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六章
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北川と話し合った翌日、黒田法務大臣は秘書を携えて朝比奈法律事務所を訪れようとしいた。
「ちょっとお邪魔させてもらうよ」
秘書が扉を開けるとブランドのスーツで身を固めた黒田が事務所内に入り、パラリーガルの美紀に声を掛けた。
「あれ、珍しい人がいらっしゃいましたね。今日はどうされたのですか?」
窓越しに黒川の姿を見付けて麗子が部屋から出てきた。
「ああっ、ちょっと近くに用があったものだから、久しぶりに君の顔を見たいと寄らせてもらったよ。最近は色々とご活躍のようでなによりですな」
そう話す黒田の後ろに控えていた男性が前に出て名刺を差し出した。
「こうして弁護士で働くことになったのは黒田先生のお陰かもしれません。でも、選挙が控える忙しく大切な時期なのに、近くに用があったとは言えわざわざお寄りいただき申し訳ありませんね。しかし、私の顔を見るのが目的ではないですよね」
麗子が秘書から名刺を受け取ると、胸元から名刺入れを取り出して自分の名刺を渡した。
「増税などの政策の失敗に、大臣や副大臣それに政務官などの不祥事などで内閣の支持率は過去最低レべルに落ち込み、我が民自党にも影響して最悪の状態での解散なので、少々困惑していますよ」
言葉とは裏腹に余裕の表情だった。
「地盤のしっかりした先生にとっては、そんな逆風は微風のようなもので選挙には何も影響はないしょう。ああっ、美紀ちゃん、このお客様は、事務所で使っているコーヒーやお茶ではお口に合わないと思いますので、無用な気遣いは必要ありませんよ」
そう言いながら応接室へと2人を案内した。
「ずぶんな塩対応ですな」
麗子に案内された応接室に移動してテーブルを挟んで腰を下ろした。
「いえ、本当のことを申しただけですよ。それで、私にお話とはなんでしょう」
麗子が警察庁の特捜部に在籍中に、民自党の大物代議士のパーティー券に絡む使途不明金の捜査で政治資金規制法違反や脱税と、国有地の払い下げの石友問題を担当し捜査した時に、政治的圧力が掛かり最終的にはどの事件も起訴できなかった苦い経験があり、三権分立とは名ばかりで政治家の権力に対抗できない検察の無力さを感じて、検事を辞して弁護士として生きることを決めた麗子であった。その政治家の1人が目の前に座る黒田であることも分かっていての対応であったのだ。
「もう何年も前の話だろ、君も意外と根に持つタイプなんだね。ちょっと調べさせて頂いてたのだが、君の事務所が担当するのは金にならない刑事事件や離婚訴訟が殆どで、企業間のМ&Aや訴訟問題は余り担当していないようだね。それに、特定企業の顧問弁護士にも就いていないようだね。私が親しくしている企業が、顧問弁護士として優秀な人材を探していて、良ければ君を紹介したいと思っているんだけどどうだろうね」
黒田はお茶の一杯も出さないその態度に怒りを感じながらも、平静と微笑みを保ちながら話した。
「お気持ちは大変ありがたいのですが、ご覧のとおり弁護士1人パラリーガル1人の手狭な弁護士事務所ですので、先生が言われるように刑事事件や離婚案件だけで手一杯です。ですから、残念ながら大企業の顧問弁護士を担う時間も自信もございません。先生からすればしょぼくれた弁護士事務所に見えるのでしょうが、私のことを信じてそれなりに依頼はありますので、人の役に立つように地を這いながら細々と仕事をこなして行きたいと思います。まぁ、お金にはならない仕事が多いことは確かですが、結構忙しくしていますので、心配はご無用です」
一応法務大臣ではあるので言葉を選んで丁寧に断ることになった。
「そうですか、それはとても残念ですね。しかし、東大法学部を卒業され、検察庁でもエリートコースを歩んでいらした優秀な検事が、手狭な法律事務所の弁護士では誠にもったいない話です。どのような理由で検事を辞められたのか詳しくは聞いてはおりませんが、検事として再採用の道をご用意することも今の私ならば可能です。もしよろしければ、一度考えて頂けませんか」
一の矢はかわされたが、懲りずに黒田は二の矢を放つことにした。
「どのような魂胆があるのか分かりかねますが、今の仕事を辞める気は全くありません。これでも私を必要としてくれる人は少しは居ますので、その人の為にも一生懸命頑張って続けていきたいと思っています」
父の背中を見て育ち、検事になることは当たり前と思っていた時期も確かにあったが、今は弁護士として今の仕事に誇りを持っている麗子であった。
「そうですか、誠に残念ですね」
そう言ってしばらく考え込んだ。
「先生、失礼ですが、今日は私の仕事についての話をする為にお越しになった訳ではないですよね。まわりくどいことは無しにして、本音をお話いただけませんか」
次の悪知恵を与えず問いただした。
「ああっ、そうだった。先日大学で君と同期だった北川君が、この事務所にお邪魔してあるお店で夕食をご馳走になった。いや、その前に急に電話連絡が入って店の外に出た時に、急に男性が倒れてその後亡くなったようなのです」
麗子の顔の表情の変化を見ながら話した。
「はい、その件は先程会っていただいたパラリーガルから話は聞いています。救急車は勿論ですが、警察も駆けつけたそうですね」
嬉しそうに微笑んだ。
「そうなんですよ。警察も初めは病死だと判断したのですが、何故かその店のスタッフに因って事件性があるとして警察が捜査を始めたそうなんですよ」
余計なことをしてくれたとばかりに嘆息を吐いた。
「そうなんですか」
麗子はまだ黒田の思惑を測りきれないでいた。
「北川君から聞いた話では、電話での要件を終えて店に戻った時には扉に鍵が掛かっていて入店できなくなっていて、救急車や警察もが次々とやって来て、仕方なくその場を立ち去ってしまったそうなんだ。まぁ、警察などに関わると時間が取られてしまって、これからの日本での仕事にも影響すると危惧して、断腸の思いで警察に名乗り出ることが出来なかったのだろう。ただ、折角夕食まで誘っていただいてその場を立ち去ってしまった事に、彼は朝比奈先生に本当に申し訳ないと感じていまして、直接会って是非お詫びしたいと言っていたのです。ただ、そうなると、あなたのお父様が最高検察庁の次席検事でいらっしゃる手前、事件現場に居たのであれば警察に出頭して説明をするように説得するのではないかと、話を聞いた私が勝手に判断して彼の代わりにこうして伺った訳なんですよ。本当に申し訳なかった」
黒田は頭を垂れて謝ってはいるが、言葉とは裏腹に気持ちは伝わってこなかった。
「黒田先生、北川君の気持ちは分かりました。実は、私もパラリーガルから事件のことを聞いて、彼のことは心配していたのですが、残念なことに携帯の番号を聞き忘れていまして、こちらから連絡できなくて困っていたところです。勤める会社名は聞いて、そちらから連絡してもらうつもりでしたのでちょうど良かったです。彼と連絡が取れるのでしたら、私もですがパラリーガルの糸川が心配していたとお伝えください」
それにしても、本人から電話1本掛けられなくて、わざわざ黒田を代理人に立てる北川の考えが理解できないでいた。
「分かりました、しっかりと伝えておきます。ああっ、そう言えば、麗子先生には弟さんが居らして、何故か本当に偶然に事件のあった店にアルバイトとしてお勤めだったと聞いたのですが、そんな飲食店にあなたの弟さんがアルバイトとして働いているなんて、何かの間違い、聞き違いですよね」
嫌味を込めて話を変えて来た。
「いいえ、事件現場に居たアルバイトスタッフは間違いなく私の弟ですよ。そして、警察に苦言を呈して取り調べを受けたそうです」
取り調べ室での刑事と応対する朝比奈の様子を思い浮かべて嘆息を吐いた。
「これは驚いた。父親が最高検察庁の次席検事の地位まで登りつめていて、東大の法学部を卒業して一時は検察のエースとして活躍されていたあなたを姉に持つ男が、飲食店のアルバイトをしているなんて驚きですね」
今度は黒田が嫌味を込めて大袈裟にリアクションを取って見せた。
「一応大学は出ていまして、先生もご存知の製薬会社に入社したのですが、大きな会社ではありがちな高学歴至上主義や年功序列などの制度に反発して辞めています。ただ、先生ほど国や国民に対して貢献はしていませんが、迷惑を掛けることなくそれなりに店や来店客に対して感謝されている人間だと思っていますよ」
本人を前にしては言えないが、一応姉として朝比奈のことは評価していた。
「そうですね。まぁ、職業に上下は無いと思いますし、生きがいを持って勤めているのでしたらどんな職業でも尊重しますが、ちょっと意外だったものですから失礼しました」
黒田が軽く頭を下げた時、ドアが3度ノックされ朝比奈が姿を現した。
「初めまして、今話題となっている愚弟の朝比奈優作と申します。亡くなった男性の蘇生を試みたのは救急救命士の資格を持っているので当然のことですし、賢姉からは余計なことに口出はしないと苦言を呈されましたが、状況を目の前にして事件性を警察に助言したのは当たり前のことだと思います」
頭を下げた後、姉の隣に腰を下ろした。
「えっ、君が救急救命士の資格をですか・・・・・」
朝比奈の突然の出現もだが、どうして飲食店のアルバイトがそんな資格を持っていたことに驚いていた。
「資格マニアなもので他にも色々な資格を持っていますよ。今、そんな資格を持っているならあんな店でアルバイトをしなくてもと思われたでしょう。まぁ、それは先生との生き方の価値観の違いであって、姉には迷惑を掛けているのは事実ですが、僕は今の生活で十分満足していますよ」
黒田の表情から心を読んで答えた。
「いえ、私はどんな仕事にも価値はあると日頃から思っていますよ。いくら高明な建築家が素晴らしい建物を設計して賞賛されても、実際に建てるのは土木作業員や色々な専門家であるからね。そもそも職業には優劣は付けられないからね」
政治家らしい誰が聴いても心地よい言葉であった。
「正に正論ですね。ただ、政府は増税に増税を重ねて、収入のほぼ半分を税金で取られてしまう状態です。失礼ですが、先生は一万円札の肖像で使われている、福澤諭吉の『学問のすすめ』をご存知ですか」
微笑んでいる黒田に言葉を投げ掛けた。
「ああっ、勿論だよ。『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と書き残し、それこそ平等をうたった言葉だな」
小学生でも知っているようなことを聞くのか。自分のことを馬鹿にしているのかと話している途中で気分が悪くなってきた。
「ところがですね、正しい全文は『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり』なんです。福沢諭吉が、アメリカの独立宣言の序文である『全ての人間は、生まれながらにして平等である』を意訳して引用した上で、『と言われている』と締めているのです。そしてその後には、全く逆の意味の主張が続きます。いささか長いので意味だけをお伝えすると、『しかしながら実際には賢い人と愚かな人、貧しい人と富んだ人、身分の高い人と低い人がいて、雲泥の差がついている』ってところでしょうか。これこそが諭吉が意図した主張で、『だからこそ、その不平等さを埋める為に、勉強して自分を磨くことをお勧めする』と説いているのです。ですから、僕はできる限り身に付けられるものを探し出して自分自身のスキルを上げようとしているのです。先生は国会議員、法務大臣の肩書きを外せば、どんな資格をお持ちでしょうか。法務大臣でいらっしゃるので、司法試験に受かっていらっしゃるのでしょうか」
黒田のことはあらかじめ調べてあり、嫌味を込めて尋ねた。
「私は建築関係に勤めていて、二級建築士の免許は持ってますよ」
黒田は表情には出さないが、たかがアルバイトふぜいの朝比奈に馬鹿にされているように感じて腹の中は煮えくり返っていた。
「随分前のことですが、僕が製薬会社に勤めていた時に、会社が先生のパーティー券を十枚購入したのですが、人数を集める為に僕も駆り出されて出席することになったのです。パーティー券の金額は二万円でしたが、会場に入ってびっくりしました。ドリンクは1杯限りで、驚いたことに料理は品数も少なく居酒屋程度の品質だったのですよ。利益率は9割以上、繁華街のぼったくりバーより酷いと思いました。先生たちは合法だとおしゃるのでしょうが、国民も馬鹿ではありませんからいつまでも気付かないと思わないことですね。因果応報、何時までも騙し続けることはできませんよ。ああっ、それは検察や良識のあるマスコミに任せるとして、そもそも僕があの店に居たことをどうして先生が知っていらっしゃるのでしょう。店で北川さんには会いましたが、僕が誰なのかは伝えていないはずなんですが」
朝比奈は空気が澱んできたのを感じて話を変えた。
「そっ、それは北川君から事件の話を聞いて、少し調べさせてもらったんだよ」
急に話が変わりドギマギしてしまった。
「高名な先生であれば色々な情報網をお持ちでしょうが、それならば名古屋市港区で起きた、覚せい剤取引においての警察官の拳銃暴発事件のこともご存知でしょうね」
黒田の表情の変化を楽しんでいるようだった。
「ああっ、その事件のことはマスコミで報道されたけど、その取引の際に暴発事件が発生したことは非公開なはずだ。どうして君が・・・・・」
意外な話に眉間に皺を寄せた。
「世の中には、壁に耳あり障子に目ありと言う言葉がありまして、隠しきれないこともあるものです。まぁ、公表すれば国民に不安を与えるとの判断だと言い訳されるのでしょうが、特に組織の上層部や政治家はコンプライアンスについて希薄な部分が多すぎます。自分は大丈夫、こんなことは絶対にバレないと考えて、最悪の事態を想像しない。いや、敢えてしないのかもしれません。先程も話した様に、政治資金のパーティー券についても長年指摘されずに来て、バレないから当たり前の様に続いていますが、それは民自党が単体で過半数を占めている現状では、誰も恐れて触れようとしませんが、今の様に色々な事件を起こして市民から反感を受けて支持率を下げれば、何れ発覚する時が来ると思いますよ。『驕れるもの久しからず』昔の人は良い言葉を残していますよ。それに、付け加えて今回の事件についてで言えば、先生は亡くなった男性の胃の内容物からテトロドトキシンが検出されて、所轄では何処かの店でフグ料理を食してその毒で亡くなったのだなんて、いくらなんでも未消化のフグの身が出てこないのに、そんな馬鹿な判断をするとは考えにくいですが、この事件もちゃんと捜査して国民を裏切らない様にお願いしますよ。まぁ、先生が良くご存知の北川さんも現場に居た訳で、亡くなった男性や事件のことも気になさっていると思いますので、スッキリする為にもいち早い事件解決を望んでいます。あっ、何か僕ばかり話して申し訳ありませんでした」
朝比奈は3人の顔を確認して、特に黒田の眉間に皺を寄せた表情に、やっと自分の言動に不快に感じていることを感じ取った。
「確かに、事件であれば一刻も早い解決を望むことは当たり前のことですが、何の証拠も知識もなく、また警察関係者でもないあなたが、自分の想像だけで話を作りあげるのは感心しませんね」
穏やかな表情ではあったが『定職にも就けない底辺の若造が、天下の大臣相手に何を勝手に喋ってんだ』と顔に浮き出ているようだった。
「それは失礼しました。性格上中途半端なことは大嫌いで、それに自分が関わったことでもありますから、事実をはっきりさせたいと思っています」
黒田の言葉は想定内ではあったが、姉の鋭い視線が気になった。
「まぁ、それはあなたの自由で私に止める権利はないけれど、素人がそんな事件に首を突っ込むと火傷だけでは済みませんよ。下手をすると、あなたのお父さんの名誉に傷が付くことになりますからね」
頭も良く経験も豊富な姉の顔を見て同意を求めた。
「ご心配いただきありがとうございます。確かに、姉から苦言を呈する事態が多いことは事実ですが、流石にこれでもいい歳になりましたので、父の息子として恥ずかしくない行動をするように心掛けてはいます。でもね、乗りかかった船から下りる訳にもいきませんからね」
朝比奈は天井を向いて頭を掻いた。
「そうですか、忠告はしましたからね。私は法務大臣、そのことをよくお考え下さい。それでは、失礼させていだきますよ」
テーブルに両手をついてから立ち上がると、2人を睨みつけて捨て台詞を言い放った。
「こんな人間ではありますが、父も息子としては認めていますので、弟の行動でどんなことになったとしても悔やむことはないと思います。今日は色々なご指導とご鞭撻をいただき誠にありがとうございました」
麗子もそれに合わせて立ち上がり黒田の顔を見詰めて言い放つと、その言葉に『ふん』とばかりに出口へと向かった。
「ねっ、姉さん・・・・・・」
朝比奈は麗子の思っても見ない言葉に驚いていた。
「ああっ、優作。それで、今日は何の用事なの。まさか黒田議員に文句を言う為じゃないよね。ここに来たことは私も驚いたくらいだからね」
麗子は先程の言葉がなかったかのように朝比奈に尋ねた。
「ちょっと姉さんに確認したいことがあってね」
その時、朝比奈が持って来たロールケーキとコーヒーを持って、パラリーガルの美紀が部屋に入ってきた。
「何が聞きたいか知らないけれど、私が担当している裁判の案件に関しては、いくら弟でも守秘義務があるから話せないわよ」
美紀が部屋を出たタイミングで話を続けた。
「いいえ、仕事の話ではないんです。先日県警を訪れた時、見覚えのある人物にであったんです。西村晃って名前、そして人物を覚えていますよね」
コーヒーを手に香りを楽しんで口に含んだ。
「勿論よ。でも、その名前は私にとっては忘れられない黒歴史だからね」
西村は麗子の大学時代のライバルであり、短い間ではあったが恋人の関係でもあった。
「大神に聞いた話では、先月に警視庁から警視正になって戻ってきたとのことだけど、ちょっと調べたのだけれど警視正という役職は、大規模署の署長若しくは本部の部長にあたり、警察官全体の約92%が巡査から警部補で占められていて、後は警部が5%、警視が3%、警視正に以上なるとその数はわずか0.2%なんですよね。大学時代から勉強はできたのでしょうが、人間的にも優秀だったのですか」
会った時の上から目線の話し方に嫌悪感を感じていた。
「えっ、本当に西村が警視正になってたの。そうね、彼は一応キャリアなんだから、今までの最速で33歳の警視正が誕生した例もあるから、有り得なくはないだろうけれど入庁してから余程優秀だったのでしょう。元々向上心が異常に高かったから、昇進には興味がありどんな手を使っても勝ち取ってきたんだろうね」
大学時代の西村との会話や思い出が浮かんで苦々しい表情になった。
「そんな性格では、とても姉さんとは合わなかっただろうね。どう足掻いても頭の良さでも姉さんには敵わなかっただろうから、多分男としてのプライドも保てなかったのじゃないかな」
朝比奈には、2人が仲良く並んでデートしている姿が想像できなかった。
「あのね、私は別に自分より優秀な男を彼氏になんて発想は全くありません。優しくて、私のことを一番に考えていてくれる人であれば、学歴なんて関係ないわ。ただ、あなたのような自分のことばかりで1つのことに集中すると周りが見えなくて暴走し、人の意見も聞かなくなる協調性のない人間でなければね」
ここぞとばかりに嫌味を言葉にした。
「僕は結構姉さんとは良い関係だと思いますけどね。僕以上に姉さんと付き合える人間を探す確率は、年末ジャンボで1等前後賞を当てるくらいかな。ああっ、その宝くじの還元率は約40%ですので、本当に夢を買う程度なので、お勧めはできませんけどね」
ホークで器用にロールケーキを切り取って口に運んだ。
「あのね、いい加減にしないと後悔するわよ。それで、西村君の何が聞きたいの」
早く要件を済ませて帰って欲しかった。
「ちょっと気になってることがあるんだ。確かに、彼は東大法学部卒業のキャリアで、最年少で33歳で警視正になることは可能だとのことだけど、やはり姉さんの言うように余程優秀で大きな事件での手柄を挙げた場合だと思うんだ。それで、ちょっと調べてみたら、マスコミで騒がれるような大きな事件も担当していなくて、昇給に値するような手柄を挙げた様子もないようなんだ」
お腹が空いていたのか、余にも美味しかったのか、朝比奈はロールケーキを一気に平らげた。
「えっ、そうなの。確かに、そんな切れ者でもないから、それは何か裏がありそうね。でも、それが優作の関わった事件に何か関係があるの」
食いっぷりの良い朝比奈とは対照的に、麗子はロールケーキを小分けにしてゆっくりと味わっていた。
「いや、事件とは関係ないけれど、彼がちょっと高飛車な態度で大神に嫌味を言ってたから、同じ学歴でキャリアのはずの2人が、どうして片方はエリート街道を歩んで警視正になり、もう一人の方は警部で留まっているのか興味があってね。もし姉さんが知っていることがあれば教えてもらおうと思ってさ」
飲みかけのコーヒーを一気に飲み干した。
「私もあいつが警視正になるなんて、興味が湧いてきたから知り合いの情報網を活用して調べてみるけど、ロールケーキだけでは足りないわよ」
小分けにしたロールケーキをフォークに差して朝比奈の目の前にかざした。
「はいはい、いつものようにつけの効く『ゼア・イズ』で夕食を奢らせていただきます」
そう言い終えると立ち上がって部屋を出た。
「ちょっとお邪魔させてもらうよ」
秘書が扉を開けるとブランドのスーツで身を固めた黒田が事務所内に入り、パラリーガルの美紀に声を掛けた。
「あれ、珍しい人がいらっしゃいましたね。今日はどうされたのですか?」
窓越しに黒川の姿を見付けて麗子が部屋から出てきた。
「ああっ、ちょっと近くに用があったものだから、久しぶりに君の顔を見たいと寄らせてもらったよ。最近は色々とご活躍のようでなによりですな」
そう話す黒田の後ろに控えていた男性が前に出て名刺を差し出した。
「こうして弁護士で働くことになったのは黒田先生のお陰かもしれません。でも、選挙が控える忙しく大切な時期なのに、近くに用があったとは言えわざわざお寄りいただき申し訳ありませんね。しかし、私の顔を見るのが目的ではないですよね」
麗子が秘書から名刺を受け取ると、胸元から名刺入れを取り出して自分の名刺を渡した。
「増税などの政策の失敗に、大臣や副大臣それに政務官などの不祥事などで内閣の支持率は過去最低レべルに落ち込み、我が民自党にも影響して最悪の状態での解散なので、少々困惑していますよ」
言葉とは裏腹に余裕の表情だった。
「地盤のしっかりした先生にとっては、そんな逆風は微風のようなもので選挙には何も影響はないしょう。ああっ、美紀ちゃん、このお客様は、事務所で使っているコーヒーやお茶ではお口に合わないと思いますので、無用な気遣いは必要ありませんよ」
そう言いながら応接室へと2人を案内した。
「ずぶんな塩対応ですな」
麗子に案内された応接室に移動してテーブルを挟んで腰を下ろした。
「いえ、本当のことを申しただけですよ。それで、私にお話とはなんでしょう」
麗子が警察庁の特捜部に在籍中に、民自党の大物代議士のパーティー券に絡む使途不明金の捜査で政治資金規制法違反や脱税と、国有地の払い下げの石友問題を担当し捜査した時に、政治的圧力が掛かり最終的にはどの事件も起訴できなかった苦い経験があり、三権分立とは名ばかりで政治家の権力に対抗できない検察の無力さを感じて、検事を辞して弁護士として生きることを決めた麗子であった。その政治家の1人が目の前に座る黒田であることも分かっていての対応であったのだ。
「もう何年も前の話だろ、君も意外と根に持つタイプなんだね。ちょっと調べさせて頂いてたのだが、君の事務所が担当するのは金にならない刑事事件や離婚訴訟が殆どで、企業間のМ&Aや訴訟問題は余り担当していないようだね。それに、特定企業の顧問弁護士にも就いていないようだね。私が親しくしている企業が、顧問弁護士として優秀な人材を探していて、良ければ君を紹介したいと思っているんだけどどうだろうね」
黒田はお茶の一杯も出さないその態度に怒りを感じながらも、平静と微笑みを保ちながら話した。
「お気持ちは大変ありがたいのですが、ご覧のとおり弁護士1人パラリーガル1人の手狭な弁護士事務所ですので、先生が言われるように刑事事件や離婚案件だけで手一杯です。ですから、残念ながら大企業の顧問弁護士を担う時間も自信もございません。先生からすればしょぼくれた弁護士事務所に見えるのでしょうが、私のことを信じてそれなりに依頼はありますので、人の役に立つように地を這いながら細々と仕事をこなして行きたいと思います。まぁ、お金にはならない仕事が多いことは確かですが、結構忙しくしていますので、心配はご無用です」
一応法務大臣ではあるので言葉を選んで丁寧に断ることになった。
「そうですか、それはとても残念ですね。しかし、東大法学部を卒業され、検察庁でもエリートコースを歩んでいらした優秀な検事が、手狭な法律事務所の弁護士では誠にもったいない話です。どのような理由で検事を辞められたのか詳しくは聞いてはおりませんが、検事として再採用の道をご用意することも今の私ならば可能です。もしよろしければ、一度考えて頂けませんか」
一の矢はかわされたが、懲りずに黒田は二の矢を放つことにした。
「どのような魂胆があるのか分かりかねますが、今の仕事を辞める気は全くありません。これでも私を必要としてくれる人は少しは居ますので、その人の為にも一生懸命頑張って続けていきたいと思っています」
父の背中を見て育ち、検事になることは当たり前と思っていた時期も確かにあったが、今は弁護士として今の仕事に誇りを持っている麗子であった。
「そうですか、誠に残念ですね」
そう言ってしばらく考え込んだ。
「先生、失礼ですが、今日は私の仕事についての話をする為にお越しになった訳ではないですよね。まわりくどいことは無しにして、本音をお話いただけませんか」
次の悪知恵を与えず問いただした。
「ああっ、そうだった。先日大学で君と同期だった北川君が、この事務所にお邪魔してあるお店で夕食をご馳走になった。いや、その前に急に電話連絡が入って店の外に出た時に、急に男性が倒れてその後亡くなったようなのです」
麗子の顔の表情の変化を見ながら話した。
「はい、その件は先程会っていただいたパラリーガルから話は聞いています。救急車は勿論ですが、警察も駆けつけたそうですね」
嬉しそうに微笑んだ。
「そうなんですよ。警察も初めは病死だと判断したのですが、何故かその店のスタッフに因って事件性があるとして警察が捜査を始めたそうなんですよ」
余計なことをしてくれたとばかりに嘆息を吐いた。
「そうなんですか」
麗子はまだ黒田の思惑を測りきれないでいた。
「北川君から聞いた話では、電話での要件を終えて店に戻った時には扉に鍵が掛かっていて入店できなくなっていて、救急車や警察もが次々とやって来て、仕方なくその場を立ち去ってしまったそうなんだ。まぁ、警察などに関わると時間が取られてしまって、これからの日本での仕事にも影響すると危惧して、断腸の思いで警察に名乗り出ることが出来なかったのだろう。ただ、折角夕食まで誘っていただいてその場を立ち去ってしまった事に、彼は朝比奈先生に本当に申し訳ないと感じていまして、直接会って是非お詫びしたいと言っていたのです。ただ、そうなると、あなたのお父様が最高検察庁の次席検事でいらっしゃる手前、事件現場に居たのであれば警察に出頭して説明をするように説得するのではないかと、話を聞いた私が勝手に判断して彼の代わりにこうして伺った訳なんですよ。本当に申し訳なかった」
黒田は頭を垂れて謝ってはいるが、言葉とは裏腹に気持ちは伝わってこなかった。
「黒田先生、北川君の気持ちは分かりました。実は、私もパラリーガルから事件のことを聞いて、彼のことは心配していたのですが、残念なことに携帯の番号を聞き忘れていまして、こちらから連絡できなくて困っていたところです。勤める会社名は聞いて、そちらから連絡してもらうつもりでしたのでちょうど良かったです。彼と連絡が取れるのでしたら、私もですがパラリーガルの糸川が心配していたとお伝えください」
それにしても、本人から電話1本掛けられなくて、わざわざ黒田を代理人に立てる北川の考えが理解できないでいた。
「分かりました、しっかりと伝えておきます。ああっ、そう言えば、麗子先生には弟さんが居らして、何故か本当に偶然に事件のあった店にアルバイトとしてお勤めだったと聞いたのですが、そんな飲食店にあなたの弟さんがアルバイトとして働いているなんて、何かの間違い、聞き違いですよね」
嫌味を込めて話を変えて来た。
「いいえ、事件現場に居たアルバイトスタッフは間違いなく私の弟ですよ。そして、警察に苦言を呈して取り調べを受けたそうです」
取り調べ室での刑事と応対する朝比奈の様子を思い浮かべて嘆息を吐いた。
「これは驚いた。父親が最高検察庁の次席検事の地位まで登りつめていて、東大の法学部を卒業して一時は検察のエースとして活躍されていたあなたを姉に持つ男が、飲食店のアルバイトをしているなんて驚きですね」
今度は黒田が嫌味を込めて大袈裟にリアクションを取って見せた。
「一応大学は出ていまして、先生もご存知の製薬会社に入社したのですが、大きな会社ではありがちな高学歴至上主義や年功序列などの制度に反発して辞めています。ただ、先生ほど国や国民に対して貢献はしていませんが、迷惑を掛けることなくそれなりに店や来店客に対して感謝されている人間だと思っていますよ」
本人を前にしては言えないが、一応姉として朝比奈のことは評価していた。
「そうですね。まぁ、職業に上下は無いと思いますし、生きがいを持って勤めているのでしたらどんな職業でも尊重しますが、ちょっと意外だったものですから失礼しました」
黒田が軽く頭を下げた時、ドアが3度ノックされ朝比奈が姿を現した。
「初めまして、今話題となっている愚弟の朝比奈優作と申します。亡くなった男性の蘇生を試みたのは救急救命士の資格を持っているので当然のことですし、賢姉からは余計なことに口出はしないと苦言を呈されましたが、状況を目の前にして事件性を警察に助言したのは当たり前のことだと思います」
頭を下げた後、姉の隣に腰を下ろした。
「えっ、君が救急救命士の資格をですか・・・・・」
朝比奈の突然の出現もだが、どうして飲食店のアルバイトがそんな資格を持っていたことに驚いていた。
「資格マニアなもので他にも色々な資格を持っていますよ。今、そんな資格を持っているならあんな店でアルバイトをしなくてもと思われたでしょう。まぁ、それは先生との生き方の価値観の違いであって、姉には迷惑を掛けているのは事実ですが、僕は今の生活で十分満足していますよ」
黒田の表情から心を読んで答えた。
「いえ、私はどんな仕事にも価値はあると日頃から思っていますよ。いくら高明な建築家が素晴らしい建物を設計して賞賛されても、実際に建てるのは土木作業員や色々な専門家であるからね。そもそも職業には優劣は付けられないからね」
政治家らしい誰が聴いても心地よい言葉であった。
「正に正論ですね。ただ、政府は増税に増税を重ねて、収入のほぼ半分を税金で取られてしまう状態です。失礼ですが、先生は一万円札の肖像で使われている、福澤諭吉の『学問のすすめ』をご存知ですか」
微笑んでいる黒田に言葉を投げ掛けた。
「ああっ、勿論だよ。『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と書き残し、それこそ平等をうたった言葉だな」
小学生でも知っているようなことを聞くのか。自分のことを馬鹿にしているのかと話している途中で気分が悪くなってきた。
「ところがですね、正しい全文は『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり』なんです。福沢諭吉が、アメリカの独立宣言の序文である『全ての人間は、生まれながらにして平等である』を意訳して引用した上で、『と言われている』と締めているのです。そしてその後には、全く逆の意味の主張が続きます。いささか長いので意味だけをお伝えすると、『しかしながら実際には賢い人と愚かな人、貧しい人と富んだ人、身分の高い人と低い人がいて、雲泥の差がついている』ってところでしょうか。これこそが諭吉が意図した主張で、『だからこそ、その不平等さを埋める為に、勉強して自分を磨くことをお勧めする』と説いているのです。ですから、僕はできる限り身に付けられるものを探し出して自分自身のスキルを上げようとしているのです。先生は国会議員、法務大臣の肩書きを外せば、どんな資格をお持ちでしょうか。法務大臣でいらっしゃるので、司法試験に受かっていらっしゃるのでしょうか」
黒田のことはあらかじめ調べてあり、嫌味を込めて尋ねた。
「私は建築関係に勤めていて、二級建築士の免許は持ってますよ」
黒田は表情には出さないが、たかがアルバイトふぜいの朝比奈に馬鹿にされているように感じて腹の中は煮えくり返っていた。
「随分前のことですが、僕が製薬会社に勤めていた時に、会社が先生のパーティー券を十枚購入したのですが、人数を集める為に僕も駆り出されて出席することになったのです。パーティー券の金額は二万円でしたが、会場に入ってびっくりしました。ドリンクは1杯限りで、驚いたことに料理は品数も少なく居酒屋程度の品質だったのですよ。利益率は9割以上、繁華街のぼったくりバーより酷いと思いました。先生たちは合法だとおしゃるのでしょうが、国民も馬鹿ではありませんからいつまでも気付かないと思わないことですね。因果応報、何時までも騙し続けることはできませんよ。ああっ、それは検察や良識のあるマスコミに任せるとして、そもそも僕があの店に居たことをどうして先生が知っていらっしゃるのでしょう。店で北川さんには会いましたが、僕が誰なのかは伝えていないはずなんですが」
朝比奈は空気が澱んできたのを感じて話を変えた。
「そっ、それは北川君から事件の話を聞いて、少し調べさせてもらったんだよ」
急に話が変わりドギマギしてしまった。
「高名な先生であれば色々な情報網をお持ちでしょうが、それならば名古屋市港区で起きた、覚せい剤取引においての警察官の拳銃暴発事件のこともご存知でしょうね」
黒田の表情の変化を楽しんでいるようだった。
「ああっ、その事件のことはマスコミで報道されたけど、その取引の際に暴発事件が発生したことは非公開なはずだ。どうして君が・・・・・」
意外な話に眉間に皺を寄せた。
「世の中には、壁に耳あり障子に目ありと言う言葉がありまして、隠しきれないこともあるものです。まぁ、公表すれば国民に不安を与えるとの判断だと言い訳されるのでしょうが、特に組織の上層部や政治家はコンプライアンスについて希薄な部分が多すぎます。自分は大丈夫、こんなことは絶対にバレないと考えて、最悪の事態を想像しない。いや、敢えてしないのかもしれません。先程も話した様に、政治資金のパーティー券についても長年指摘されずに来て、バレないから当たり前の様に続いていますが、それは民自党が単体で過半数を占めている現状では、誰も恐れて触れようとしませんが、今の様に色々な事件を起こして市民から反感を受けて支持率を下げれば、何れ発覚する時が来ると思いますよ。『驕れるもの久しからず』昔の人は良い言葉を残していますよ。それに、付け加えて今回の事件についてで言えば、先生は亡くなった男性の胃の内容物からテトロドトキシンが検出されて、所轄では何処かの店でフグ料理を食してその毒で亡くなったのだなんて、いくらなんでも未消化のフグの身が出てこないのに、そんな馬鹿な判断をするとは考えにくいですが、この事件もちゃんと捜査して国民を裏切らない様にお願いしますよ。まぁ、先生が良くご存知の北川さんも現場に居た訳で、亡くなった男性や事件のことも気になさっていると思いますので、スッキリする為にもいち早い事件解決を望んでいます。あっ、何か僕ばかり話して申し訳ありませんでした」
朝比奈は3人の顔を確認して、特に黒田の眉間に皺を寄せた表情に、やっと自分の言動に不快に感じていることを感じ取った。
「確かに、事件であれば一刻も早い解決を望むことは当たり前のことですが、何の証拠も知識もなく、また警察関係者でもないあなたが、自分の想像だけで話を作りあげるのは感心しませんね」
穏やかな表情ではあったが『定職にも就けない底辺の若造が、天下の大臣相手に何を勝手に喋ってんだ』と顔に浮き出ているようだった。
「それは失礼しました。性格上中途半端なことは大嫌いで、それに自分が関わったことでもありますから、事実をはっきりさせたいと思っています」
黒田の言葉は想定内ではあったが、姉の鋭い視線が気になった。
「まぁ、それはあなたの自由で私に止める権利はないけれど、素人がそんな事件に首を突っ込むと火傷だけでは済みませんよ。下手をすると、あなたのお父さんの名誉に傷が付くことになりますからね」
頭も良く経験も豊富な姉の顔を見て同意を求めた。
「ご心配いただきありがとうございます。確かに、姉から苦言を呈する事態が多いことは事実ですが、流石にこれでもいい歳になりましたので、父の息子として恥ずかしくない行動をするように心掛けてはいます。でもね、乗りかかった船から下りる訳にもいきませんからね」
朝比奈は天井を向いて頭を掻いた。
「そうですか、忠告はしましたからね。私は法務大臣、そのことをよくお考え下さい。それでは、失礼させていだきますよ」
テーブルに両手をついてから立ち上がると、2人を睨みつけて捨て台詞を言い放った。
「こんな人間ではありますが、父も息子としては認めていますので、弟の行動でどんなことになったとしても悔やむことはないと思います。今日は色々なご指導とご鞭撻をいただき誠にありがとうございました」
麗子もそれに合わせて立ち上がり黒田の顔を見詰めて言い放つと、その言葉に『ふん』とばかりに出口へと向かった。
「ねっ、姉さん・・・・・・」
朝比奈は麗子の思っても見ない言葉に驚いていた。
「ああっ、優作。それで、今日は何の用事なの。まさか黒田議員に文句を言う為じゃないよね。ここに来たことは私も驚いたくらいだからね」
麗子は先程の言葉がなかったかのように朝比奈に尋ねた。
「ちょっと姉さんに確認したいことがあってね」
その時、朝比奈が持って来たロールケーキとコーヒーを持って、パラリーガルの美紀が部屋に入ってきた。
「何が聞きたいか知らないけれど、私が担当している裁判の案件に関しては、いくら弟でも守秘義務があるから話せないわよ」
美紀が部屋を出たタイミングで話を続けた。
「いいえ、仕事の話ではないんです。先日県警を訪れた時、見覚えのある人物にであったんです。西村晃って名前、そして人物を覚えていますよね」
コーヒーを手に香りを楽しんで口に含んだ。
「勿論よ。でも、その名前は私にとっては忘れられない黒歴史だからね」
西村は麗子の大学時代のライバルであり、短い間ではあったが恋人の関係でもあった。
「大神に聞いた話では、先月に警視庁から警視正になって戻ってきたとのことだけど、ちょっと調べたのだけれど警視正という役職は、大規模署の署長若しくは本部の部長にあたり、警察官全体の約92%が巡査から警部補で占められていて、後は警部が5%、警視が3%、警視正に以上なるとその数はわずか0.2%なんですよね。大学時代から勉強はできたのでしょうが、人間的にも優秀だったのですか」
会った時の上から目線の話し方に嫌悪感を感じていた。
「えっ、本当に西村が警視正になってたの。そうね、彼は一応キャリアなんだから、今までの最速で33歳の警視正が誕生した例もあるから、有り得なくはないだろうけれど入庁してから余程優秀だったのでしょう。元々向上心が異常に高かったから、昇進には興味がありどんな手を使っても勝ち取ってきたんだろうね」
大学時代の西村との会話や思い出が浮かんで苦々しい表情になった。
「そんな性格では、とても姉さんとは合わなかっただろうね。どう足掻いても頭の良さでも姉さんには敵わなかっただろうから、多分男としてのプライドも保てなかったのじゃないかな」
朝比奈には、2人が仲良く並んでデートしている姿が想像できなかった。
「あのね、私は別に自分より優秀な男を彼氏になんて発想は全くありません。優しくて、私のことを一番に考えていてくれる人であれば、学歴なんて関係ないわ。ただ、あなたのような自分のことばかりで1つのことに集中すると周りが見えなくて暴走し、人の意見も聞かなくなる協調性のない人間でなければね」
ここぞとばかりに嫌味を言葉にした。
「僕は結構姉さんとは良い関係だと思いますけどね。僕以上に姉さんと付き合える人間を探す確率は、年末ジャンボで1等前後賞を当てるくらいかな。ああっ、その宝くじの還元率は約40%ですので、本当に夢を買う程度なので、お勧めはできませんけどね」
ホークで器用にロールケーキを切り取って口に運んだ。
「あのね、いい加減にしないと後悔するわよ。それで、西村君の何が聞きたいの」
早く要件を済ませて帰って欲しかった。
「ちょっと気になってることがあるんだ。確かに、彼は東大法学部卒業のキャリアで、最年少で33歳で警視正になることは可能だとのことだけど、やはり姉さんの言うように余程優秀で大きな事件での手柄を挙げた場合だと思うんだ。それで、ちょっと調べてみたら、マスコミで騒がれるような大きな事件も担当していなくて、昇給に値するような手柄を挙げた様子もないようなんだ」
お腹が空いていたのか、余にも美味しかったのか、朝比奈はロールケーキを一気に平らげた。
「えっ、そうなの。確かに、そんな切れ者でもないから、それは何か裏がありそうね。でも、それが優作の関わった事件に何か関係があるの」
食いっぷりの良い朝比奈とは対照的に、麗子はロールケーキを小分けにしてゆっくりと味わっていた。
「いや、事件とは関係ないけれど、彼がちょっと高飛車な態度で大神に嫌味を言ってたから、同じ学歴でキャリアのはずの2人が、どうして片方はエリート街道を歩んで警視正になり、もう一人の方は警部で留まっているのか興味があってね。もし姉さんが知っていることがあれば教えてもらおうと思ってさ」
飲みかけのコーヒーを一気に飲み干した。
「私もあいつが警視正になるなんて、興味が湧いてきたから知り合いの情報網を活用して調べてみるけど、ロールケーキだけでは足りないわよ」
小分けにしたロールケーキをフォークに差して朝比奈の目の前にかざした。
「はいはい、いつものようにつけの効く『ゼア・イズ』で夕食を奢らせていただきます」
そう言い終えると立ち上がって部屋を出た。
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