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梅折りかざし、君を恋ふ 〜後宮の妃は皇子に叶わぬ恋をする〜

第四話

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(黄色の傘……梅の模様?)

 後ろから傘をかざした人の方に琳伽りんかが振り返ろうとすると、それを静止するように首元に太い腕が伸び、そのまま抱きすくめられる。
 驚いた顔をした朱花がもう一度礼をして、足早に走り去った。


張 琳伽ちょう りんか
「はい……」


 琳伽りんかの耳元で、低い囁き声が聞こえる。
 朱花が驚いて走り去ったということは、この背後の男の正体はあの人しかいない。


「皇帝陛下。おやめください」
琳伽りんか……なぜ私に挨拶もなく去ろうとしたのだ」
「申し訳ございません。ですが私は前皇帝陛下の妃。もう既に後宮での役目は終わっております。どうぞお放しください」


 腕の力が緩んだ隙に琳伽りんかは抜け出し、一呼吸整えてから、うしろを振り返る。
 皇帝の象徴である龍の刺繍の入った上衣、大帯にかかった碧の佩玉。傘を片手に立っていたのは、とうの昔に琳伽りんかの背丈を超えた、二十歳になった逞峻ていしゅんであった。


「まだ時はあるだろう。ここでは雨に濡れる。中に入ろう」
「輿を待たせておりますので」
「遅れると伝えてある」


 琳伽りんかの返事を待たず、逞峻ていしゅん琳伽りんかの頭上に傘を寄せ、背中を押して殿舎の中へ入るように促した。



 何もない房の中で、二人は向かい合って座る。

 前皇帝の妃が既に後宮を出た。ここ梅華殿だけではなく、他の殿舎も大半がもぬけの殻である。この房からどこまでも続く静寂の中に、春雨の音だけが響く。


 琳伽りんか逞峻ていしゅんが共に時を過ごしたのは、もう何年も前のこと。更対峙したとて何を話せばよいかも分からず、居心地の悪さから琳伽りんかは円窓から外を見た。
 つい先ほどまで同じ場所から景色を眺めて心を静めていたのに、今は目の前に逞峻ていしゅんがいるからか、やはり心は落ち着かない。


琳伽りんか


 逞峻ていしゅんが衣の裾を直しながら口を開く。


「……どこの寺に向かうつもりだ」


 散々もったいぶった挙句、行き先だけを尋ねて来た逞峻ていしゅんの言葉に、琳伽りんかは呆れて目を開いた。
 わざわざ皇帝が従者も付けずに誰もいない後宮に現れ、琳伽りんかの去り際を引き留めて置いてこんな話だ。行き先だけが知りたいのなら、あとから何とでも調べようがあるものを。

 せっかく梅の花とも別れを済ませ、逞峻ていしゅんへの想いを断ち切ったところだったのに、これでは未練が残ってしまう。
 琳伽りんかは苛立ちながら逞峻ていしゅんの問いに答えた。


「行き先は、温恵郡の慶鵬寺けいほうじでございますが」
「出家……するのだな」
「はい、私には子がおりませんので。尼となって前皇帝陛下の供養をしながら余生を過ごしたいと思っております」
「そうか……」


 そしてまた、二人の間に静寂。
 目線も合わせようとしない逞峻ていしゅんに、次は琳伽りんかが口を開いた。


「陛下。もうそろそろ私は参ります。雨の中、輿をいつまでも待たせるわけには参りませんので」
「……待て! こんなことを言いたかったわけではないのだ。これを……」
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