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第26話 コール音が、耳の中で鳴り響いている。

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 役得、と手放しで喜ぶことができない自分に気付いている。
 夕食をキッチンで一緒に取っていたら、サエナのお父さんが帰ってきた。ひどく驚いた顔をしていた。
 穏やかな色のセーターと、ざらついた手触りを思い出させる、焦げ茶のズボンを履いた、大きくも小さくもない人だった。
 そして、穏やかな声の人だった。声を出すことに慣れている人の喋り方だ。

「学校の友達ですか?」

 サエナが立った時に、彼女のお父さんは訊ねた。ワタシはそうです、と答えた。彼もまた、そうですか、と穏やかに答えた。
 そして、

「長くつき合っていてやって下さいね」

 と付け足した。
 長く、つき合っていたいのだ。だからワタシは。



 借りたパジャマを着て、風呂上がりに髪を乾かしていたら、扉が開いて、部屋の中に少しばかり、まだ冷たい空気が入り込んだ。
 風呂から出てきたサエナは、真っ直ぐな髪を思いきり、バスタオルで拭きながら、扉を閉めた。途端に空気の流れが止まる。冷たい空気のかわりに、まだ暖かい彼女の身体からあふれる熱が、ゆっくりと漂う。ワタシは音のうるさいドライヤのスイッチを切った。

「ドライヤ使う?」
「ううんいい、私は天然乾燥が好きだから」
「じゃこれは」

 ワタシは自分の手の中のドライヤに視線を移す。

「これはママさんの」

 そう言うと、それでもワタシから彼女はドライヤを取り上げて、棚に置いた。髪が乱れている。見たことのない程、滅茶苦茶に。
 そしてサエナは手を伸ばすと、壁のスイッチを切った。途端に、視界は真っ暗になる。カーテンはもう既に閉められている。
 横をすり抜ける気配。そのまま熱を持った身体は、ベッドの中に入り込む。
 一応この部屋の中には、もう一組の布団も運び込んであった。滅多に使われない、客用のそれが素足に当たる。それは、止したければ止せばいい、という彼女の無言の忠告でもある。
 だけど。
 ワタシは、そっと立ち上がると、手探りでベッドを探り当てた。
 上から人の位置を確かめる。す、と動く気配。軽い羽毛の布団と毛布を上げると、その中に滑り込んだ。
 途端に、湿った熱がパジャマに覆われていない部分にまとわりつく。
 どうすればいいんだっけ、とワタシは夏の記憶を掘り起こす。
 手を伸ばす。頬に触れる。
 そのまま、確かめるように、手を滑らせる。
 彼はどうしただろう。あの時、ワタシは、どうされただろう。記憶を掘り起こす。
 あまり自由にならない場所の中で、それでも手探りのまま、ワタシは彼女のボタンを外していった。彼女はまるで、生きていないかのように、動かない。
 自分のパジャマを脱いだ。脱いでベッドの下に落とした。
 露わになった彼女の胸を、横から手を入れて、抱きしめ、自分のそれと合わせた。
 乳房の柔らかさと、それと対称的な、そのまわりの肉の薄さが、奇妙にリアルに感じられる。
 鼓動が、伝わってくる。
 自分のか、と初めは思ったが、そうではなかった。彼女もまた、何か――― 何かとしか言い様がないが、感じとっていることは確かだった。
 見えないままに、彼女の首の後ろに手を回し、まだ湿った、無茶苦茶になっているはずの髪に手を差し込む。そしてもう一方の手で、顔を探る。
 指が、一つ一つ、ワタシ自身に伝える。
 ここが彼女の目、ここが彼女の頬、ここが彼女の唇―――
 指で、唇をたどった。
 そのまま軽く、自分のそれと触れ合わせる。
 乾いた感触。一瞬の震え。
 そして今度は、両手で頬をはさみ、もう少し深く重ね合わせた。
 柔らかく乾いた唇。それを濡らしていく。彼はどうしただろう。記憶をたどる。
 彼は―――



 暑い夏の、あの部屋の中で、ワタシ達は、抱き合いながら、頭の中では別の相手のことを考えていた。
 彼がワタシの上で、胸や脇腹や首筋をきつく吸う時、ワタシはそれを彼女の唇と考えていたこともある。
 逆にワタシが彼の上で、そうしていたこともあった。その時彼はきっと、イクノ先輩のことを考えていたに違いない。
 ワタシ達はそうやって、いつもそこにいない誰かのことを思いながら、目の前のお互いの身体を求め合っていた。

 目を閉じてしまえば。

 でもワタシは彼のことも好きだった。サエナの次に、好きだった。



 袖を外させながら、次第に指を唇を、下に向かって這わせながら、ワタシは、頭の中で、彼女ではない相手のことを考えている自分に気付きだした。



「遠くで思っているから、好きでいられるのかもしれない」

 と彼は、ワタシが帰る前の夜、そう言った。
 月が綺麗な夜だった。
 カーテンを閉めようが、灯りを消そうが、相手の顔すら判るくらいに月の光が強く感じられた。
 ほんの、数日だったのに、ワタシはこの時、隣でうつ伏せになっている相手の姿を、ようやくはっきりと見たような気がした。眠ったのか、と声をかけたら、まだ眠っていない、と彼は答えた。
 そしてつぶやいた。

「一番好きな相手っていうのは、遠くで思っているから、一番なのかもしれない」

 どうしてですか、と訊ねたら、彼は答えなかった。そのかわり、別の問いかけをした。

「俺は奴の次にお前が好きだけど、お前は?」
「ワタシは彼女の次に、先輩が好きですよ」

 それは事実だ。



 そんな彼の記憶が、彼女に触れるたびに頭の中に浮かび上がる。何故。だって、それは。

 胸のわきに手を入れて、少し持ち上げるようにして、舌を伸ばすと、埋まっていたような柔らかい乳首がそれでも少しづつ盛り上がってきた。
 手には、薄い肉の下の、肋骨が感じられる。一本一本、それは数えられそうだ。するりとした肌、そのまま手を下に下ろしていく。
 ぱちん、とゴムの入った服を下ろしていく。
 無論当初、それはワタシにしても、恥ずかしかったのだ。だけど彼は―――

 訳が判らなくなっていく。

 ワタシは、どうしたいのだろう?
 ワタシは、どうしたかったのだろう?
 彼女を、そうしたかったのではないのだろうか?

 彼女の奥に、手を進めながら、ワタシは混乱していく自分に気付いていた。

 奇妙なほどに、彼に会いたかった。彼に会って、彼に抱きしめられ、彼を抱きしめながら、彼女のことを考えていたかった。

 耳に、微かな声が、聞こえた。



 翌朝、学校には行かずに戻った家で、母親の視線をすり抜け、たどり着いた携帯を掴み、ワタシはあの時手首に書かれた電話番号を押していた。
 それは机の上のメモに移動したけど、あの時の感触は、覚えている。
 コール音が耳に届く。
 出てほしい。出てほしくない。
 矛盾した言葉が頭に鳴り響く。さっさと飛び出してしまってサエナに悪いとか、こんな朝から呼び出す非常識さとか、自分の卑怯さがぐるぐると、頭を回っている。
 ただ、声を聞きたかった。
 まだそれは、有効期限内だろうか。もしもそうでなかったとしても。ワタシはただ。

 コール音が、耳の中で鳴り響いている。
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