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脱走
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「愛のあいさつ」を弾き終えた秀一は何事もなかったかのように仕事の支度を始め、美姫もいつものように彼の現場に付き添った。
今日は、明日がこけら落としとなる劇場での最終打ち合わせとリハーサルだった。オープニングセレモニーで、秀一が特別ゲストとしてピアノを独奏する。その後に行われる歌劇のオーケストラ演奏も、その日のみ秀一が特別に加わることになっていた。
秀一がスタッフを先導し、時間を無駄にすることなく着々と打ち合わせを進めていく。
打ち合わせが終わると、早速リハーサルが行われた。
秀一のピアノ独奏はオープニングセレモニーの余興なので、リサイタルのように長くはない。秀一を目当てに高い観劇チケットを買う客を期待しての、いわゆる客寄せイベントだ。
曲目は歌劇の前振りとなる、ジャコモ・プッチーニ作曲の歌劇トゥーランドットのアリアである「誰も寝てはならぬ」。
劇場のこけら落し公演となるため、話題性があり、人気が高く、より多くの客数を呼び込める見込みのある「トゥーランドット」が歌劇の演目に選ばれたのだった。トゥーランドットには著名なアリアが幾つかあるが、取り分けこの「誰も寝てはならぬ」はサッカーW杯やオリンピックでも披露され、フィギュアスケートの曲目としてもよく選ばれる人気の曲だ。
通常のピアノリサイタルのようにピアノを舞台の中央に置いてしまうと、その後すぐに歌劇の上演となる為、いったん幕を下ろしてピアノを移動させなければならず、時間がかかってしまう。
そこで、劇場側は表舞台の迫せりを使うことにした。迫とは、舞台の床の一部をくりぬき、そこに昇降装置を施した舞台機構だ。
役者や大道具を奈落から舞台上に押し上げたり(迫り上げ)、逆に奈落に引き下ろしたり(迫り下げ)することにより、意表をついた演出や迅速な舞台転換を可能とする。幕やピアノの移動が必要なくなるだけでなく、迫を使うことにより、観客により一層特別ゲストである来栖秀一の登場を強烈に演出することが出来る。
何もなかった舞台に迫が上がり、ピアノと共に秀一が登場すれば、観客は湧き上がるだろう。
美姫は真新しい匂いのする観客席から、秀一のリハーサルの様子を見つめていた。
ブザーが鳴り、幕が静かに上がる。
本来ならここで、まずは劇場の支配人や来賓挨拶があるのだが、それは舞台での立ち位置やマイクのセッティングなどの確認だけで終わった。
その後のリボンカット用のテープがスタッフによって張られ、音響や照明を軽く打ち合わせした。
それが終わると、秀一のピアノ独奏となる。
表舞台を見つめていると、真ん中の大きな円形の板が次第に下がっていく。板が視界から姿を消し、しばらくするとピアノの屋根が顔を見せる。
少しずつ上がってくると、秀一がピアノ椅子に座った状態で舞台に上がった。
わぁ......まるで、アイドルのコンサートみたい。
美姫はその演出ぶりに感心した。
秀一は椅子から立ち上がると、舞台で最も観客席から目立つ位置に立ち、優美にお辞儀をした。彼がお辞儀をした途端、いるはずのない大勢の観客の歓声が上がり、熱気に包まれたような錯覚すら起こした。
再び椅子に座った秀一は、背広のボタンを外し、背筋を真っ直ぐに伸ばした。指が鍵盤に触れるまでのほんの僅かなこの間は、いつも美姫に緊張と大きな期待を齎す。
秀一の美しい指が鍵盤に触れると、優しく美しい旋律から曲が始まった。
「トゥーランドット」とは、劇中の主人公である古代中国皇帝の姫の名前である。因みに、これは創作されたもので、実際の史実に基づいた話ではない。
トゥーランドットは、結婚を申し込んでくる男達に3つの謎かけをして、それが解けなければ処刑という厳しい掟を設けていた。
あるとき、トゥーランドットの美しさに一目惚れしたカラフ王子がこれを見事解いてしまうが、心を固く閉ざしていた姫は、王子の求婚を受け入れなかった。そこで王子は姫に、明日の夜明けまでに自分の名前を当てるという謎かけを出した。
当てられたら王子は求婚を諦め、潔く死ぬが、当てられなければ姫は結婚を承諾しなければならない。
冷酷なトゥーランドットは国民に対し、王子の名を解き明かすまでは寝ることを禁じ、もし誰も解き明かせなかったら、国民を皆殺しにすると言った。
王子は一人、宮殿から月に照らされた庭に出たところで姫のお触れを聞く。ここでアリア『誰も寝てはならぬ』が彼によって歌われるのだ。
美しい旋律の中に織り込まれる切なさと哀しみが、美姫の胸に打ち響く。
なんていう壮絶な愛情の示し方なのだろう......自分の死を犠牲にしてでも、愛する女性を手に入れたい、だなんて。
怖ろしい、と思うのに、そこまで愛されるということにゾクゾクとした興奮を感じてしまう。
それは、王子の愛情がどこか秀一さんのものと通じている気がするからなのかもしれない......
演奏する秀一の美しい横顔を見つめながら、ふとそんな思いが美姫の胸を掠かすめた。
秀一のピアノ独奏のリハーサルは、滞りなく終了した。
今日は、明日がこけら落としとなる劇場での最終打ち合わせとリハーサルだった。オープニングセレモニーで、秀一が特別ゲストとしてピアノを独奏する。その後に行われる歌劇のオーケストラ演奏も、その日のみ秀一が特別に加わることになっていた。
秀一がスタッフを先導し、時間を無駄にすることなく着々と打ち合わせを進めていく。
打ち合わせが終わると、早速リハーサルが行われた。
秀一のピアノ独奏はオープニングセレモニーの余興なので、リサイタルのように長くはない。秀一を目当てに高い観劇チケットを買う客を期待しての、いわゆる客寄せイベントだ。
曲目は歌劇の前振りとなる、ジャコモ・プッチーニ作曲の歌劇トゥーランドットのアリアである「誰も寝てはならぬ」。
劇場のこけら落し公演となるため、話題性があり、人気が高く、より多くの客数を呼び込める見込みのある「トゥーランドット」が歌劇の演目に選ばれたのだった。トゥーランドットには著名なアリアが幾つかあるが、取り分けこの「誰も寝てはならぬ」はサッカーW杯やオリンピックでも披露され、フィギュアスケートの曲目としてもよく選ばれる人気の曲だ。
通常のピアノリサイタルのようにピアノを舞台の中央に置いてしまうと、その後すぐに歌劇の上演となる為、いったん幕を下ろしてピアノを移動させなければならず、時間がかかってしまう。
そこで、劇場側は表舞台の迫せりを使うことにした。迫とは、舞台の床の一部をくりぬき、そこに昇降装置を施した舞台機構だ。
役者や大道具を奈落から舞台上に押し上げたり(迫り上げ)、逆に奈落に引き下ろしたり(迫り下げ)することにより、意表をついた演出や迅速な舞台転換を可能とする。幕やピアノの移動が必要なくなるだけでなく、迫を使うことにより、観客により一層特別ゲストである来栖秀一の登場を強烈に演出することが出来る。
何もなかった舞台に迫が上がり、ピアノと共に秀一が登場すれば、観客は湧き上がるだろう。
美姫は真新しい匂いのする観客席から、秀一のリハーサルの様子を見つめていた。
ブザーが鳴り、幕が静かに上がる。
本来ならここで、まずは劇場の支配人や来賓挨拶があるのだが、それは舞台での立ち位置やマイクのセッティングなどの確認だけで終わった。
その後のリボンカット用のテープがスタッフによって張られ、音響や照明を軽く打ち合わせした。
それが終わると、秀一のピアノ独奏となる。
表舞台を見つめていると、真ん中の大きな円形の板が次第に下がっていく。板が視界から姿を消し、しばらくするとピアノの屋根が顔を見せる。
少しずつ上がってくると、秀一がピアノ椅子に座った状態で舞台に上がった。
わぁ......まるで、アイドルのコンサートみたい。
美姫はその演出ぶりに感心した。
秀一は椅子から立ち上がると、舞台で最も観客席から目立つ位置に立ち、優美にお辞儀をした。彼がお辞儀をした途端、いるはずのない大勢の観客の歓声が上がり、熱気に包まれたような錯覚すら起こした。
再び椅子に座った秀一は、背広のボタンを外し、背筋を真っ直ぐに伸ばした。指が鍵盤に触れるまでのほんの僅かなこの間は、いつも美姫に緊張と大きな期待を齎す。
秀一の美しい指が鍵盤に触れると、優しく美しい旋律から曲が始まった。
「トゥーランドット」とは、劇中の主人公である古代中国皇帝の姫の名前である。因みに、これは創作されたもので、実際の史実に基づいた話ではない。
トゥーランドットは、結婚を申し込んでくる男達に3つの謎かけをして、それが解けなければ処刑という厳しい掟を設けていた。
あるとき、トゥーランドットの美しさに一目惚れしたカラフ王子がこれを見事解いてしまうが、心を固く閉ざしていた姫は、王子の求婚を受け入れなかった。そこで王子は姫に、明日の夜明けまでに自分の名前を当てるという謎かけを出した。
当てられたら王子は求婚を諦め、潔く死ぬが、当てられなければ姫は結婚を承諾しなければならない。
冷酷なトゥーランドットは国民に対し、王子の名を解き明かすまでは寝ることを禁じ、もし誰も解き明かせなかったら、国民を皆殺しにすると言った。
王子は一人、宮殿から月に照らされた庭に出たところで姫のお触れを聞く。ここでアリア『誰も寝てはならぬ』が彼によって歌われるのだ。
美しい旋律の中に織り込まれる切なさと哀しみが、美姫の胸に打ち響く。
なんていう壮絶な愛情の示し方なのだろう......自分の死を犠牲にしてでも、愛する女性を手に入れたい、だなんて。
怖ろしい、と思うのに、そこまで愛されるということにゾクゾクとした興奮を感じてしまう。
それは、王子の愛情がどこか秀一さんのものと通じている気がするからなのかもしれない......
演奏する秀一の美しい横顔を見つめながら、ふとそんな思いが美姫の胸を掠かすめた。
秀一のピアノ独奏のリハーサルは、滞りなく終了した。
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