令嬢は見極める

桃井すもも

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「リズ。」

聞き馴染んだ声を背に受けて、エリザベスが立ち止まる。
声だけで誰であるか見ずとも分かる。

「ウィリアム様」
婚約者であったのだから。

エリザベスを愛称で呼ぶのはウィリアムだけであった。幼い頃の高い声。変声期のあと掠れた声。今は青年のそれになっていた。
低すぎない耳に残る艶のある声音。懐かしい。そう思うくらい、顔を合わせていなかった。
もう初夏を迎える。婚約の解消は春のはじめであったから、もう数ヶ月が経っていた。

ジョージと一緒に事業に関わるうちに、あっと言う間に夏が来る。浮かれていたつもりは無いけれど、結局そう云うことだろう。
元婚約者を、過去の人だと思えるくらいには。

婚約解消の直ぐ後は、学園でも気を張らせて、なるべく顔を合わせない様に注意していた。広い学園で学級も離れていて、元々擦れ違う事も少なかったのが、少し気を付ければ全く会わなくなった。

だから油断していたのだろう。
この頃は、モーランド侯爵邸を訪う事も度々あるし、母と姉の不在を選んで、ジョージが伯爵家を訪れる事もある。

ジョージに齎された楽しみにすっかり心を奪われて、長く慕っていたのを離れてしまったウィリアムを、もう縁(えにし)の切れた人と思っていた。

そんな薄情だから、うっかりこんな所で声を掛けられた。

「リズ、少し話せないかな。」
「ここでは駄目でしょうか。」
「うん、出来れば人目に付かない方が良いかな。」
駄目でしょう。

下校の時間は過ぎていて、大方の学生は帰ってしまった。
エリザベスはいつもの様に、図書室で課題を済ませて、そろそろ迎えの馬車が着く頃だろうと正面玄関に向かうところであった。

遠くにちらほら人が見える。
まだ残っている学生だろう。

「ウィリアム様、私と貴方は二人きりにはなれないわ。」
言わずとも分かる事を言葉にする。
それとも分からないから、姉ともあれ程距離が近かったのか。いやいや、あれは解っていただろう。

「何故、兄さんと?」
声を抑えてウィリアムが言った。

「事業を一緒に経営しているのです。侯爵様もご存知よ。」
「僕は聞いていない。」
そんな事を言われても。

「ジョージ様に伺って下さい。私は、父を通してお話を頂いたのです。」
正当な理由を述べれば理解してくれるか?

「そんな事、僕は知らない。」
理解してもらえなかった。

「ねえ、リズ。」
ああ、この呼びかけ。幼い頃からの何度も聞いた、甘やかな呼びかけ。
ウィリアムは知っている。エリザベスがこの呼びかけに弱いのを。

「どうして解消だなんて、」「ウィリアム様。」
これ以上言わせては駄目。

「ウィリアム様。終わったのです。」
もう、私達は終わってしまったのよ、ウィリアム。幼い頃の呼び方で、心の中で語り掛ける。

「君は僕が嫌いになったの?」
「違うわ、そうじゃないでしょう?」
「君が望んだんだろ?僕は解消なんて望んでなかった。」
「ウィリアム、貴方が望んだのよ。」
「そんな事は一言だって言っていない。」
「違うわ、貴方が姉を望んだのよ。」
いつの間にか、語調も砕けて幼馴染のそれになる。

「エレノアとは、」
姉とはなに?
「...」
それが答えだと、どうして自分で分からないのか。

「ウィリアム様。私達の婚約は既に解消されております。そして、姉は貴方のお兄様と婚姻するのです。」

恋心を責めているのではない。叶わぬ思いを捨てろと言っているわけではない。
ただ、事実なのだと、姉と貴方が添うことは、今のままでは許されないのだと言ったつもりであった。

「では、君こそ兄と不貞をしているんじゃないか。」
「え?」
「二人で事業などと。邸でも二人で、外にも二人で!」
「何を仰っているの?事業だ「知るか、そんな事!」
もう、これ以上は無理だった。

エリザベスは、ウィリアムと向き合った姿勢から背を翻して玄関に向かう。出来るだけ速歩きで進み、後ろにエリザベスを呼ぶ声を聞いてからは、走り出した。そのまま一気に駆ける。扉を抜けて外に飛び出て馬車留を目指し、息が続く限り走った。持っていた鞄は疾うに放り出していた。息が切れて胸が痛い。倒れてしまいそう。
途中、幾人かと接触しそうになるのをよろけて避けて、足が攣りそうになるも走って走って、そうして視界に目当ての馬車が見えると足が悲鳴を上げるのを、お願い走ってと叱咤して、御者が慌てて開いた扉を目指し、ステップを二段、最後の力と大きく跳ねて飛び乗った。
勢いが過ぎて転がるように入ったのを、その衝撃ごと二本の腕が抱き留(と)めた。

貴方がいるから大丈夫。

この扉が、この世の自由の入口であるように、乗り込んだ先には貴方が待っていると知っていたから、私は全力で駆けて走ったのよ。
必ず貴方が、私の事を受け留めて、抱き締めてくれると知っていたから。

「エリザベス。何があった」
力強く抱き締める腕に囲われて、胸にしがみついたまま、はあはあ荒い息が整うのを待つ。ばくばくと胸を打つ鼓動が耳の奥まで響いて痛い。こんなに走ったのは子供のときぶりだ。もう無理、二度とこれほど走れない。漸く息が整って胸の動悸が鎮まって、

それから、榛色の瞳を見上げて

「ジョージ様」
男の名を呼んだ。




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