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第四部 至高の奥園
48封は成りぬ③
しおりを挟む黒天馬の元へ戻り、幻嶺の手綱を取る。
ナシェルがしきりにため息をつく様子に気づいた冥王は、その理由を察したのであろう、ルゥについて意外なことを言いだした。
「まあまあそう腐るな。姫との絆がこれで断たれたわけではなかろう?」
「心の奥底で結びついているとでもおっしゃりたいんですか……? 会いに行くことはおろか、声も聞けなければ文のやりとりさえ出来ないんですよ……それも少なく見積もってもこの先軽く600年は……。
無理に元気づけてくれなくても結構です、かえって逆効果だし」
「文のやりとり? 姫と文通がしたいなら、あながち出来ぬでもないと思うがな」
「文通って……いえ、文通がしたいわけではないのですが……なにか連絡をとる方法が?」
「精霊を遣わせればよい」
冥王の気楽な提案はかえって、ナシェルに眉間の皺を深くさせるだけだった。
「……どうやって? 我々の精霊では天上界に昇ることはできない。辿りつく前に光の神司を喰らって死んでしまいますよ。そんなの無理です」
「いや、我々の精霊を使うのではない。むしろ彼女の精霊に頼むのだ」
「……はあ、何云ってるんですか。命の精などどこに、」
ナシェルは言い掛けて、そういえば疑似天にならいるかもしれない、と気づく。
……いやしかし、たとえ命の精たちが、女神不在のままあの場所に存在し得るとしてもだ。彼女らがナシェルの配下に入ることはありえないし、拝み倒しても言う事など聞いてくれるはずがない。命の精たちは死の神であるナシェルを敵対神と見なしているのだ。
「……いったい何がおっしゃりたいのか、意味がまったく分かりませんが」
「ふふん、今は然もあらん。だがじきに分かるよ」
冥王は意味深なひと言を最後に会話を切り上げた。己の馬の、なめし革で作られた鐙を引っ張って整え直し、ナシェルの幻嶺の鼻先を撫でて彼に道中の加護を与えた。
「さて、それではこの場で別れるとしよう」
別れ?
半身の突然の宣告に、ナシェルは我に返る。
そうだった。王は冥府へと戻り、己は領地へ……。
いつまでもふたりの時間を過ごしているわけにはいかない。
「…………」
黙り込むナシェルを、王はふわりと抱きよせ、唇を軽く啄ばむ。
「長々と引き留めて済まなかったね。暗黒界で皆が待ちわびているであろう……」
王の抱擁は、今や生絹の感触のごとくなめらかであった。
ナシェルは闇の腕のなかに安穏と擁かれて、沸き上がる寂寥をもはや押し殺すこともせず、別れの前の挨拶を王と懇ろに交わし合った。
王は口うつしに再びナシェルに闇の司を施した。それは生命の糧であり、陶酔の源であり、ほとんど奇蹟に近い痺れであった。
眩めきの中で、ナシェルは飢えたように首筋を逸らして王に縋り、唇ごしにわずかな施しを得て頬を喜色に染めた。
王は見計らったように、ナシェルが満足しきる一歩手前で身を離し、ナシェルの濡れた唇を指で拭う。
「ふふ、続きはまた後日……」
「後日と云われたって」
ナシェルは鼻を鳴らす。
「しばらく私は領地に籠りきりになりますよ。砦の復旧工事も先の見通しがまだ立ってないことだし、残務処理が一段落つくまでは……お相手してる暇なんか、」
相変わらずの生意気さでつんと顎を上げる態度の裏には『だから今のうちにもっと接吻しておけばいいのに』という分かりやすい反語的意味が含まれているのだ。
しかし、王もすげない振りを装って、
「ふむ、それもそうだな。仕方あるまい、暫くは領主業に精を出すことだ」
などと言い放ち、優雅に黒マントを翻すのであった。
気配が消えたと思うや一瞬ののちにはその姿は、闇嶺の鞍上に上がっている。
――そのつれなさが演技である証拠に、冥王の己を貫く眼差しの奥の、あの激しいまでの情炎を見よ。
……その眸にうかぶ狂おしき愛慕の色は、双神を呑みこもうとしていたあの大火山の溶岩などよりも、はるかに熱を帯びていた。
「ではな、ナシェルや。一区切りついたら、冥府へ顔を見せに参れよ」
ナシェルはもう照れ隠しに己を取り繕ったりはしない。瞳の蒼茫の奥に、溢れる想いを乗せて王を見つめ返した。
今、離れたばかりなのに、もうその腕のぬくもりが恋しい。
「ええ、必ず」
重なり合ったあとの唇の先には、ほんのりと冥王の闇の神司の名残りがある。
指の腹でそれを掬うように唇を撫でるナシェルの目の前で、冥界一の駻馬は王意を受けて大翼を拡げた。
「父上」
思わず、呼び止めずには居られなくなった。
闇嶺の腹を蹴りかけた王は足を留め、馬上からナシェルを見下ろす。
「…………愛しています、我が王」
王は『心得ておる』とばかりにふわりと微笑い、その姿はたちまち瘴気の雲を背にした一対の神馬の朧となって、冥漠たる闇の宙へと消えうせた。
(……意外とすんなり去ったな……)
己のほうが別れがたさに逡巡してしまった。思い出して気恥ずかしくなり、ナシェルはそそくさと幻嶺に跨る。
配下の死の精たちはそのころには、彼の黒マントの下よりまろまろと転び出でて、主を暗黒界の居城へと先導するために周囲に散った。こんな熱い世界からは一刻も早く遠ざかりたいのか、羽翅をばたつかせて主より先に飛び出す勢いだ。山の“意思”の前ではあんなに惧れをなしていたのに、この変わりようは何事なのだろう。
主神よ、早く還ろう、と急かす精霊たちにナシェルは苦笑混じりに呼びかける。
「お前たち、遅れぬようついて参れよ」
――神司が漲っていた。ことさら、重ねた唇に。
炎獄界に漂っていた精霊たちも、主神のあふれ出る司の気配を覚って集まり始めていた。
ナシェルは冥王が去った方向とは別の瘴気の宙めがけて、幻嶺の腹を蹴った。
羽撃き伸びあがった駿馬は、優美な尾を後ろに長くたなびかせて冥界の空を駆けはじめる。
剣の一閃さながらの速さで、王子の姿もまた闇の世界に融け消えた。
彼の向かう領地への行程には、おびただしい数の精霊たちが主神ナシェルのために両脇をあけて固め、
『卑しき魔獣どもは道をあけて控えよ! 常世の王子神が暗黒界へ御渡りになるぞ』
と声高に、その帰還を触れ廻っているのであった。
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