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諦めきれない思い
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以前にレナードから手紙の話は聞いていたので、秀一がウィーンに着いてすぐに智子が手紙を渡さなかったことは知っていたが、その裏にあった彼女の思いを知り、美姫の心が締め付けられた。
智子さんは秀一さんのピアノの才能に惚れ込んでいたと言っていたけど、それ以上の気持ちを抱いてたんだ。だからこそ、私に対して嫉妬を覚え、手紙を渡すことを躊躇ったんだ......
美姫には美姫の思いがあったが、智子にだって智子の思いがある。手紙を託した時点で、それを渡すか渡さないかは智子の自由なのだ。
智子ならきっと自分の気持ちを汲んで手紙を渡してくれるはずと盲目的に信じていた自分が愚かしい。
もし、あの時自分も一緒にウィーンに行っていたら秀一はどうなっていただろうと考えそうになり、また後悔の繰り返しだと己を蔑んだ。
智子の自分に対する気持ちがどうであれ、藁にもすがる思いで手紙を渡してくれたのだと知り、美姫は感謝した。
智子は一瞬目を伏せてから、美姫を見つめた。
「来栖さんは、あなたからの手紙をきっかけに変わりました。ピアノに向かい、音楽祭に向けて演奏の練習をするようになったんです。その気迫は狂気的でもあり、恐ろしくもありましたが、私はこれでようやくピアニスト来栖秀一が復帰できると興奮しました。
美姫さんに音楽祭の映像を送ったのは、もう来栖秀一に関わって欲しくなかったからです。あなたがいなくても立派に演奏できる、彼はこれから世界の様々な華々しい舞台に立つピアニストなのだから、もう邪魔はしないでと言いたかった。
祝電を送ったのも、そうです。あなたの、来栖秀一への思いを完全に断ち切らせたかったんです。
来栖秀一の名を語ってあんなことして、本当にごめんなさい。あの時は必死だったし、そうすることが正しいんだと信じて疑わなかったんです」
頭を下げる智子に、美姫は居た堪れなくなった。
「もう、いいですから。どうか、顔を上げてください」
智子の告白を聞いても、美姫は驚かなかった。なんとなく、そんな気はしていたからだ。けれどその一方で、やはり秀一ではなかったと心から安堵している自分もいた。
智子はようやく胸のつかえを取ることができてほっとしたような表情を浮かべてから、また語り出した。
「音楽祭で多くの批評家やマスコミから来栖秀一の才能が認められ、高く評価され、私はすっかり舞い上がっていました。来栖さんは様々な方面からインタビューや演奏の依頼を受け、精力的に仕事をこなしていました。
私は、ピアニスト来栖秀一の未来は明るいと信じていました。
でも、もうその時には彼の精神は崩壊しかけていたんです......」
智子は大きく息を吐いた。
「いくら来栖秀一でも、こなしきれない程の量の仕事を引き受け、食事も摂らず、寝ることもせず、ひたすらピアノを弾き続ける姿は異常としか言えません。それに、音楽祭の時のような高揚感もピアノへの情熱も、彼から感じられなくなりました。そんな彼を見ていることは、苦しくて仕方ありませんでした。
でも、私がいくら言っても、来栖さんは仕事を減らそうとしませんでした。当然ですよね......下僕の私なんかの言うことに彼が耳を傾けるはずがありません。
私は、いつか来栖さんの限界がきてしまうことを恐れながら、その日が今日でなければいいと祈りながら、ただただ日々を過ごしていました......」
その時の辛かった心情を思い出したのか、智子は俯き、喉を詰まらせた。
智子がペットボトルを手に取り、ゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。大きく息を吐き出すと、決心したように口を開く。
「その日は、突然訪れました。
来栖さんは何一つ私たちに言うことなく、メモすら残さず失踪したんです。レナードさんを始め、モルテッソーニさんや彼の門下生の方たちは来栖さんの行方を捜し、心配し、心を痛めていました。
私は来栖さんの失踪にショックを受けながらも、心のどこかで安堵する気持ちもありました。これで毎日脅えながら暮らさなくて済む、と。でも、そんな私に待っていたのは突然仕事をキャンセルした来栖秀一に対する問い合わせや苦情でした。
以前にも来栖さんは日本で仕事を全てキャンセルしたことがありましたが、その比じゃありませんでした。仕事の規模も大きく、レベルも高く、その損失は計り知れませんでした。
謝罪と補填に飛び回る日々、慣れないドイツ語でのコミュニケーション……来栖さんの行方も全く掴めない中、ウィーンいることに限界を感じ、神経をすり減らした私は、日本に帰国することを決めたんです」
智子さんは秀一さんのピアノの才能に惚れ込んでいたと言っていたけど、それ以上の気持ちを抱いてたんだ。だからこそ、私に対して嫉妬を覚え、手紙を渡すことを躊躇ったんだ......
美姫には美姫の思いがあったが、智子にだって智子の思いがある。手紙を託した時点で、それを渡すか渡さないかは智子の自由なのだ。
智子ならきっと自分の気持ちを汲んで手紙を渡してくれるはずと盲目的に信じていた自分が愚かしい。
もし、あの時自分も一緒にウィーンに行っていたら秀一はどうなっていただろうと考えそうになり、また後悔の繰り返しだと己を蔑んだ。
智子の自分に対する気持ちがどうであれ、藁にもすがる思いで手紙を渡してくれたのだと知り、美姫は感謝した。
智子は一瞬目を伏せてから、美姫を見つめた。
「来栖さんは、あなたからの手紙をきっかけに変わりました。ピアノに向かい、音楽祭に向けて演奏の練習をするようになったんです。その気迫は狂気的でもあり、恐ろしくもありましたが、私はこれでようやくピアニスト来栖秀一が復帰できると興奮しました。
美姫さんに音楽祭の映像を送ったのは、もう来栖秀一に関わって欲しくなかったからです。あなたがいなくても立派に演奏できる、彼はこれから世界の様々な華々しい舞台に立つピアニストなのだから、もう邪魔はしないでと言いたかった。
祝電を送ったのも、そうです。あなたの、来栖秀一への思いを完全に断ち切らせたかったんです。
来栖秀一の名を語ってあんなことして、本当にごめんなさい。あの時は必死だったし、そうすることが正しいんだと信じて疑わなかったんです」
頭を下げる智子に、美姫は居た堪れなくなった。
「もう、いいですから。どうか、顔を上げてください」
智子の告白を聞いても、美姫は驚かなかった。なんとなく、そんな気はしていたからだ。けれどその一方で、やはり秀一ではなかったと心から安堵している自分もいた。
智子はようやく胸のつかえを取ることができてほっとしたような表情を浮かべてから、また語り出した。
「音楽祭で多くの批評家やマスコミから来栖秀一の才能が認められ、高く評価され、私はすっかり舞い上がっていました。来栖さんは様々な方面からインタビューや演奏の依頼を受け、精力的に仕事をこなしていました。
私は、ピアニスト来栖秀一の未来は明るいと信じていました。
でも、もうその時には彼の精神は崩壊しかけていたんです......」
智子は大きく息を吐いた。
「いくら来栖秀一でも、こなしきれない程の量の仕事を引き受け、食事も摂らず、寝ることもせず、ひたすらピアノを弾き続ける姿は異常としか言えません。それに、音楽祭の時のような高揚感もピアノへの情熱も、彼から感じられなくなりました。そんな彼を見ていることは、苦しくて仕方ありませんでした。
でも、私がいくら言っても、来栖さんは仕事を減らそうとしませんでした。当然ですよね......下僕の私なんかの言うことに彼が耳を傾けるはずがありません。
私は、いつか来栖さんの限界がきてしまうことを恐れながら、その日が今日でなければいいと祈りながら、ただただ日々を過ごしていました......」
その時の辛かった心情を思い出したのか、智子は俯き、喉を詰まらせた。
智子がペットボトルを手に取り、ゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。大きく息を吐き出すと、決心したように口を開く。
「その日は、突然訪れました。
来栖さんは何一つ私たちに言うことなく、メモすら残さず失踪したんです。レナードさんを始め、モルテッソーニさんや彼の門下生の方たちは来栖さんの行方を捜し、心配し、心を痛めていました。
私は来栖さんの失踪にショックを受けながらも、心のどこかで安堵する気持ちもありました。これで毎日脅えながら暮らさなくて済む、と。でも、そんな私に待っていたのは突然仕事をキャンセルした来栖秀一に対する問い合わせや苦情でした。
以前にも来栖さんは日本で仕事を全てキャンセルしたことがありましたが、その比じゃありませんでした。仕事の規模も大きく、レベルも高く、その損失は計り知れませんでした。
謝罪と補填に飛び回る日々、慣れないドイツ語でのコミュニケーション……来栖さんの行方も全く掴めない中、ウィーンいることに限界を感じ、神経をすり減らした私は、日本に帰国することを決めたんです」
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