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ザルツブルク音楽祭のメイン会場となる2179席もの世界最大級のステージを有する、大祝祭劇場が映し出される。舞台にはウィーンに本拠を置く有名な楽団のオーケストラが既にずらっと並んでおり、正面の指揮台とピアノの椅子だけが空席となっていた。
それを見て、美姫の血液が沸き立ち、胸が熱くなった。
モーツァルトやカラヤンが生まれたこのザルツブルクでの高名な音楽祭で、秀一さんがこれから演奏するんだ。
カメラが回され、会場の座席側がぐるっと映し出された。2階席までは見えなかったので満席かどうかは分からなかったものの、1階席は正装した紳士淑女で座席が埋め尽くされており、格式の高い音楽祭であることが窺えた。
美姫は秀一がどんな曲を演奏するのか知らない。期待と恐れと不安が入り混じる中、息を詰めてじっと画面を見つめた。
やがて、盛大な拍手と共に指揮者が舞台から現れた。白髪に髭を生やし、気品ある雰囲気の男性だ。楽団の現在の常任指揮者であるフェルナンデスは、ウィーンだけでなく世界的に有名な指揮者で、今まで様々な一流の楽団の指揮者として活躍してきた。
フェルナンデスが観客に挨拶し、ピアノ演奏者として来栖秀一を紹介した。
すると、先ほどよりも更に大きな歓声と拍手が響く。ヘッドホンを通して耳に響くその大音響は、まるで自分が観客席に座っているような錯覚さえおこさせた。
秀一が舞台から姿を現わすと、美姫の喉が潰れたように息が出来なくなり、熱い涙が頬を伝った。
「ッッ......」
秀一、さんだ......
秀一さんが、舞台に立ってる。
久々に目にした秀一の姿に、美姫は胸を打たれた。同時に、抉られる程の痛みも感じていた。
秀一は、トレードマークとも言える長かった髪をバッサリ切っていた。元々痩せていた躰は更に痩せ、頬や顎もシャープになっていた。華やかで自信に満ち溢れ、優美だった彼の印象は消え、深い失望と孤独を感じさせるような影を背負っている。だが眼鏡の奥の眼光だけは、凄まじい気迫を鋭く放っていた。
秀一から滲み出る深い艶と陰りを帯びた妖しさ、美しさの中に潜む底知れぬ闇が、見るものをゾクゾクさせた。
ピアノの前に立ち、お辞儀をする秀一を前に、彼のあまりの変貌ぶりに観客たちが息を呑むのが伝わってきた。
ウィーンに着いてからザルツブルク音楽祭を迎えるまでの間、どれほどの辛苦を秀一さんは味わってきたのだろう......
美姫は両手で口を覆い、必死に嗚咽を抑えた。
指揮者が両手を挙げ、曲が始まる瞬間。聴衆が静まり返り、皆の意識が集中するのが分かる。
フェルナンデスが秀一に向かって指揮棒を振る。
「ダーーーン」
遠くから暗く重く響く、ロシア正教の鐘のような荘重な和音。
それを聞いた途端、美姫にはそれがなんの曲だか分かった。
---ピアノ協奏曲、第2番だ。
ロシアの作曲家、セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフが作曲した「ピアノ協奏曲第2番 ハ短調」は、彼が作曲した4曲のピアノ協奏曲の中で最も有名である。と同時に、ラフマニノフが作曲家として一躍世界的に知られるようになった出世作でもあり、今日こんにちも多くの演奏家たちの絶大な支持を受けている。
この曲は、ラフマニノフの人生そのものを表現している。
ラフマニノフはモスクワ音楽院在学中からその才能を見せ、将来を嘱望される天才ピアニストだった。その才能は彼の尊敬していた同じロシア出身の作曲家、チャイコフスキーも認めるところであり、作曲家としても早くから頭角を現していた。
順調そのものに見えた音楽家人生だったが、交響曲第1番が批評家たちから酷評され、人一倍繊細なラフマニノフは深く傷つき、極度のうつ状態になってしまう。
心配する友人たちの勧めで出会った精神科医のニコライ・ダール博士は、彼に音楽家としての自信を取り戻させるための一種の暗示療法を根気強く施した。その結果、長い年月はかかったものの、一時は見る影もなかったラフマニノフの状態は暗い闇を抜け、徐々に回復へと向かっていった。
やがてかつての自信を取り戻したラフマニノフは自らの再起をかけ「ピアノ協奏曲第2番 ハ短調」の作曲に着手し、完成された作品はラフマニノフを救った恩人、ダール博士に献呈された。この演奏会は絶賛を呼び、ピアノ協奏曲第2番の成功で完全に蘇ったラフマニノフは、再び音楽家として着実に足取りを進めていくのだった。
それを見て、美姫の血液が沸き立ち、胸が熱くなった。
モーツァルトやカラヤンが生まれたこのザルツブルクでの高名な音楽祭で、秀一さんがこれから演奏するんだ。
カメラが回され、会場の座席側がぐるっと映し出された。2階席までは見えなかったので満席かどうかは分からなかったものの、1階席は正装した紳士淑女で座席が埋め尽くされており、格式の高い音楽祭であることが窺えた。
美姫は秀一がどんな曲を演奏するのか知らない。期待と恐れと不安が入り混じる中、息を詰めてじっと画面を見つめた。
やがて、盛大な拍手と共に指揮者が舞台から現れた。白髪に髭を生やし、気品ある雰囲気の男性だ。楽団の現在の常任指揮者であるフェルナンデスは、ウィーンだけでなく世界的に有名な指揮者で、今まで様々な一流の楽団の指揮者として活躍してきた。
フェルナンデスが観客に挨拶し、ピアノ演奏者として来栖秀一を紹介した。
すると、先ほどよりも更に大きな歓声と拍手が響く。ヘッドホンを通して耳に響くその大音響は、まるで自分が観客席に座っているような錯覚さえおこさせた。
秀一が舞台から姿を現わすと、美姫の喉が潰れたように息が出来なくなり、熱い涙が頬を伝った。
「ッッ......」
秀一、さんだ......
秀一さんが、舞台に立ってる。
久々に目にした秀一の姿に、美姫は胸を打たれた。同時に、抉られる程の痛みも感じていた。
秀一は、トレードマークとも言える長かった髪をバッサリ切っていた。元々痩せていた躰は更に痩せ、頬や顎もシャープになっていた。華やかで自信に満ち溢れ、優美だった彼の印象は消え、深い失望と孤独を感じさせるような影を背負っている。だが眼鏡の奥の眼光だけは、凄まじい気迫を鋭く放っていた。
秀一から滲み出る深い艶と陰りを帯びた妖しさ、美しさの中に潜む底知れぬ闇が、見るものをゾクゾクさせた。
ピアノの前に立ち、お辞儀をする秀一を前に、彼のあまりの変貌ぶりに観客たちが息を呑むのが伝わってきた。
ウィーンに着いてからザルツブルク音楽祭を迎えるまでの間、どれほどの辛苦を秀一さんは味わってきたのだろう......
美姫は両手で口を覆い、必死に嗚咽を抑えた。
指揮者が両手を挙げ、曲が始まる瞬間。聴衆が静まり返り、皆の意識が集中するのが分かる。
フェルナンデスが秀一に向かって指揮棒を振る。
「ダーーーン」
遠くから暗く重く響く、ロシア正教の鐘のような荘重な和音。
それを聞いた途端、美姫にはそれがなんの曲だか分かった。
---ピアノ協奏曲、第2番だ。
ロシアの作曲家、セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフが作曲した「ピアノ協奏曲第2番 ハ短調」は、彼が作曲した4曲のピアノ協奏曲の中で最も有名である。と同時に、ラフマニノフが作曲家として一躍世界的に知られるようになった出世作でもあり、今日こんにちも多くの演奏家たちの絶大な支持を受けている。
この曲は、ラフマニノフの人生そのものを表現している。
ラフマニノフはモスクワ音楽院在学中からその才能を見せ、将来を嘱望される天才ピアニストだった。その才能は彼の尊敬していた同じロシア出身の作曲家、チャイコフスキーも認めるところであり、作曲家としても早くから頭角を現していた。
順調そのものに見えた音楽家人生だったが、交響曲第1番が批評家たちから酷評され、人一倍繊細なラフマニノフは深く傷つき、極度のうつ状態になってしまう。
心配する友人たちの勧めで出会った精神科医のニコライ・ダール博士は、彼に音楽家としての自信を取り戻させるための一種の暗示療法を根気強く施した。その結果、長い年月はかかったものの、一時は見る影もなかったラフマニノフの状態は暗い闇を抜け、徐々に回復へと向かっていった。
やがてかつての自信を取り戻したラフマニノフは自らの再起をかけ「ピアノ協奏曲第2番 ハ短調」の作曲に着手し、完成された作品はラフマニノフを救った恩人、ダール博士に献呈された。この演奏会は絶賛を呼び、ピアノ協奏曲第2番の成功で完全に蘇ったラフマニノフは、再び音楽家として着実に足取りを進めていくのだった。
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