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「いつから?さあ、いつであろうか。君がウィリアムの婚約者となった時には、直ぐにでも破談にしてやろうとは考えていたよ。え?エレノア? ふん、彼女とは確かに近しい距離ではあったな。生まれた時からの幼馴染であるからね。可憐?馬鹿な事は言わないでくれ。可憐なら君だろう。君が喃語を話す前から抱っこをしていたのだぞ?なんなら言葉も教えたぞ。お義父上より先に、ジョージ大好きと言わせたのは私だ。流石に沐浴は駄目であったな。君の邸の侍女頭は手強かったからな。
は?エレノアと婚姻など考えた事も無い。あれは最初からウィリアムに預けるつもりであった。君の後継教育が終わるまで帝国に留学して暇つぶしをしていたよ。こちらにいては外野が五月蝿いからね。君の話はお義父上より逐一手紙で知らせてもらった。
さっさとウィリアムがエレノアを落としてはくれまいかと思っていたが、何せのんびり屋の二人組だ。行動させるには発破が必要であったらしい。こちらに戻ってからは、観劇のチケットやレストランの席を取っては二人での外出を促したよ。いつだか君が、二人で出掛けることを案じていただろう?放っておけと言ったのは当然さ。私がそう仕掛けたのだから。結果、君を泣かせそうになってあれは焦った。まあ、あの日に君を取り戻したから、結果良ければ全て良しだろう。
あいつが少々面倒であったがね。あいつだよ、君の侍従。今も手強い奴だけれど、あれ程君を守れるのなら信頼には足るだろう。妻を伴って来るのだろう?丁度良い。乳母にもなってもらえるし、子供達にも友が出来るだろう?」
つらつらと種明かしをする男を、なんて策士だと睨み付けるも、言葉の端々に愛情を告げられて頬を赤らめ瞳を潤ませる娘は、男にしてみれば初心で可憐で可愛らしいばかりでちっとも怖くない。口を開けば惚気るばかり。全く以って恋とは盲目なのであった。
誓約書にサインをする。
最初にジョージが。サインを終えたジョージからペンを渡されて、隣に名を書く。
今生で、この名を書くのは最後になるだろう。今この瞬間エリザベスは、エリザベス・グレアム・モーランドとなった。モーランド次期侯爵夫人である。
神父の前で神への誓いの言葉を述べる。
誓約書にサインをした時と同じく、初めにジョージが、続いてエリザベスが。
誓約書にサインをした。
神の御前で誓いを立てた。
もう昨日の自分には戻れない。
この先の人生を、黒髪の愛する男に手を取られ、どんな霧の中であっても暗闇でも、この男の背中を光だと信じて歩いて行く。
眼前を覆うベールをゆっくり上げた男は、愛する妻を見つめて笑みを浮かべた。
傍から見れば、麗しい新郎が愛妻を前に美しく微笑んだ様に見えたかもしれない。
けれどもエリザベスには、片方の口角を上げてにやりと笑う悪い笑みに見えた。悪巧みをする悪い笑みだと思った。
果たしてエリザベスの思った通りであった。
夫となった男は大変な悪人であった。
止めてと言っても止めてくれない。
恥ずかしいと言っても止めてくれない。
そんな所を見ないで欲しい、そんな所を触れないで欲しい。
どれほど懇願しても、聞く耳を持ってはいなかった。
あらゆる所を目視で確かめて、あらゆる所を触れて確かめた。
もう身体中が真っ赤に火照って、生まれ変わったのならきっと蛸になってしまうだろうと思われた。
妻となって初めてのお願いであったのに、夫はひとつも叶えてくれなかった。
お願いもう無理よ、
お願いもう止めて、
どれもこれも却下であった。
こんな格好を、世界で一番愛する男に見せるだなんて。恥辱に塗れて流した涙は、全て男に吸い取られてしまった。
大陸の東の端には猛獣がいると聞く。獅子によく似ているが鬣(たてがみ)が無く、身体には縞の模様があると云う。確か、トラ。夫はそのトラだわ。
獰猛な力で組み敷かれて、どこもかしこも舐め尽くされて骨すら残さない。
妻の身体も心もとろとろに溶かして味わい尽くす。
ああ、涙が出るほど苦しい。涙が出るほど幸せ。
苦しい幸せがこの世にある事を、皆に教えてあげたいけれど、こんな事を人には語れない。
ジョージ様、ジョージ様、
最後は、その言葉しか知らぬ様になってしまって、只ひたすら揺らさせて譫言の様に名を呼び続けた。
名を呼ぶ度に、律儀な男が口付けを落とす。
触れるだけであったり、飲み込む様なものであったり。
溶かされ尽くして漸く微睡む頃には、もう夜が明けていた。だって空が白んでいたもの。小鳥の囀りが聴こえていたもの。
ぴたりとひとつに合わさったまま、胸に頭を預けて眠る。異国の香りが野趣を帯びて、男も汗だくになったのだと思った。深く息を吸い込んで、夫の薫りを味わった。
私の夫。
私だけの夫。
二度目の恋だと思っていたけど、そんなものではなかったわ。濃くて深くて醜いものすら覆い尽くす、どこまでも貪欲な欲。
髪の毛一本、誰にも渡したくない。こんなに強欲な人間であったかと、己に呆れてしまう程、この妻を泣かせる意地悪で悪い男を愛している。
また明日も泣かせて欲しい。
貴方になら、どれほど涙を流しても、全部全部愛おしい。
夢の中で語ったのか、そう口に出したのか、あどけない寝顔を曝す妻には分からなかった。男だけが聞いた言葉であったから。
は?エレノアと婚姻など考えた事も無い。あれは最初からウィリアムに預けるつもりであった。君の後継教育が終わるまで帝国に留学して暇つぶしをしていたよ。こちらにいては外野が五月蝿いからね。君の話はお義父上より逐一手紙で知らせてもらった。
さっさとウィリアムがエレノアを落としてはくれまいかと思っていたが、何せのんびり屋の二人組だ。行動させるには発破が必要であったらしい。こちらに戻ってからは、観劇のチケットやレストランの席を取っては二人での外出を促したよ。いつだか君が、二人で出掛けることを案じていただろう?放っておけと言ったのは当然さ。私がそう仕掛けたのだから。結果、君を泣かせそうになってあれは焦った。まあ、あの日に君を取り戻したから、結果良ければ全て良しだろう。
あいつが少々面倒であったがね。あいつだよ、君の侍従。今も手強い奴だけれど、あれ程君を守れるのなら信頼には足るだろう。妻を伴って来るのだろう?丁度良い。乳母にもなってもらえるし、子供達にも友が出来るだろう?」
つらつらと種明かしをする男を、なんて策士だと睨み付けるも、言葉の端々に愛情を告げられて頬を赤らめ瞳を潤ませる娘は、男にしてみれば初心で可憐で可愛らしいばかりでちっとも怖くない。口を開けば惚気るばかり。全く以って恋とは盲目なのであった。
誓約書にサインをする。
最初にジョージが。サインを終えたジョージからペンを渡されて、隣に名を書く。
今生で、この名を書くのは最後になるだろう。今この瞬間エリザベスは、エリザベス・グレアム・モーランドとなった。モーランド次期侯爵夫人である。
神父の前で神への誓いの言葉を述べる。
誓約書にサインをした時と同じく、初めにジョージが、続いてエリザベスが。
誓約書にサインをした。
神の御前で誓いを立てた。
もう昨日の自分には戻れない。
この先の人生を、黒髪の愛する男に手を取られ、どんな霧の中であっても暗闇でも、この男の背中を光だと信じて歩いて行く。
眼前を覆うベールをゆっくり上げた男は、愛する妻を見つめて笑みを浮かべた。
傍から見れば、麗しい新郎が愛妻を前に美しく微笑んだ様に見えたかもしれない。
けれどもエリザベスには、片方の口角を上げてにやりと笑う悪い笑みに見えた。悪巧みをする悪い笑みだと思った。
果たしてエリザベスの思った通りであった。
夫となった男は大変な悪人であった。
止めてと言っても止めてくれない。
恥ずかしいと言っても止めてくれない。
そんな所を見ないで欲しい、そんな所を触れないで欲しい。
どれほど懇願しても、聞く耳を持ってはいなかった。
あらゆる所を目視で確かめて、あらゆる所を触れて確かめた。
もう身体中が真っ赤に火照って、生まれ変わったのならきっと蛸になってしまうだろうと思われた。
妻となって初めてのお願いであったのに、夫はひとつも叶えてくれなかった。
お願いもう無理よ、
お願いもう止めて、
どれもこれも却下であった。
こんな格好を、世界で一番愛する男に見せるだなんて。恥辱に塗れて流した涙は、全て男に吸い取られてしまった。
大陸の東の端には猛獣がいると聞く。獅子によく似ているが鬣(たてがみ)が無く、身体には縞の模様があると云う。確か、トラ。夫はそのトラだわ。
獰猛な力で組み敷かれて、どこもかしこも舐め尽くされて骨すら残さない。
妻の身体も心もとろとろに溶かして味わい尽くす。
ああ、涙が出るほど苦しい。涙が出るほど幸せ。
苦しい幸せがこの世にある事を、皆に教えてあげたいけれど、こんな事を人には語れない。
ジョージ様、ジョージ様、
最後は、その言葉しか知らぬ様になってしまって、只ひたすら揺らさせて譫言の様に名を呼び続けた。
名を呼ぶ度に、律儀な男が口付けを落とす。
触れるだけであったり、飲み込む様なものであったり。
溶かされ尽くして漸く微睡む頃には、もう夜が明けていた。だって空が白んでいたもの。小鳥の囀りが聴こえていたもの。
ぴたりとひとつに合わさったまま、胸に頭を預けて眠る。異国の香りが野趣を帯びて、男も汗だくになったのだと思った。深く息を吸い込んで、夫の薫りを味わった。
私の夫。
私だけの夫。
二度目の恋だと思っていたけど、そんなものではなかったわ。濃くて深くて醜いものすら覆い尽くす、どこまでも貪欲な欲。
髪の毛一本、誰にも渡したくない。こんなに強欲な人間であったかと、己に呆れてしまう程、この妻を泣かせる意地悪で悪い男を愛している。
また明日も泣かせて欲しい。
貴方になら、どれほど涙を流しても、全部全部愛おしい。
夢の中で語ったのか、そう口に出したのか、あどけない寝顔を曝す妻には分からなかった。男だけが聞いた言葉であったから。
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