あの空へとけゆくバラード2

衣夜砥

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光の雫

p12

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「顔を貸せ。話がしたい」
 同じ時間の同じ場所で、したたかに腕を取られた。
 いまは宗太とも待ち合わせをしておらず、行き交う人々の中でぼくはひとりきりだった。
 時間が止まってしまったように感じた。ぼくと悟さん以外のすべてが遠くの岸辺に追いやられて、悟さんだけが特別な存在感をもってぼくの全神経を支配した。
「悟さん…」
 唖然と見あげたぼくは、それ以上「嫌」とも「やめて」とも言えなかった。
 舌はそのまま上顎にひっついて、ぼくを助けるどんな一言も発してくれなくなった。
 けれどなんとなく、「待っていた瞬間」にも思えた。
 面白いものだ。そう。ぼくは、この瞬間を待っていた。
(避けて通れぬ宿命を背負っていたじゃないか?)
 そんなふうに自問すれば、いやに慎ましく首肯している自分がいる。
 宗太に助け出され、社会に救われながらぼくは、じつはまだまったく危うい刃の上を歩いていたのだと。そんな過酷な現実を容赦なく突きつけてくるような厳然たる邂逅だった。
 腕にくい込む手のひらの力はあまりに強く、逃げおおせるはずはない。ぼくは悟さんをじっと見あげて、こくりと頷いた。
 どこかへ連れ去られるのはすぐに分かった。そう考えると、あの二年前の日々の感覚があっというまに戻ってくる。
 ぼくは女郎で、奴隷だった。悟さんの欲望と憤懣のすべてを一身に引き受けていた。
 なのに。
 なぜ、ぼくは。
 なぜ、逃げる気になったのだろう。
 なぜ、逃げきれると思ったのだ。
 ぼくの命はまだ、悟さんの手のうちにあるというのに。
 悟さんは駅前でタクシーを拾い、ぼくを奥へと押し込めた。
 ぼくはタクシーの後部座席の隅っこで凍えるように小さくなって、これからあのマンションに連れていかれ、二年前の熾烈なセックス以上のもの、ぼくを内側から瓦解し外側から叩きのめすような、凄絶な私刑にあうのだと覚悟した。
 ならば、なぜぼくはこのタクシーの運転手に助けを求めないのだろう。
 言ってしまえばいいのだ。この人に殺されそうなんです、と。
 でもそれでは二年前と同じだった。それではまったく解決にならない。
 ぼくと悟さんのこの世での輪廻は、けしてそんなことで終わりはしないのだ。
 結局、ぼくは逃げきれない。ぼくが悟さんの手にかかって死なない限りは。
 それにぼくは悟さんにずっと謝りたかったんじゃないか。
 どうやったら顔を合わせずに謝れるかと考えあぐねていたくらいだった。
 警察にチクってごめんなさい。
 ぼくばかりが救われてごめんなさい。
 ぼくばかりが楽しく暮らしてごめんなさい。
 父の、母の、ぼくたちの過ちを、どうか赦して――――!
 そう悟さんに謝りたかったんじゃないか。それが、ぼくの残された人生に課せられた、ただ一つの義務なのだと思うくらいに。
(ごめんね、宗太)
 誘拐に遭っちゃった。
 弱くてごめん。
 惨めなぼくを許して。
 愛してくれてありがとう。もしかしたらぼくはこれからすぐに死ぬかもしれない。けれど、あんたがぼくを愛してくれたよりたぶん、ぼくは、深く、命がけで、あんたを愛していた。
 濃紺に染まりつつある夕暮れの空がぐんぐんと車窓の外を動くのを、ぼくは絶望の淵に揺蕩いながらじっと見つめていた。


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