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「エリザベス、後で来なさい。」
晩餐を終えて部屋を出る際に、父にそう言われて、エリザベスは父の執務室を訪ねた。
さっき晩餐を終えたばかりだというのに、父は既に執務机で書類に向かっていた。
促されるままテーブルの席に座り、暫し待つ。時折、ぱさりと紙をめくる音がして、その後再び静寂が戻る。
「エリザベス。」
書類に目を落としたままの父に名を呼ばれた。
少しばかり気を抜いていたのか、急に名を呼ばれて返事が出来なかった。
父は書類を執事に手渡し、そのままこちらへ歩いて来る。向かい合わせに座れば、いつの間に用意していたのかグラスが置かれた。
「お前もどうだ?」
琥珀色の液体が注がれて、もう一つのグラスにも、執事が今度は少な目に注いでくれる。
芳醇な香りが漂って、鼻の奥を刺激する果実と樽の合わさった独特な香りから、ブランデーだと解った。
恐る恐る一口含んで
「苦っ」
「はは」
お酒は飲めるが嗜む程度。偶に出る社交の席のみで、お子様に大人のお飲み物は苦かった。
そこのところも分かっていたらしい執事が用意していたチェイサーに口をつけると、
「エリザベス。」
父に呼ばれて姿勢を正す。
「何があった。」
その言葉と同時に執事が何かを携えて来た。
エリザベスの鞄。駆け出した時に放り捨てた鞄である。明日、拾わねばと思っていたが、学園の誰かが拾って届けてくれたのか。
「侯爵家の者が届けて来た。」
真逆、ウィリアム?
いや、彼であったら使用人など通すだろうか。婚約は解消したが絶縁した訳では無いのだから。
では一体誰が届けたのだろう。
父の質問を受けて、エリザベスは事の経緯を話した。父に曖昧な返答は出来ない。
言葉にしてみれば然程長い話では無かった。
ウィリアムに、婚約解消への不満を示され兄との共同経営を詰られて走って逃げた。その途中で走るに邪魔な鞄を放った。
逃げた先が、ジョージであった。
「ジョージ殿との用件は?」
「滞りはございません。」
あの後、肉屋の視察は無事、間に合った。
今日、ジョージと共に出掛けることは父の耳にも入れていた。
そうか、と言って父はブランデーを一口含む。
多分、父はいつもこの時間をこうして楽しんでいるのだろう。多忙な執務を熟した一日の終わりに、熟成されたウッディーな香りと芳醇な味わいを一人ゆっくり楽しむひととき。
父にもそんな時間の過ごし方があるのを初めて知った。そんな憩いの時間に招かれた話題がこんな顛末で情けない。
「エリザベス。」
ブランデーを味わう父を見つめていたので、こちらに視線を戻した父と目が合った。
「ジョージ殿をどう思っている。」
「...お慕い申しております。」
どんな時にも、十二歳の少女にさえも、嘘も偽りも誤魔化しもしない父を前に、エリザベスは、ほんの少し躊躇った後に真実からの気持ちを言葉にした。
果たして父は、
「そうか。」
と言って、もう一口ブランデーを含んだ。
自室に戻り、簡単に身を清めてから夜着に着替える。
月が大分太って来た。あと数日で満月を迎えるだろう。夏の夜に僅かに開けた窓から、満ちて行く月を見上げる。
言ってしまった。
言葉に出してしまった。
いつからだったのか。気が付いたらそうだった。
ジョージに好意を抱いてる。
好意なんて軽すぎる。
「私、ジョージ様が好きなんだわ。」
気付かぬ振りをしていたのに、自分は誤魔化せても父には駄目だ。父の前では誤魔化せない。
馬車の中で囲われて、幸せだと思ってしまった。
二本の腕が迎えてくれて、なんの恐れも抱かず飛び込んだ。ひたすら目指して駆けて来て、そうして迎えられた腕に囲われて、温かな胸にしがみ付いた。
人生初めての全速力に、ばくばく唸る心臓が、駆けて来たからなのか抱き締められたからか、自分でも分からない。きっと多分、その両方。
異国の血を現す黒髪。どこにいても探してしまう黒い髪。
私を見下ろす榛の瞳。温かな貴方の眼差し。
恋心を無くした筈なのに。長患いの後にぽっかり空いた心の穴は、容易く貴方で埋められた。
また恋をしてしまった。
姉の婚約者に恋をしてしまった。
エレノアから心を離せないウィリアムを諦め手離した自分であるのに。
どれほど業が深いのか、その兄に堕ちてしまった。
ウィリアムに、姉と貴方が添うことは、今のままでは許されないのだと伝えたその直後、舌の根も乾かぬうちに貴方の兄への恋心に気付いてしまった。
ねえ、ウィリアム。貴方もこんな気持ちだったの?
エレノアに恋心を捧げて、惹かれる心を止められない。貴族の契約も約束も解っていても離れらる事が出来なかった。
姉とウィリアムの二人に裏切られた気持ちに、怒りを覚えて散々呆れて、漸く手放す決心が付いたと思ったら、同じ轍を踏んだのは真逆の自分の方だった。
幼い頃に自分とは違う向こう側、大人の世界の人だと遠巻きに見ていた幼馴染は、大人の世界はそのままに、恋焦がれる男性(ひと)になってしまった。
姉は、エレノアは、この恋心を知ったら何とするだろう。後継の立場を捨ててまで添い遂げたいと望んだ人に、横恋慕をする妹を許せる筈など無いだろう。
「どうしたらいいの?」
誰も答えてくれない問いを、まあるい月だけが聞いている。
「ジョージ・グレアム・モーランド」
その名を呟き口の中に馴染ませる。
ブランデーの熟成した大人の薫りがした。
晩餐を終えて部屋を出る際に、父にそう言われて、エリザベスは父の執務室を訪ねた。
さっき晩餐を終えたばかりだというのに、父は既に執務机で書類に向かっていた。
促されるままテーブルの席に座り、暫し待つ。時折、ぱさりと紙をめくる音がして、その後再び静寂が戻る。
「エリザベス。」
書類に目を落としたままの父に名を呼ばれた。
少しばかり気を抜いていたのか、急に名を呼ばれて返事が出来なかった。
父は書類を執事に手渡し、そのままこちらへ歩いて来る。向かい合わせに座れば、いつの間に用意していたのかグラスが置かれた。
「お前もどうだ?」
琥珀色の液体が注がれて、もう一つのグラスにも、執事が今度は少な目に注いでくれる。
芳醇な香りが漂って、鼻の奥を刺激する果実と樽の合わさった独特な香りから、ブランデーだと解った。
恐る恐る一口含んで
「苦っ」
「はは」
お酒は飲めるが嗜む程度。偶に出る社交の席のみで、お子様に大人のお飲み物は苦かった。
そこのところも分かっていたらしい執事が用意していたチェイサーに口をつけると、
「エリザベス。」
父に呼ばれて姿勢を正す。
「何があった。」
その言葉と同時に執事が何かを携えて来た。
エリザベスの鞄。駆け出した時に放り捨てた鞄である。明日、拾わねばと思っていたが、学園の誰かが拾って届けてくれたのか。
「侯爵家の者が届けて来た。」
真逆、ウィリアム?
いや、彼であったら使用人など通すだろうか。婚約は解消したが絶縁した訳では無いのだから。
では一体誰が届けたのだろう。
父の質問を受けて、エリザベスは事の経緯を話した。父に曖昧な返答は出来ない。
言葉にしてみれば然程長い話では無かった。
ウィリアムに、婚約解消への不満を示され兄との共同経営を詰られて走って逃げた。その途中で走るに邪魔な鞄を放った。
逃げた先が、ジョージであった。
「ジョージ殿との用件は?」
「滞りはございません。」
あの後、肉屋の視察は無事、間に合った。
今日、ジョージと共に出掛けることは父の耳にも入れていた。
そうか、と言って父はブランデーを一口含む。
多分、父はいつもこの時間をこうして楽しんでいるのだろう。多忙な執務を熟した一日の終わりに、熟成されたウッディーな香りと芳醇な味わいを一人ゆっくり楽しむひととき。
父にもそんな時間の過ごし方があるのを初めて知った。そんな憩いの時間に招かれた話題がこんな顛末で情けない。
「エリザベス。」
ブランデーを味わう父を見つめていたので、こちらに視線を戻した父と目が合った。
「ジョージ殿をどう思っている。」
「...お慕い申しております。」
どんな時にも、十二歳の少女にさえも、嘘も偽りも誤魔化しもしない父を前に、エリザベスは、ほんの少し躊躇った後に真実からの気持ちを言葉にした。
果たして父は、
「そうか。」
と言って、もう一口ブランデーを含んだ。
自室に戻り、簡単に身を清めてから夜着に着替える。
月が大分太って来た。あと数日で満月を迎えるだろう。夏の夜に僅かに開けた窓から、満ちて行く月を見上げる。
言ってしまった。
言葉に出してしまった。
いつからだったのか。気が付いたらそうだった。
ジョージに好意を抱いてる。
好意なんて軽すぎる。
「私、ジョージ様が好きなんだわ。」
気付かぬ振りをしていたのに、自分は誤魔化せても父には駄目だ。父の前では誤魔化せない。
馬車の中で囲われて、幸せだと思ってしまった。
二本の腕が迎えてくれて、なんの恐れも抱かず飛び込んだ。ひたすら目指して駆けて来て、そうして迎えられた腕に囲われて、温かな胸にしがみ付いた。
人生初めての全速力に、ばくばく唸る心臓が、駆けて来たからなのか抱き締められたからか、自分でも分からない。きっと多分、その両方。
異国の血を現す黒髪。どこにいても探してしまう黒い髪。
私を見下ろす榛の瞳。温かな貴方の眼差し。
恋心を無くした筈なのに。長患いの後にぽっかり空いた心の穴は、容易く貴方で埋められた。
また恋をしてしまった。
姉の婚約者に恋をしてしまった。
エレノアから心を離せないウィリアムを諦め手離した自分であるのに。
どれほど業が深いのか、その兄に堕ちてしまった。
ウィリアムに、姉と貴方が添うことは、今のままでは許されないのだと伝えたその直後、舌の根も乾かぬうちに貴方の兄への恋心に気付いてしまった。
ねえ、ウィリアム。貴方もこんな気持ちだったの?
エレノアに恋心を捧げて、惹かれる心を止められない。貴族の契約も約束も解っていても離れらる事が出来なかった。
姉とウィリアムの二人に裏切られた気持ちに、怒りを覚えて散々呆れて、漸く手放す決心が付いたと思ったら、同じ轍を踏んだのは真逆の自分の方だった。
幼い頃に自分とは違う向こう側、大人の世界の人だと遠巻きに見ていた幼馴染は、大人の世界はそのままに、恋焦がれる男性(ひと)になってしまった。
姉は、エレノアは、この恋心を知ったら何とするだろう。後継の立場を捨ててまで添い遂げたいと望んだ人に、横恋慕をする妹を許せる筈など無いだろう。
「どうしたらいいの?」
誰も答えてくれない問いを、まあるい月だけが聞いている。
「ジョージ・グレアム・モーランド」
その名を呟き口の中に馴染ませる。
ブランデーの熟成した大人の薫りがした。
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