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第三章 妖刀と姉と弟

嵐、撤退

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 クスリ、と小さく笑う嵐。
 妖しく光る赤い眼で『泥蛙』を振るう鼓太郎の姿を見つめていた彼であったが、急速に接近する圧に気が付いた彼ははっとした表情を浮かべると防御の構えを取る。

 瞬間、一陣の風が吹く。
 自分との戦いから意識を逸らした嵐の油断を見逃さず、上空から落下する勢いを活かした斬り下ろしの一撃を見舞った涼音は、両腕に力を籠めて暴風と共に嵐の体を大きく吹き飛ばした。

「ぐううっ!?」

「……随分と、余裕を見せてくれるわね。私との立ち合いで余所見が出来るほど、あなたは強かったかしら?」

「ふ、ふふ……! 手厳しいな、姉さんは。でも、姉さんの言う通りだ。これは完全に僕の失策だなぁ……」

 ぽたり、ぽたりと斬り裂かれた左肩から血を流し、苦悶の表情を浮かべながらも嵐は笑う。
 乗り越えたいと願い続けてきた目標との戦いの最中に他のものに気を取られてしまった自分自身の愚かさを呪った彼は、仕方がないとばかりに大きな溜息をつき、言った。

「今回はここまでにしておこう。姉さんとの決着をつけるには、邪魔が多すぎる。不本意な勝ち方をしても、素直に喜べないからね」

「それは、現状が優位な人間が口にする台詞よ。手負いのあなたを逃がしてあげるほど、私は甘くないわ」

「ははっ! 手負い? 僕が? もしかしてこの傷のことを言っているのかい? ……今の僕にとって、こんなものは傷の内には入らないんだよ、姉さん」

 そう、不敵な言葉を口にした嵐の体に『禍風』から妖刀の持つ禍々しい気力が注ぎ込まれる。
 人間が、武神刀へと気力を送り込むのではない。武神刀が人間を使役するかのように気力を注ぐその光景は、常に冷静さを保とうとしている涼音を少なからず動揺させるに十分な威力があった。

 深緑、もしくは、黒が混じった緑。そんな薄暗い緑色の気力が嵐の体を満たす。
 『禍風』から力を受け取った彼の左肩の傷は、瞬く間に肉が盛り上がり、今の今まで血が滴っていたそこはあっという間に僅かな傷跡が残るだけで、嵐が普通に左腕を動かせるまでの回復を見せた。

 妖刀から気力を受け取っての、驚異的な回復能力。
 正に人間離れした力を見せつけた嵐に対して、心を震わせた涼音がこみ上げる感情を押し殺しながら言葉を漏らした。

「そこまで、堕ちていたのね。嵐、あなたはもう――」

「そうだよ。僕は既に人間じゃあない。妖の領域に足を踏み入れた、人外の存在なんだ」

 姉と同じような、淡々とした感情の籠っていない喋り方でそう言った嵐は、人としての在り方を捨てた自分の姿に呆然とする涼音を置き、距離を取った。
 一瞬、涼音は彼をこのまま追撃し、決着をつけようかとも考えたが……直感的に、嵐に追い付くことが叶わないと理解した彼女は、彼が望む決着に相応しい舞台にて再び立ち合うことを決め、『薫風』を鞘へと納めた。

「……一つだけ聞かせて、嵐。あなたは……私のことを恨んでいる? 才能のない弟を見放した、非情な姉である私を憎く思っているの?」

「……いいや。これっぽっちも恨んでなんかいないさ。姉さんのことも、先生のことも、僕は大好きだ。だからこそ……僕は、強くなりたかったんだよ」

 煮え切らない形ではあるが、この場の立ち合いは終わった。
 お互いに愛刀を鞘に納めた二人は、剣士ではなく姉と弟として言葉を交わす。

「今宵の勝負は姉さんの勝ちだ。これで僕の零勝三百七十二敗だね。でも、この次の勝負では僕が勝つ。最初で最後の一勝を姉さんから勝ち取ってみせるよ」

「嵐……っ!!」

 姿を消す寸前、敗北を認めた嵐が寂し気に笑う。
 妖刀を振るっていた時の狂気に満ちた笑みではなく、本来の彼の素顔を覗かせたその笑みに胸を突かれた涼音が弟の名を呼ぶも、その時には嵐の姿は吹き抜ける風と共に消え去っていた。

 涼音は、自分でも知らず知らずのうちに嵐に向けて伸ばしていた自分の右腕を見つめ、その手首をもう片方の手で強く握り締めると、自分自身を戒めるようにして強張る腕を下へとおろす。
 その腕が油の差していないブリキ人形のようにぎこちなく動く様に、自分の体が自分の物ではないような感覚を覚えながら……彼女は、自分の胸中に一言では言い表せない波打つ感情が沸き上がることを感じていた。
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