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第4話 緑の丘 : 私をいつも励ましてくれる、緑の丘と、クジラのバンダナ。

7.浮かぶ海(3/3)

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スカイのバンダナ……クロマルの尻尾の部分だろう。
「……その聖なる御手を翳し、傷つきし者に救いと安らぎを」
治癒術はフローラさんの十八番なだけあって、流石にスラスラだ。
冒険者を辞めてからも、なぜか毎日あちこち怪我をするフローラさん。
その治癒術の腕は鈍りようがなかった。
私よりもずっと多い回復量で、首の痛みが一度で綺麗に消え去る。
「ありがとうございますっ」
咳き込まず話せることにホッとしつつ、体を起こそうとするも、今度は背の痛みに固まる。
「あらまあ、背中も痛めちゃったのかしら。今治すわね、じっとしててね~♪」
フローラさんが続けて祝詞を唱え始める。
横目で見たその表情は、とてもイキイキとしている。
ちなみに、私の今の体勢は半うつ伏せというか、
横を向いているようなうつ伏せているような形で、
先ほどの動作で足こそ下ろしたものの、上半身はまだスカイの体の上だった。
スカイが、恥ずかしいのか顔を背けているので、自然とその後頭部が目に入る。
つぶらな瞳が描かれているはずの、真っ黒いバンダナにそっと顔を寄せてみる。
あの日、ペンキの臭いを漂わせていたクジラからは、今、スカイの匂いがした。

今年もきっと、もう少しすれば、優しい雨の日に、空から子クジラ達の卵が降って来るだろう。
空クジラが卵から生まれるという点は、海のクジラ達と明確に違う部分だった。

眼前で硬直している黒いバンダナが、遠い日に出会ったあの子クジラの姿と重なる。
「クロマル……」
私の微かな呟きに重なったフローラさんの声が、はっきりと祝詞の終わりを告げる。
「……傷つきし者に救いと安らぎを」
白い光に包まれて、背中がミシミシと疼く。
すうっと光が消えてゆくのに合わせて、背の痛みも消え去った。
よいしょと起き上がり、フローラさんにお礼を言うべく口を開いたその時、背後でスカイが「キュイー」と無理そうな高音で鳴いた。
「…………」
お礼を言ってもらうのが生きがいと言っても過言ではないようなフローラさんの、期待に満ちたニコニコ笑顔が、キョトンとした表情に変わる。

振り返れば、フォルテも吃驚したような不思議そうな顔で、デュナに至っては呆れ返ったような半眼で、皆スカイを見つめていた。

皆の視線を一身に受けたスカイが、その視線から逃れるように俯く。
「……なん、だよ……」
耳まで赤くして、照れ隠しにもならないような言葉を呟くスカイは、あの頃の少年のままに思えた。

普段、恥ずかしい台詞も平気で言うくせに、こんな風に注目されるのは相変わらず苦手なのかな……。
それでも、声を荒げないところや、眉間を押さえるその薬指は、ここで交わした私との約束があったからだろう。
そう思うと、懐かしいような、くすぐったいような思いがした。
苦笑しながらスカイに言う。
「もうクロマルも子供じゃないんだから、そんなに可愛く鳴かないでしょ」
無理な声を出したスカイが、皆に見つめられて可哀相に見えるのは、その鳴き声が可愛過ぎたからじゃないだろうか。

思えば、あの頃も私がクロマルの名を口にすると、スカイが慌てて鳴いていたけれど、それが不自然じゃなかったのは、きっとまだスカイが小さな少年だったからだ。
「お、大人クジラ……って、なんて鳴くんだ?」
「さあ……」
スカイに真剣に聞き返されて、私も返事に詰まる。
いや、別に、大人の鳴き声で鳴けというつもりではないんだけど……。
スカイが、頼れる姉に助けを求める。
「ねーちゃんねーちゃん、大人のクジラって……」
「パオーンて鳴くんじゃない?」
間髪入れずにデュナがすぱっと返事をする。
……それって、クジラの鳴き声だっけ?
「ぱ…………ぱおーん」
神妙な顔で、なるべくそれらしく鳴いてみるスカイに、お腹を抱えて爆笑するデュナ。
抱えていたバスケットを慌てて隣に降ろしている。
持ったまま笑っていると、中身がシェイクされそうだと思ったのだろう。
そっか、あの時デュナがバスケットを確保しててくれたんだ……。
半日かけて作ったお昼ご飯が無事だったことにホッとする。
「え、ち、違うのか!? じゃあなんて……」
困惑するスカイに、デュナがすかさず助言する。
「そうねぇ、プオーンて鳴くほうがそれっぽいかしら」
「ぷ……ぷおーん」
素直な弟を指差して、笑い転げるデュナ。

可哀相なものを見る目で、どこか悲しげにスカイを見つめていたフォルテも、今は必死に笑いを堪えていた。
からかわれていることにやっと気付いて、さらに真っ赤になるスカイ。
「ねーちゃん!!」
「いや、う、嘘じゃないわよ?? まあ、雄が、求愛行動で、鳴く声だけど、ね」
呼吸困難に陥りつつも、デュナが途切れ途切れに返事をする。
「そうか、これでいいのか」
ホッとした様子のスカイに、堪えきれなくなったのかフォルテが噴き出した。
スカイにとっては、嘘でないこと、間違っていないことのみが重要なんだなぁ……。
本当に、いつまでも子供みたいに真っ直ぐな人だ。
デュナは、笑いすぎて息が出来ずにヒーヒー言っているし、フォルテも、可愛い声でキャラキャラ楽しそうに笑っているし、フローラさんも、いつもどおりの笑顔でクスクスと笑っている。

皆の声につられて、私の苦笑も笑顔に変わる。

こんな簡単なことで、皆こんなに笑えるんだよね。

空には、浮海が出来る際に沢山姿を見せていた光の精霊のうち、まだそこらをうろついていた子供達が笑い声に惹かれて集まりかけている。

思うよりずっと単純で温かいこの世界が、私は結構好きだった。

視線をおろすと、スカイと目が合う。

皆に笑われ続けて、どうしたものかと困惑した表情を浮かべていたスカイだったが、私の笑顔を見ると、ほんの一瞬安心したような顔をした後、ラベンダー色の瞳を細めて、弾けるような笑顔になった。
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