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いつもと変わらぬ朝だった。
手早く身支度をして、朝の執務を熟す。
学園に通う様になってから習い始めた執務はそうそう容易く捌けるものではなくて、こうして朝の時間を充てていた。
慣れてしまえば、寧ろ早朝の方が思考もクリアで集中出来る。何より澄んだ空気と静謐の中で過ごすこの時間が、エリザベスは好きである。
本来、貴族の女性は朝が遅い。
茶会や夜会のあった日の翌日は特に。
母も姉も、朝はゆっくりである。
父ばかりが早朝から深夜まで、いつ寝ているのか分からぬ程に執務を熟している。
そんな父が、夜の静寂にブランデーを楽しむのを知って、エリザベスは安堵したのであった。
夏の湿った空気を吸い込んで、執務室までの廊下を歩く。何も言わずとも後ろには、既に侍従のセドリックが侍っている。
執務室の扉を開けて中に入る。
後ろから続けて入室したセドリックが窓を開けると、夜を越して淀んだ空気に朝の新たな風が入り込む。
執務の前に、朝一番の温かなお茶をセドリックが淹れてくれて、向かい合わせに座ってお茶を飲む。
主従なく、この五年の習慣である。
「セドリック。」
「貴方、気が付いていた?」
「..はい。エリザベス様。」
「私を恥ずかしい人間だと思う?」
「いいえ。何も恥じる必要は無いと。」
「優しいのね。私は自分が恥知らずだと思うわ。だって、「エリザベス様。」
平素は決して主を遮らない侍従が、エリザベスの言葉を遮る。
「エリザベス様。」
もう一度、セドリックはエリザベスに向かい語り掛ける。
「貴女様が恥じ入る事などございません。」
セドリックは頼りになる。
十二の年に仕えてくれるようになってから、変わらずエリザベスを支えてくれている。
どんな些事も見逃さず、そうして道に迷うエリザベスの手を取って、霧の中を一緒に歩む様に、人生に迷うエリザベスを導いてくれる。
「貴方が言うならそうなのね。」
有難う、そう伝えれば、セドリックは笑みを返した。
姉の婚約者に恋心を抱いている。
それが、同じ理由で婚約を解消した男の兄で、自分は彼の婚約者の妹だと云う、もう何だか面倒になる間柄であるが、それをセドリックが恥じる事は無いのだと言う。
その言葉に、エリザベスは霧の中から這い出た気持ちになれた。
そうして、晴れやかな気持ちで恋心に蓋をした。
恥じる必要の無い恋なのだと、真綿で包むように優しくくるんで、芽生えたばかりの恋心を誰にも見せず知られずに、自分の心の内だけで大切にしようと決めたのだった。
父もセドリックも、そんなエリザベスを笑って許してくれるだろう。
夏の初めの清々しい朝に、エリザベスはひとつ心に区切りを付けた。
エリザベスが家族と顔を合わせるのは、学園を終えてからになる事が多い。
父は朝には既に執務室にいるか、外に仕事で出掛けているし、母と姉は朝が遅い。姉に関しては、学園を卒業してからは余計に会う事が減ってしまった。
当のエリザベスが早朝から執務室に籠もるし、そのまま執務室で軽く食事を済ませた足で学園に向かうので、邸に戻るまでは使用人としか顔を合わせない事になる。
父が、どれほど多忙でも、諸用の無い限り家族と晩餐を摂るのは、そんな擦れ違いの生活でも家族との語らいを大切にしているからだろう。専ら、語らうのは母と姉であるが。それも姦しく楽しい時間であるのは確かであった。
この二年程は、ウィリアムの事で姉には複雑な感情を抱く事も多かったが、元々仲の良い姉妹であった。おっとりと屈託の無い姉がエリザベスは好きであるし、幼い頃も姉には可愛がってもらった。
ウィリアムとの婚約が無かったら、そのまま何の傷も無い姉妹でいられただろうか。
ウィリアムの姉への恋情がある限り、やはり同じ事であったかも知れないが。
その姉とは、最近殆ど顔を合わせていない。晩餐の時間のみが互いの存在確認となっていた。
朝の執務を終えて、玄関ポーチに出れば既に馬車が待っていた。学園へは従者を付ける事は無いが、行き帰りの馬車にはセドリックが供をする。
学園の門扉が見えて、馬車留に静かに馬車が止まる。
「行って参ります。」
「行ってらっしゃいませ。」
セドリックと御者に声を掛けて馬車を降りれば、学園の生活が待っている。
心に芽生えた恋心を、学生時代の思い出として大切にしよう。そう思いながら少しばかり胸を張って校舎に入る。
高位貴族の子女達は、時間をずらして遅い時間に登校して来る。
その中でもエリザベスは、早い時間に通っていた。ともすれば男爵子爵の子女らと重なりそうなところを、御者が上手い具合に調整して、混雑を避けて下ろしてくれる。
廊下を歩きながら考える。
鞄を拾ってくれたのは、一体誰だったのだろう。馬車まで全力疾走するエリザベスを見ていたのか。
父は誰かは教えてはくれなかったが、侯爵家の使用人だと言っていた。
そんな事を考えながら歩いていると、後ろから手を取られた。反射的に驚いて振り返る。
なんで貴方がいるの?貴方、侯爵家でしょう。登校時間はまだよ?
「リズ。」
朝っぱらから、叱られた子犬の様に情け無い顔をしないで頂戴。
「お早うございます、ウィリアム様。」
「うん、リズ。」
やはり、走って逃げただけでは何も解決しなかった。
手早く身支度をして、朝の執務を熟す。
学園に通う様になってから習い始めた執務はそうそう容易く捌けるものではなくて、こうして朝の時間を充てていた。
慣れてしまえば、寧ろ早朝の方が思考もクリアで集中出来る。何より澄んだ空気と静謐の中で過ごすこの時間が、エリザベスは好きである。
本来、貴族の女性は朝が遅い。
茶会や夜会のあった日の翌日は特に。
母も姉も、朝はゆっくりである。
父ばかりが早朝から深夜まで、いつ寝ているのか分からぬ程に執務を熟している。
そんな父が、夜の静寂にブランデーを楽しむのを知って、エリザベスは安堵したのであった。
夏の湿った空気を吸い込んで、執務室までの廊下を歩く。何も言わずとも後ろには、既に侍従のセドリックが侍っている。
執務室の扉を開けて中に入る。
後ろから続けて入室したセドリックが窓を開けると、夜を越して淀んだ空気に朝の新たな風が入り込む。
執務の前に、朝一番の温かなお茶をセドリックが淹れてくれて、向かい合わせに座ってお茶を飲む。
主従なく、この五年の習慣である。
「セドリック。」
「貴方、気が付いていた?」
「..はい。エリザベス様。」
「私を恥ずかしい人間だと思う?」
「いいえ。何も恥じる必要は無いと。」
「優しいのね。私は自分が恥知らずだと思うわ。だって、「エリザベス様。」
平素は決して主を遮らない侍従が、エリザベスの言葉を遮る。
「エリザベス様。」
もう一度、セドリックはエリザベスに向かい語り掛ける。
「貴女様が恥じ入る事などございません。」
セドリックは頼りになる。
十二の年に仕えてくれるようになってから、変わらずエリザベスを支えてくれている。
どんな些事も見逃さず、そうして道に迷うエリザベスの手を取って、霧の中を一緒に歩む様に、人生に迷うエリザベスを導いてくれる。
「貴方が言うならそうなのね。」
有難う、そう伝えれば、セドリックは笑みを返した。
姉の婚約者に恋心を抱いている。
それが、同じ理由で婚約を解消した男の兄で、自分は彼の婚約者の妹だと云う、もう何だか面倒になる間柄であるが、それをセドリックが恥じる事は無いのだと言う。
その言葉に、エリザベスは霧の中から這い出た気持ちになれた。
そうして、晴れやかな気持ちで恋心に蓋をした。
恥じる必要の無い恋なのだと、真綿で包むように優しくくるんで、芽生えたばかりの恋心を誰にも見せず知られずに、自分の心の内だけで大切にしようと決めたのだった。
父もセドリックも、そんなエリザベスを笑って許してくれるだろう。
夏の初めの清々しい朝に、エリザベスはひとつ心に区切りを付けた。
エリザベスが家族と顔を合わせるのは、学園を終えてからになる事が多い。
父は朝には既に執務室にいるか、外に仕事で出掛けているし、母と姉は朝が遅い。姉に関しては、学園を卒業してからは余計に会う事が減ってしまった。
当のエリザベスが早朝から執務室に籠もるし、そのまま執務室で軽く食事を済ませた足で学園に向かうので、邸に戻るまでは使用人としか顔を合わせない事になる。
父が、どれほど多忙でも、諸用の無い限り家族と晩餐を摂るのは、そんな擦れ違いの生活でも家族との語らいを大切にしているからだろう。専ら、語らうのは母と姉であるが。それも姦しく楽しい時間であるのは確かであった。
この二年程は、ウィリアムの事で姉には複雑な感情を抱く事も多かったが、元々仲の良い姉妹であった。おっとりと屈託の無い姉がエリザベスは好きであるし、幼い頃も姉には可愛がってもらった。
ウィリアムとの婚約が無かったら、そのまま何の傷も無い姉妹でいられただろうか。
ウィリアムの姉への恋情がある限り、やはり同じ事であったかも知れないが。
その姉とは、最近殆ど顔を合わせていない。晩餐の時間のみが互いの存在確認となっていた。
朝の執務を終えて、玄関ポーチに出れば既に馬車が待っていた。学園へは従者を付ける事は無いが、行き帰りの馬車にはセドリックが供をする。
学園の門扉が見えて、馬車留に静かに馬車が止まる。
「行って参ります。」
「行ってらっしゃいませ。」
セドリックと御者に声を掛けて馬車を降りれば、学園の生活が待っている。
心に芽生えた恋心を、学生時代の思い出として大切にしよう。そう思いながら少しばかり胸を張って校舎に入る。
高位貴族の子女達は、時間をずらして遅い時間に登校して来る。
その中でもエリザベスは、早い時間に通っていた。ともすれば男爵子爵の子女らと重なりそうなところを、御者が上手い具合に調整して、混雑を避けて下ろしてくれる。
廊下を歩きながら考える。
鞄を拾ってくれたのは、一体誰だったのだろう。馬車まで全力疾走するエリザベスを見ていたのか。
父は誰かは教えてはくれなかったが、侯爵家の使用人だと言っていた。
そんな事を考えながら歩いていると、後ろから手を取られた。反射的に驚いて振り返る。
なんで貴方がいるの?貴方、侯爵家でしょう。登校時間はまだよ?
「リズ。」
朝っぱらから、叱られた子犬の様に情け無い顔をしないで頂戴。
「お早うございます、ウィリアム様。」
「うん、リズ。」
やはり、走って逃げただけでは何も解決しなかった。
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