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第一話「春桜の死」
~翠雲と陸奏の義兄弟~
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「さて、陸奏はちゃんとやっているかな?」
春桜にも大臣にも見せたことのない嬉しそうな表情で、足取り軽やかに町の中を歩く。大臣としての役職を完全に切り替え、翠雲は民と変わらない服装で歩いていた。
基本、大臣が町中を歩くことはなく、出歩いたとしても、最低でも二人の護衛を同行させていた。そのため、すれ違う人達が大臣の翠雲だと気付くには少々時間がかかったが、それも一時凌ぎにしか過ぎなかった。
庶民と同じ格好でも変わらぬ立ち居振る舞いに、人々はその姿を見るや否や地に伏せた。
地べたに額を押し当て震える民の一人に、翠雲はしゃがんで話しかけた。
「頭を上げてください」
声を掛けても面を上げない農夫の身体は震えていた。
殺されるかもしれないという恐怖、目に見えない圧力が、どうかこのまま穏便に過ぎ去るようにと、農夫は心の中で祈っていた。
農夫の肩にそっと手を添えて囁く翠雲。
「……もし困ったことがあれば、寺に居る海宝殿を訪ねなさい。断られた時には陸奏と言う者を訪ねて翠雲の名前を出しなさい。あまり無理をなさらず。日頃の務め、誠にありがたく思っております。体だけは壊さぬよう大事にしてください」
翠雲は言い終えると、何事も無かったかのように寺の方へと歩き出す。彼の言葉を聞いた農夫はその場で涙を流して喜んだ。以降、農夫が人一倍、己の仕事に励むようになったのは言うまでもなかった。
その後、寺へと向かいながら町の様子を観察していた翠雲は、ある程度の飢饉は収まったようだと安堵していた。山間部の川から水を引き、城下町近くの村の田畑へと流すことに成功、加えて運搬経路も見直したおかげで、周囲の村への行き来もしやすくなった。海産物も海から離れた城下町へと届けるには厳しかったところを、干物にすることで城でも食べられるようにした。
王城、城下町、周辺の村での取引は盛んになった。それでも、これがその場凌ぎの策であり、他の地域にまで手が届いていないことを彼は誰にも言えずに心配していた。
暫く町の様子を確認した後、ようやく寺へと着いた翠雲は本堂へと向かった。
戸を開けると、そこには海宝を囲むように僧侶達が座して並んでいた。
「海宝殿、お元気そうで……」
本堂で僧侶達に説法を説いている海宝に挨拶をすると、その中から翠雲を勢いよく呼ぶ声がした。
「翠兄さん!」
「おお、陸奏も元気そうですね」
優しげに微笑む翠雲。陸奏は久しぶりに見ることが出来た義兄に大層喜び、座禅の姿勢から立ち上がると直ぐ様、翠雲へと近寄った。
「元気にしておられたのですか? お体は大丈夫ですか? 翠兄さんの策が民を救ったと皆口々にしてましたよ! あと、それから!」
楽しそうに話す陸奏に押され、たじたじの翠雲は海宝に目で合図を送った。海宝は静かに頷き、僧侶達へと終了の知らせ告げた。
「ふふ、では今日はこの辺りにしておきましょうか。あまり根を詰めすぎてもいけませんからね」
僧侶達は一同揃って海宝へと一礼すると、その場を後にした。本堂には、礼の遅れた陸奏が翠雲の横であたふたとしている。その姿を海宝と翠雲が別々に微笑みながら見つめていた。
陸奏は再び海宝の元へと走り寄る。
「……すみません。嬉しさのあまり、つい我を忘れてしまいました」
落ち着いた陸奏は海宝に頭を下げて猛省した。
「無理もありません。もう一年以上会っていなかったのでしょう。大丈夫ですから、翠雲さんとお話ししてきなさい」
優しく許す海宝に満面の笑みを見せて感謝を述べた陸奏は、入り口で待っていた翠雲の方へと走り寄っていった。
「翠兄さん、お待たせしました!」
「もういいのかい?」
「はい! 大丈夫です!」
「そうか、なら行きますか」
「はい!」
本堂の戸を閉めようとする翠雲は振り返り、海宝へと頭を下げてからその場を後にした。
「ふふ、本当にどちらも素晴らしい兄弟ですね」
海宝は手を合わせて祈りながら、二人の今後の無事を願った。
本堂から歩いていく二人は陸奏の部屋へと向かっていた。
「翠兄さん、王城の方は落ち着いたのですか?」
「まあ、なんとかね。堅物ばかりで無駄な時間もあったけど……陸奏の方はどうなんだい?」
「修行には励んでいます! ただ……」
言い終えた陸奏の表情の曇りに、翠雲は心配して理由を尋ねた。
「何か嫌なことでもあったのかい?」
少し俯きながら歩く陸奏は暫く黙ったまま、翠雲は付き添うようにして黙々と隣を歩いていた。
「翠兄さん」
「どうしたんだい?」
「王城も町も周辺の村も、翠兄さんのおかげで落ち着きを取り戻しました。ですが、私は見ていただけで何も出来なかったです」
己の無力さを憂い、悲しげにする陸奏の頭を優しく撫でる翠雲。
「今回は私が民の為に動く時だっただけのこと。陸奏には、陸奏にしか出来ない役目がきっと訪れます」
「そんなこと、あるのでしょうか?」
自信無く項垂れる陸奏。
「さあ、胸を張って。それでも私の弟かい?」
「うぅ……」
涙を堪えて翠雲の顔を見つめる陸奏、その姿に微笑み続ける翠雲。
「ふふっ、焦る必要はありませんよ」
「……翠兄さん」
陸奏は目に静かな闘志を燃やしながら呟いた。
「どうしたんだい?」
「私は、私にしか出来ないことがあるその時まで、修行に励むことにします!」
力強く真直ぐ見つめる陸奏の姿に翠雲は笑う。
「ふふ、そうだね。それがいい」
「なんで笑うんですか⁉」
「陸奏は真直ぐで素直な子だ。その気持ちを大切に持ち続けて、海宝殿の元で修業に励むと良い」
「翠兄さん、なんだか少し馬鹿にしていませんか?」
「ふふ、どうだろう。さあ、そろそろ陸奏の家に着く頃かな?」
「翠兄さんはすぐに胡麻化しますよね……」
「そうなのかい?」
とぼけた顔で聞き返す翠雲に、陸奏は深く溜め息を吐くと、翠雲よりも少しだけ前へと進んだ。
「わー、もう、いいです! 着きましたよ!」
寺から少し離れた場所に、僧侶達が住む家が立ち並ぶ場所があった。
春桜にも大臣にも見せたことのない嬉しそうな表情で、足取り軽やかに町の中を歩く。大臣としての役職を完全に切り替え、翠雲は民と変わらない服装で歩いていた。
基本、大臣が町中を歩くことはなく、出歩いたとしても、最低でも二人の護衛を同行させていた。そのため、すれ違う人達が大臣の翠雲だと気付くには少々時間がかかったが、それも一時凌ぎにしか過ぎなかった。
庶民と同じ格好でも変わらぬ立ち居振る舞いに、人々はその姿を見るや否や地に伏せた。
地べたに額を押し当て震える民の一人に、翠雲はしゃがんで話しかけた。
「頭を上げてください」
声を掛けても面を上げない農夫の身体は震えていた。
殺されるかもしれないという恐怖、目に見えない圧力が、どうかこのまま穏便に過ぎ去るようにと、農夫は心の中で祈っていた。
農夫の肩にそっと手を添えて囁く翠雲。
「……もし困ったことがあれば、寺に居る海宝殿を訪ねなさい。断られた時には陸奏と言う者を訪ねて翠雲の名前を出しなさい。あまり無理をなさらず。日頃の務め、誠にありがたく思っております。体だけは壊さぬよう大事にしてください」
翠雲は言い終えると、何事も無かったかのように寺の方へと歩き出す。彼の言葉を聞いた農夫はその場で涙を流して喜んだ。以降、農夫が人一倍、己の仕事に励むようになったのは言うまでもなかった。
その後、寺へと向かいながら町の様子を観察していた翠雲は、ある程度の飢饉は収まったようだと安堵していた。山間部の川から水を引き、城下町近くの村の田畑へと流すことに成功、加えて運搬経路も見直したおかげで、周囲の村への行き来もしやすくなった。海産物も海から離れた城下町へと届けるには厳しかったところを、干物にすることで城でも食べられるようにした。
王城、城下町、周辺の村での取引は盛んになった。それでも、これがその場凌ぎの策であり、他の地域にまで手が届いていないことを彼は誰にも言えずに心配していた。
暫く町の様子を確認した後、ようやく寺へと着いた翠雲は本堂へと向かった。
戸を開けると、そこには海宝を囲むように僧侶達が座して並んでいた。
「海宝殿、お元気そうで……」
本堂で僧侶達に説法を説いている海宝に挨拶をすると、その中から翠雲を勢いよく呼ぶ声がした。
「翠兄さん!」
「おお、陸奏も元気そうですね」
優しげに微笑む翠雲。陸奏は久しぶりに見ることが出来た義兄に大層喜び、座禅の姿勢から立ち上がると直ぐ様、翠雲へと近寄った。
「元気にしておられたのですか? お体は大丈夫ですか? 翠兄さんの策が民を救ったと皆口々にしてましたよ! あと、それから!」
楽しそうに話す陸奏に押され、たじたじの翠雲は海宝に目で合図を送った。海宝は静かに頷き、僧侶達へと終了の知らせ告げた。
「ふふ、では今日はこの辺りにしておきましょうか。あまり根を詰めすぎてもいけませんからね」
僧侶達は一同揃って海宝へと一礼すると、その場を後にした。本堂には、礼の遅れた陸奏が翠雲の横であたふたとしている。その姿を海宝と翠雲が別々に微笑みながら見つめていた。
陸奏は再び海宝の元へと走り寄る。
「……すみません。嬉しさのあまり、つい我を忘れてしまいました」
落ち着いた陸奏は海宝に頭を下げて猛省した。
「無理もありません。もう一年以上会っていなかったのでしょう。大丈夫ですから、翠雲さんとお話ししてきなさい」
優しく許す海宝に満面の笑みを見せて感謝を述べた陸奏は、入り口で待っていた翠雲の方へと走り寄っていった。
「翠兄さん、お待たせしました!」
「もういいのかい?」
「はい! 大丈夫です!」
「そうか、なら行きますか」
「はい!」
本堂の戸を閉めようとする翠雲は振り返り、海宝へと頭を下げてからその場を後にした。
「ふふ、本当にどちらも素晴らしい兄弟ですね」
海宝は手を合わせて祈りながら、二人の今後の無事を願った。
本堂から歩いていく二人は陸奏の部屋へと向かっていた。
「翠兄さん、王城の方は落ち着いたのですか?」
「まあ、なんとかね。堅物ばかりで無駄な時間もあったけど……陸奏の方はどうなんだい?」
「修行には励んでいます! ただ……」
言い終えた陸奏の表情の曇りに、翠雲は心配して理由を尋ねた。
「何か嫌なことでもあったのかい?」
少し俯きながら歩く陸奏は暫く黙ったまま、翠雲は付き添うようにして黙々と隣を歩いていた。
「翠兄さん」
「どうしたんだい?」
「王城も町も周辺の村も、翠兄さんのおかげで落ち着きを取り戻しました。ですが、私は見ていただけで何も出来なかったです」
己の無力さを憂い、悲しげにする陸奏の頭を優しく撫でる翠雲。
「今回は私が民の為に動く時だっただけのこと。陸奏には、陸奏にしか出来ない役目がきっと訪れます」
「そんなこと、あるのでしょうか?」
自信無く項垂れる陸奏。
「さあ、胸を張って。それでも私の弟かい?」
「うぅ……」
涙を堪えて翠雲の顔を見つめる陸奏、その姿に微笑み続ける翠雲。
「ふふっ、焦る必要はありませんよ」
「……翠兄さん」
陸奏は目に静かな闘志を燃やしながら呟いた。
「どうしたんだい?」
「私は、私にしか出来ないことがあるその時まで、修行に励むことにします!」
力強く真直ぐ見つめる陸奏の姿に翠雲は笑う。
「ふふ、そうだね。それがいい」
「なんで笑うんですか⁉」
「陸奏は真直ぐで素直な子だ。その気持ちを大切に持ち続けて、海宝殿の元で修業に励むと良い」
「翠兄さん、なんだか少し馬鹿にしていませんか?」
「ふふ、どうだろう。さあ、そろそろ陸奏の家に着く頃かな?」
「翠兄さんはすぐに胡麻化しますよね……」
「そうなのかい?」
とぼけた顔で聞き返す翠雲に、陸奏は深く溜め息を吐くと、翠雲よりも少しだけ前へと進んだ。
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