11 / 29
【11】
しおりを挟む
「リズ。」
聞き馴染んだ声を背に受けて、エリザベスが立ち止まる。
声だけで誰であるか見ずとも分かる。
「ウィリアム様」
婚約者であったのだから。
エリザベスを愛称で呼ぶのはウィリアムだけであった。幼い頃の高い声。変声期のあと掠れた声。今は青年のそれになっていた。
低すぎない耳に残る艶のある声音。懐かしい。そう思うくらい、顔を合わせていなかった。
もう初夏を迎える。婚約の解消は春のはじめであったから、もう数ヶ月が経っていた。
ジョージと一緒に事業に関わるうちに、あっと言う間に夏が来る。浮かれていたつもりは無いけれど、結局そう云うことだろう。
元婚約者を、過去の人だと思えるくらいには。
婚約解消の直ぐ後は、学園でも気を張らせて、なるべく顔を合わせない様に注意していた。広い学園で学級も離れていて、元々擦れ違う事も少なかったのが、少し気を付ければ全く会わなくなった。
だから油断していたのだろう。
この頃は、モーランド侯爵邸を訪う事も度々あるし、母と姉の不在を選んで、ジョージが伯爵家を訪れる事もある。
ジョージに齎された楽しみにすっかり心を奪われて、長く慕っていたのを離れてしまったウィリアムを、もう縁(えにし)の切れた人と思っていた。
そんな薄情だから、うっかりこんな所で声を掛けられた。
「リズ、少し話せないかな。」
「ここでは駄目でしょうか。」
「うん、出来れば人目に付かない方が良いかな。」
駄目でしょう。
下校の時間は過ぎていて、大方の学生は帰ってしまった。
エリザベスはいつもの様に、図書室で課題を済ませて、そろそろ迎えの馬車が着く頃だろうと正面玄関に向かうところであった。
遠くにちらほら人が見える。
まだ残っている学生だろう。
「ウィリアム様、私と貴方は二人きりにはなれないわ。」
言わずとも分かる事を言葉にする。
それとも分からないから、姉ともあれ程距離が近かったのか。いやいや、あれは解っていただろう。
「何故、兄さんと?」
声を抑えてウィリアムが言った。
「事業を一緒に経営しているのです。侯爵様もご存知よ。」
「僕は聞いていない。」
そんな事を言われても。
「ジョージ様に伺って下さい。私は、父を通してお話を頂いたのです。」
正当な理由を述べれば理解してくれるか?
「そんな事、僕は知らない。」
理解してもらえなかった。
「ねえ、リズ。」
ああ、この呼びかけ。幼い頃からの何度も聞いた、甘やかな呼びかけ。
ウィリアムは知っている。エリザベスがこの呼びかけに弱いのを。
「どうして解消だなんて、」「ウィリアム様。」
これ以上言わせては駄目。
「ウィリアム様。終わったのです。」
もう、私達は終わってしまったのよ、ウィリアム。幼い頃の呼び方で、心の中で語り掛ける。
「君は僕が嫌いになったの?」
「違うわ、そうじゃないでしょう?」
「君が望んだんだろ?僕は解消なんて望んでなかった。」
「ウィリアム、貴方が望んだのよ。」
「そんな事は一言だって言っていない。」
「違うわ、貴方が姉を望んだのよ。」
いつの間にか、語調も砕けて幼馴染のそれになる。
「エレノアとは、」
姉とはなに?
「...」
それが答えだと、どうして自分で分からないのか。
「ウィリアム様。私達の婚約は既に解消されております。そして、姉は貴方のお兄様と婚姻するのです。」
恋心を責めているのではない。叶わぬ思いを捨てろと言っているわけではない。
ただ、事実なのだと、姉と貴方が添うことは、今のままでは許されないのだと言ったつもりであった。
「では、君こそ兄と不貞をしているんじゃないか。」
「え?」
「二人で事業などと。邸でも二人で、外にも二人で!」
「何を仰っているの?事業だ「知るか、そんな事!」
もう、これ以上は無理だった。
エリザベスは、ウィリアムと向き合った姿勢から背を翻して玄関に向かう。出来るだけ速歩きで進み、後ろにエリザベスを呼ぶ声を聞いてからは、走り出した。そのまま一気に駆ける。扉を抜けて外に飛び出て馬車留を目指し、息が続く限り走った。持っていた鞄は疾うに放り出していた。息が切れて胸が痛い。倒れてしまいそう。
途中、幾人かと接触しそうになるのをよろけて避けて、足が攣りそうになるも走って走って、そうして視界に目当ての馬車が見えると足が悲鳴を上げるのを、お願い走ってと叱咤して、御者が慌てて開いた扉を目指し、ステップを二段、最後の力と大きく跳ねて飛び乗った。
勢いが過ぎて転がるように入ったのを、その衝撃ごと二本の腕が抱き留(と)めた。
貴方がいるから大丈夫。
この扉が、この世の自由の入口であるように、乗り込んだ先には貴方が待っていると知っていたから、私は全力で駆けて走ったのよ。
必ず貴方が、私の事を受け留めて、抱き締めてくれると知っていたから。
「エリザベス。何があった」
力強く抱き締める腕に囲われて、胸にしがみついたまま、はあはあ荒い息が整うのを待つ。ばくばくと胸を打つ鼓動が耳の奥まで響いて痛い。こんなに走ったのは子供のときぶりだ。もう無理、二度とこれほど走れない。漸く息が整って胸の動悸が鎮まって、
それから、榛色の瞳を見上げて
「ジョージ様」
男の名を呼んだ。
聞き馴染んだ声を背に受けて、エリザベスが立ち止まる。
声だけで誰であるか見ずとも分かる。
「ウィリアム様」
婚約者であったのだから。
エリザベスを愛称で呼ぶのはウィリアムだけであった。幼い頃の高い声。変声期のあと掠れた声。今は青年のそれになっていた。
低すぎない耳に残る艶のある声音。懐かしい。そう思うくらい、顔を合わせていなかった。
もう初夏を迎える。婚約の解消は春のはじめであったから、もう数ヶ月が経っていた。
ジョージと一緒に事業に関わるうちに、あっと言う間に夏が来る。浮かれていたつもりは無いけれど、結局そう云うことだろう。
元婚約者を、過去の人だと思えるくらいには。
婚約解消の直ぐ後は、学園でも気を張らせて、なるべく顔を合わせない様に注意していた。広い学園で学級も離れていて、元々擦れ違う事も少なかったのが、少し気を付ければ全く会わなくなった。
だから油断していたのだろう。
この頃は、モーランド侯爵邸を訪う事も度々あるし、母と姉の不在を選んで、ジョージが伯爵家を訪れる事もある。
ジョージに齎された楽しみにすっかり心を奪われて、長く慕っていたのを離れてしまったウィリアムを、もう縁(えにし)の切れた人と思っていた。
そんな薄情だから、うっかりこんな所で声を掛けられた。
「リズ、少し話せないかな。」
「ここでは駄目でしょうか。」
「うん、出来れば人目に付かない方が良いかな。」
駄目でしょう。
下校の時間は過ぎていて、大方の学生は帰ってしまった。
エリザベスはいつもの様に、図書室で課題を済ませて、そろそろ迎えの馬車が着く頃だろうと正面玄関に向かうところであった。
遠くにちらほら人が見える。
まだ残っている学生だろう。
「ウィリアム様、私と貴方は二人きりにはなれないわ。」
言わずとも分かる事を言葉にする。
それとも分からないから、姉ともあれ程距離が近かったのか。いやいや、あれは解っていただろう。
「何故、兄さんと?」
声を抑えてウィリアムが言った。
「事業を一緒に経営しているのです。侯爵様もご存知よ。」
「僕は聞いていない。」
そんな事を言われても。
「ジョージ様に伺って下さい。私は、父を通してお話を頂いたのです。」
正当な理由を述べれば理解してくれるか?
「そんな事、僕は知らない。」
理解してもらえなかった。
「ねえ、リズ。」
ああ、この呼びかけ。幼い頃からの何度も聞いた、甘やかな呼びかけ。
ウィリアムは知っている。エリザベスがこの呼びかけに弱いのを。
「どうして解消だなんて、」「ウィリアム様。」
これ以上言わせては駄目。
「ウィリアム様。終わったのです。」
もう、私達は終わってしまったのよ、ウィリアム。幼い頃の呼び方で、心の中で語り掛ける。
「君は僕が嫌いになったの?」
「違うわ、そうじゃないでしょう?」
「君が望んだんだろ?僕は解消なんて望んでなかった。」
「ウィリアム、貴方が望んだのよ。」
「そんな事は一言だって言っていない。」
「違うわ、貴方が姉を望んだのよ。」
いつの間にか、語調も砕けて幼馴染のそれになる。
「エレノアとは、」
姉とはなに?
「...」
それが答えだと、どうして自分で分からないのか。
「ウィリアム様。私達の婚約は既に解消されております。そして、姉は貴方のお兄様と婚姻するのです。」
恋心を責めているのではない。叶わぬ思いを捨てろと言っているわけではない。
ただ、事実なのだと、姉と貴方が添うことは、今のままでは許されないのだと言ったつもりであった。
「では、君こそ兄と不貞をしているんじゃないか。」
「え?」
「二人で事業などと。邸でも二人で、外にも二人で!」
「何を仰っているの?事業だ「知るか、そんな事!」
もう、これ以上は無理だった。
エリザベスは、ウィリアムと向き合った姿勢から背を翻して玄関に向かう。出来るだけ速歩きで進み、後ろにエリザベスを呼ぶ声を聞いてからは、走り出した。そのまま一気に駆ける。扉を抜けて外に飛び出て馬車留を目指し、息が続く限り走った。持っていた鞄は疾うに放り出していた。息が切れて胸が痛い。倒れてしまいそう。
途中、幾人かと接触しそうになるのをよろけて避けて、足が攣りそうになるも走って走って、そうして視界に目当ての馬車が見えると足が悲鳴を上げるのを、お願い走ってと叱咤して、御者が慌てて開いた扉を目指し、ステップを二段、最後の力と大きく跳ねて飛び乗った。
勢いが過ぎて転がるように入ったのを、その衝撃ごと二本の腕が抱き留(と)めた。
貴方がいるから大丈夫。
この扉が、この世の自由の入口であるように、乗り込んだ先には貴方が待っていると知っていたから、私は全力で駆けて走ったのよ。
必ず貴方が、私の事を受け留めて、抱き締めてくれると知っていたから。
「エリザベス。何があった」
力強く抱き締める腕に囲われて、胸にしがみついたまま、はあはあ荒い息が整うのを待つ。ばくばくと胸を打つ鼓動が耳の奥まで響いて痛い。こんなに走ったのは子供のときぶりだ。もう無理、二度とこれほど走れない。漸く息が整って胸の動悸が鎮まって、
それから、榛色の瞳を見上げて
「ジョージ様」
男の名を呼んだ。
3,813
あなたにおすすめの小説
貴方なんて大嫌い
ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と
いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている
それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い
旦那様。私が悪女ならば、愛人の女は何になるのかしら?
白雲八鈴
恋愛
我が公爵家主催の夜会の最中。夫が愛人を連れてやってきたのです。そして、私を悪女という理由で離縁を突きつけてきました。
離縁して欲しいというのであれば、今まで支援してきた金額を全額返済していただけません?
あら?愛人の貴女が支払ってくれると?お優しいわね。
私が悪女というのであれば、妻のいる夫の愛人に収まっている貴女は何なのかしら?
氷の王妃は跪かない ―褥(しとね)を拒んだ私への、それは復讐ですか?―
柴田はつみ
恋愛
亡国との同盟の証として、大国ターナルの若き王――ギルベルトに嫁いだエルフレイデ。
しかし、結婚初夜に彼女を待っていたのは、氷の刃のように冷たい拒絶だった。
「お前を抱くことはない。この国に、お前の居場所はないと思え」
屈辱に震えながらも、エルフレイデは亡き母の教え――
「己の誇り(たましい)を決して売ってはならない」――を胸に刻み、静かに、しかし凛として言い返す。
「承知いたしました。ならば私も誓いましょう。生涯、あなたと褥を共にすることはございません」
愛なき結婚、冷遇される王妃。
それでも彼女は、逃げも嘆きもせず、王妃としての務めを完璧に果たすことで、己の価値を証明しようとする。
――孤独な戦いが、今、始まろうとしていた。
あなたが捨てた花冠と后の愛
小鳥遊 れいら
恋愛
幼き頃から皇后になるために育てられた公爵令嬢のリリィは婚約者であるレオナルド皇太子と相思相愛であった。
順調に愛を育み合った2人は結婚したが、なかなか子宝に恵まれなかった。。。
そんなある日、隣国から王女であるルチア様が側妃として嫁いでくることを相談なしに伝えられる。
リリィは強引に話をしてくるレオナルドに嫌悪感を抱くようになる。追い打ちをかけるような出来事が起き、愛ではなく未来の皇后として国を守っていくことに自分の人生をかけることをしていく。
そのためにリリィが取った行動とは何なのか。
リリィの心が離れてしまったレオナルドはどうしていくのか。
2人の未来はいかに···
「義妹に譲れ」と言われたので、公爵家で幸せになります
恋せよ恋
恋愛
「しっかり者の姉なら、婚約者を妹に譲ってあげなさい」
「そうだよ、バネッサ。君なら、わかるだろう」
十五歳の冬。父と婚約者パトリックから放たれた無慈悲な言葉。
再婚相手の連れ子・ナタリアの図々しさに耐えてきたバネッサは、
その瞬間に決意した。
「ええ、喜んで差し上げますわ」
将来性のない男も、私を軽んじる家族も、もういらない。
跡継ぎの重責から解放されたバネッサは、その類まれなる知性を見込まれ、
王国の重鎮・ヴィンセント公爵家へ嫁ぐことに。
「私は、私を一番に愛してくれる場所で幸せになります!」
聡明すぎる令嬢による、自立と逆転のハッピーエンド。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
もう演じなくて結構です
梨丸
恋愛
侯爵令嬢セリーヌは最愛の婚約者が自分のことを愛していないことに気づく。
愛しの婚約者様、もう婚約者を演じなくて結構です。
11/5HOTランキング入りしました。ありがとうございます。
感想などいただけると、嬉しいです。
11/14 完結いたしました。
11/16 完結小説ランキング総合8位、恋愛部門4位ありがとうございます。
私があなたを好きだったころ
豆狸
恋愛
「……エヴァンジェリン。僕には好きな女性がいる。初恋の人なんだ。学園の三年間だけでいいから、聖花祭は彼女と過ごさせてくれ」
※1/10タグの『婚約解消』を『婚約→白紙撤回』に訂正しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる