でも俺、料理したことないし……」
「ちょ、ちょう……!」
「ん?」
「ちょ、ちょうり……」
朝斗が唐突に発した声に、俺はややビビってしまった。
だが、「ん?」と小首を傾げながら瞳を覗き込んでみると、朝斗は頬を赤らめ、勇気を振り絞るように息をぐっと吸い込んで、こう言った。
「調理実習があったから、学校で……! 料理も、ちょっとはできるようになるかも」
「あ……ああ、そ、そっか。調理実習か」
「だから、少しずつなら、健康にいいもの、つくれるようになれるので……」
「……調理実習、か。なるほどな」
朝斗のいじらしさに、つい、大きな笑顔が溢れる。
すると、俺の笑みに呼応するように、朝斗もようやく少しだけ頬を緩めた。
「そうだよな、朝斗が学校で勉強してくるなら、俺もちょっとは練習しないとダメだな」
「で、でも、お仕事とか……」
「仕事は仕事、朝斗が心配することじゃないから、大丈夫だ。……でも、そうだなぁ、目玉焼きくらいは作れないと、いい年した人間としてやばいよな」
「つくれないの?」
「つくったことない。卵、買ったことないし」
「えぇ……」
「マンションの下にショッピングモールがあるから、でっかいスーパーはあるんだよ。まずは買い物の練習からしないとだな」
「ショッピングモール。でっかいスーパー……」
朝斗の目がわずかに輝く。手応えを感じた俺は、「よし」と言ってすっくと立ち上がる。
「ひとまずカップラーメンで腹ごしらえしたあと、スーパーに行こう。米と卵くらいは買って……あっ、俺、炊飯器もフライパンも持ってないわ」
「……買う?」
「そうだな、買おう。電気屋も行ってみよう。荷物多くなると思うし、しっかり手伝ってくれよな」
「う……うん!」
きらきらした瞳で俺を見上げる朝斗のことを、少しだけ可愛いと思えた。
「じゃあ、まずはお湯でも沸かそうか。手、洗っといで」
「うん。……お湯、わかせる?」
「えぇ? あはははっ、それくらいできるって」
俺が噴き出すと、朝斗が控えめな笑みを浮かべる。
その瞬間、どこにいても薄暗さを漂わせていたこの部屋が、にわかに明るくなったように感じた。
了
一人暮らし、三十路男の俺の家に、十歳の小学生がやってきたのだ。
血のつながりがあるとはいえ、一度も会ったことのない叔父の家に子どもを住まわせようだなんて、不用心にもほどがある。もし、俺が妙な性癖を持った変態だったらどうするのだろう。
だが、身勝手な親戚のやつらはこういうときだけ一致団結して、甥っ子を俺に押し付けた。
「あんたの人柄はわかってるから」「血縁が近いほうがこの子も安心できるでしょ」「立派な会社にお勤めなんだし、子ども一人くらいなんとかなるわよね」「結婚する時はまた相談しましょ」——などとそれらしいことを言って、黒いランドセルを背負った少年を俺のほうへと突き出した。
強欲で自己中心的なものの考え方しかできないあいつらにとって、子どもの世話などただただ面倒で不経済なものでしかないのだろう。だから俺に押し付けたのだ。
……俺だって、そうだ。
あいつらと似たようなものだ。
俯きがちな少年が目の前に立ったとき、”面倒だな”と感じたのは事実だった。
疎遠だった姉に子どもがいることさえ知らなかった。この子の父親が誰かすらもわからない。その上、姉はまた違う男を作ってどこかへ消えた。
少女の頃から自由奔放だった姉は、結局いつまでも大人になることができていない。面倒なことはすべて周りの人間がなんとかしてくれると思っている、頭の中にお花畑を生やしたただのガキだ。
あんな母親のもとに生まれてしまったこの子は不幸だ。
そして、俺なんかと一緒に暮らさなければならなくなったことは、さらなる不幸に違いない。
+
仕方なく家に連れ帰った甥っ子の名前は、朝斗という。
顔だけは美しかった姉に似て、目鼻立ちは整っているが、痩せっぽちで表情は暗い。
青白い顔をして、ランドセルのショルダー部分をギュッと握りしめたままのろのろと俺のあとをついてくる姿に、俺は一切かわいげを感じることができなかった。
だが、俺の家に入った途端、朝斗は「うわぁ」と小さな声を上げた。
都内に建つタワーマンションの上層階から見晴らせる夜景に感動した……わけではなく、部屋の中がひどくとっ散らかって、汚かったからだろう。
「なんだよ。一人暮らしの男の家なんて、こんなもんだ」
「……」
「まぁ……部屋は余ってるから、適当にお前の部屋を作るよ。とりあえずどっか適当に座って。なんか飯、頼むから」
部屋は広い。一人暮らしでは有り余るほどの広さの家を、俺は買った。
とある総合総社のインフラエンジニアとして働く俺は、年収だけは有り余るほどもらえている。
専門学校を出るまではずっと貧乏暮らしをしてきたこともあって、金の使い方がわからなかった。
だけど、広い家に住みたいという願望だけ、ずっと胸に抱き続けていた。
広くて、高いところにあって、住んでいるだけで周りから羨望の目で見られるような場所に憧れていた。だからこの家を買ったのだ。
……とはいえ、独り身には広すぎる家だったと、住んでみてから実感した。
ただっぴろいだけの部屋はどこもかしこもしんとしていて、五年住んだ今もまるで”俺の家”という感じがしない。
いつだって、この部屋にさえ俺の存在を無視されているような感覚が拭えない。すこぶる居心地の悪い場所だ。
マーキングをするように、あちこちに服やゴミを放置してみても、生活感のようなものが出てこない。
ただただ乱雑に散らかった部屋の中で、仕事用の大きなモニターだけが無機質な光を放っている。
パンデミック以降、うちの部署は在宅勤務を推奨している。
居心地の悪いこの家で、俺は二十四時間監禁されているかのような気分を味わいながら、仕事をしている。
——そんな家で暮らすこの子は不幸だ。
とはいえ、ずっと放っておくわけにはいかない。
物珍しげに部屋を見回し、うろうろと散らかった広い部屋を歩き回る少年の背中に、俺はおずおずと声をかけた。
「な、なんか食いたいもん、ある? せっかくだし、お前の好きなもの、頼もう」
子どもに対してどんなふうに声をかけたらいいのかもわからない。少し離れた場所にいる朝斗に届くよう、いつもより声を張ったら咽せてしまった。
こんな調子で、俺はこいつを育てていくことができるのだろうか。
だが朝斗は、俺に背を向けたまま立ち止まって固まっている。やはり声の掛け方が悪かったのか。怖がらせてしまっただろうか?
「ええと、ほら。なんかあんだろ。好きな食いもん」
「好きなもの……」
「そうだよ。姉貴が……お前の母さんがどんな料理を作ってたかは知らないけど、ハンバーグとか、オムライスとか?」
朝斗はゆっくりこっちに向き直り、ちょっと困ったような顔をしている。
だがここで急かすような真似をしてはいけない気がして黙っていると、朝斗はぽつりとこう言った。
「……カップラーメン」
「えっ? い、いや、遠慮しなくてもいいんだぞ? 俺が作るわけじゃなくて、このへんにある美味い店からなんだってオーダーできるんだ」
「ぼく、好きです。カップラーメン。いつも食べてたし」
「いつも? ……姉貴のやつ、料理しなかったのか?」
「お母さんは、あんまり家にいなかったから。お仕事が忙しいっていって、たくさんカップラーメン買っておいてくれてて。好きなやつを選んで一人で食べてたんです」
「な……」
あいつは仕事なんてしてなかった。
おおかた、朝斗を放り出して男と遊んでいただけだろう。
——あいつ……母親そっくりだな。呆れるくらい、おんなじことしてやがる。
胸の中が不愉快にざわついて、俺はぎゅっと唇を引き結んだ。
すると、朝斗の表情が不意に動く。
目を見開き、怯えたように唇をわななかせ、ひどく切羽詰まった口調でこう言った。
「あ、あの、大丈夫です。ぼく、おなかいっぱいだから、ご飯はいいです」
「えっ? な、なんで?」
「大丈夫です。……あ、部屋の片付けとかは得意なので、ぼくがやるんで、しばらくはここにいさせてください」
ぺこりと頭を下げた朝斗の、ランドセルの肩ベルトをギュッと掴む小さな手が、青白く震えている。
泣きたくなった。
まるで、幼い頃の自分を見ているようで。
俺はゆっくり朝斗のそばに歩み寄り、目の前に跪く。おずおずと手を持ち上げて小さな肩にそっと触れた。
だが、朝斗がびくっ! と全身を強張らせるものだから、すぐにパッと手を離す。
手の持って行きどころがわからなくて、しばらく空を彷徨わせたあと、こわごわと、朝斗の頭の上に、そっと、乗せた。
そして、ふわ、ふわ、と手を上下させ、ぎこちなく頭を撫でる。
「っ……」
怯えたような瞳が俺を見上げる。
よく見ると、目の形が俺にそっくりだ。俺と姉は顔立ちがよく似ていた。つまり、俺と朝斗だって似ているということだ。
自分との繋がりを感じた。
煩わしくて断ち切ることばかり考えていた血の繋がりを、今は少し、大切なもののように思えた。
「よし、じゃあ今日は、俺んちにあるカップラーメン、食べよう」
「……」
「んで、明日からは、もっと美味いもん、一緒に食べよう。ここで食べたっていいし、どこかに食べに行ったっていい。食べるものなら、俺んちのまわりにはたくさんある。いい店がいっぱいあるんだ」
ためらいがちで、恐る恐るのような、朝斗の視線。
その視線を受け止めながら、俺はぎこちなく、笑って見せた。
「片付けなんていいんだ。俺がぼちぼちやってくから。お前……朝斗はさ、俺なんかに気を遣わないでいいんだよ。子どもなんだから、子どもらしくしてたらいいんだ」
「……」
「食べたいものを食べたいって言えばいい。食べたいものがわからないんだったら、俺がいろいろ提案する。朝斗は、その中から選べばいい。あ、あと、欲しいものがあるなら遠慮なく言ってほしい。俺、子育てしたことないから、なんもわかんないんだよ。だから、そっちのほうが助かるんだ」
なるべくゆっくり、静かな声で、朝斗にそう語りかける。
すると朝斗の瞳から、少しだけ怯えの色が消えていくような気がして、俺は嬉しかった。
さっきよりも、すこし自然に微笑むことができた。
「あー……でも、育ち盛りだもんなぁ。外食ばっかじゃ健康によくないよな……うーん、でも俺、料理したことないし……」
「ちょ、ちょう……!」
「ん?」
「ちょ、ちょうり……」
朝斗が唐突に発した声に、俺はややビビってしまった。
だが、「ん?」と小首を傾げながら瞳を覗き込んでみると、朝斗は頬を赤らめ、勇気を振り絞るように息をぐっと吸い込んで、こう言った。
「調理実習があったから、学校で……! 料理も、ちょっとはできるようになるかも」
「あ……ああ、そ、そっか。調理実習か」
「だから、少しずつなら、健康にいいもの、つくれるようになれるので……」
「……調理実習、か。なるほどな」
朝斗のいじらしさに、つい、大きな笑顔が溢れる。
すると、俺の笑みに呼応するように、朝斗もようやく少しだけ頬を緩めた。
「そうだよな、朝斗が学校で勉強してくるなら、俺もちょっとは練習しないとダメだな」
「で、でも、お仕事とか……」
「仕事は仕事、朝斗が心配することじゃないから、大丈夫だ。……でも、そうだなぁ、目玉焼きくらいは作れないと、いい年した人間としてやばいよな」
「つくれないの?」
「つくったことない。卵、買ったことないし」
「えぇ……」
「マンションの下にショッピングモールがあるから、でっかいスーパーはあるんだよ。まずは買い物の練習からしないとだな」
「ショッピングモール。でっかいスーパー……」
朝斗の目がわずかに輝く。手応えを感じた俺は、「よし」と言ってすっくと立ち上がる。
「ひとまずカップラーメンで腹ごしらえしたあと、スーパーに行こう。米と卵くらいは買って……あっ、俺、炊飯器もフライパンも持ってないわ」
「……買う?」
「そうだな、買おう。電気屋も行ってみよう。荷物多くなると思うし、しっかり手伝ってくれよな」
「う……うん!」
きらきらした瞳で俺を見上げる朝斗のことを、少しだけ可愛いと思えた。
「じゃあ、まずはお湯でも沸かそうか。手、洗っといで」
「うん。……お湯、わかせる?」
「えぇ? あはははっ、それくらいできるって」
俺が噴き出すと、朝斗が控えめな笑みを浮かべる。
その瞬間、どこにいても薄暗さを漂わせていたこの部屋が、にわかに明るくなったように感じた。
了
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