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第四部 至高の奥園
49連理の歌①
しおりを挟む――同じころ、暗黒界。
びゅうびゅうと、そして時には轟々と、獣の絶鳴にも似た峻風がこの洞窟世界を駆け抜けてゆく。
悠久の太古より吹き荒ぶ悲哀の風音は、この日も何ら変わることなくエレボス城を包含していた。
怪鳥が行き交う瘴気の宙の下、全き闇に押し包まれた城は、城内の魔族たちの喧噪に彩られていつにもまして活気づいている。
その城の上層階を歩む、ひとりの異彩の人物がある。
行き交う魔族の兵や騎士らは皆、すれ違いざまに一瞬その者の放つ雅な光彩に驚きの表情を浮かべるも、あわてて礼儀に則って目礼する。
その人物は、周囲の者ににこやかな会釈で応じつつ、先を急ぐ。長く後ろに流された銀髪が、さらさらと揺れて星砂のような燐光を放っていた。
ふわりと舞う清楚な残り香に、兵らは陶然としつつその後姿を見送る。
サリエルであった。
今では闇の瘴気に体の変調をきたすこともなくなっていた。顔色も頗る良い。
髪色だけは金から斑銀に変じて以降、戻ることはないが、それは彼の美を損なうといえるほどの変化ではない。むしろ天上界からこの冥界に舞い戻った彼は今や、昔のように、天上の神特有の澄みわたる清輝すら放っていた。
彼の気力の“源”と呼べるものが、胸元にて柔和な蒼色に光り耀いている。
魔族がついぞ袖を通すことのないような萌木色の衣を纏い、朗らかな表情で歩むサリエルの姿は、魔族らの拠城においては嫌でも目をひく。
もともと幼いルーシェの友人として、疑似天に奥ゆかしく暮らしていた彼であるから、エレボス城ではまだその存在が周知されていないのだ。行き交う者も初対面の者が多く、たいていはそのようにすれ違いざま驚かれる。
サリエルと行き交った者は皆、その姿が視界から消えると彼の美貌について「領主殿下とどちらが上か」などといささか不敬な噂の種にもするのだった。
――神々との戦からすでに二週が過ぎ、城内は徐々に平時の静穏を取り戻していた。
とはいえ、傷痍した兵や騎士は多くがまだ療養中である。看護にあたる者の手も足りない。城内は、無傷ですんだ者が分担して僚兵の看護にあたったり、半数は砦の復旧工事に出向いていったりと、騒乱の過ぎ去ったあとに見られる張りつめた活気に彩られていた。
そんな城内を、サリエルは洗いたての包帯類の入った籠を抱えて歩む。
楚々とした控え目な歩調ではあるが、足取りはとても軽やかだ。
―――愛する者を世話する喜びに包まれていた。
音楽的とさえいえる仕草で、とある一つの扉を叩く。中から間をおかずに返答があった。
入室したサリエルは、療養中のヴァニオンがベッドの縁に腰かけて今にも立ち上がろうと苦心している姿を目撃し、眼と口を丸くした。
「ヴァニオン様!」
籠を取り落としそうになりながらも寝台に駆け寄り、ヴァニオンの腕を支える。
「まだ寝ていなくては駄目ですよ……!」
ヴァニオンは足の傷がまだ癒えていないのだ。しかし彼はベッドに戻そうとするサリエルを優しく制しつつ、包帯の巻かれたほうの足を床に下ろしゆっくりと立ち上がる。
「おとなしく寝ているのは、もういい加減飽きた。少しは運動しないと体が鈍っちまうからな」
「そう仰られても……、医師様からは全治にあと一月ほどかかると云われているのでしょう?」
「医師ったって、診たのはあのファルクだぜ……。あいつの言う事なんぞ信用する気にはならねえよ」
毒づくヴァニオンだが、その問題の従兄弟の縫合の腕が確かだったことは云うまでもない。縫合箇所の痛みもすっかり消え、経過は良い。立ち上がることができるまでに回復したのも、ファルクの調合した薬やら何やらのおかげだ。
「部屋の中を歩くぐらいいいだろう、肩、貸してくれ」
「……無理はなさらないでくださいね」
サリエルは愁眉しながらもヴァニオンの脇を支えた。男の硬い筋肉が、サリエルの細い肩にはずしりと重い。
ヴァニオンはサリエルに介添えされて、慎重に室内を巡歩した。「いでで、」などと一歩ごとに顔を顰めているが、痛みの程度はさほど深刻ではなさそうだ。
サリエルは彼の体温と筋の動きとを体全体で感じながら、微笑む。
自分はつくづく数奇な身の上だと思う。
初めて冥界にきたときは、魔族との間に愛など、擁くはずがないと思っていた。
それなのに、天上界へのあの不本意な帰省を経て、今自分は再びヴァニオンの元へ戻ってきて、彼とこうして共にいる……。
自分からレオンに「もう一度あちら側に戻りたい」と告げたあの時……サリエルは本当の意味で過去と訣別できたといってもいい。ちっぽけな誇りやなけなしの虚栄も全て捨てて、真実心に芽生えた愛だけを糧に、天上の神族が生き抜くにはあまりに過酷なここ“冥界”という場所で、残りの短い生を生きる覚悟ができたのだ。
……そうした意味で、あの一件も「通るべき道」だったのだ、と思えるようになっていた。
なによりも、天王レオンに、自分から別れを告げることができた点が大きい。
天王こそがサリエルの、しがみつきたがっていた“過去”だったのだから。
(私は、もう囚われた頃のように、心を天上界に残したままにはしていない……)
わだかまりであった、レオンへの想いにけじめをつけることができ、肩の荷が下りた感があった。
むろんサリエルが再びここに戻れたのは、周囲の許容と慈悲があったからこそだ。
天王も冥王も、サリエルの悲愴な決意を承認してくれた。死ぬかもしれない闇の世界に、愛を貫きに戻りたいというサリエルの想いを、受け入れてそのように計らってくれた。
それだけで、もうサリエルは充分だったのに……、別れ際に女神ルゥがサリエルに託してくれたものは、あろうことか「瘴気で死ぬかもしれない」という懸念そのものを、無効化するほどの絶大な至宝であったのだ。
“癒しの司”を封じ込めた蒼い宝玉は、あれ以来ずっとサリエルの胸元にある。
サリエルを光の神司で包み込み、周囲から切り取るように彼を闇の気の悪影響から護ってくれているのだ……。
天上界での別れの際、多くは語らずただ、
「ヴァニオンとけんかしちゃだめよ」
と片目をつぶった女神ルーシェの……、全面的な後押しを、心の底からありがたく思う。
こみあげてきた幸せに、思わず頬を緩ませた。
「サリエル……お前何を笑ってるんだ。俺の歩き方、そんな変か?」
「いえ、そうじゃなくて……。私がヴァニオン様の介抱をするなんて、なんだか立場が逆になったなと思って。ふふ」
ヴァニオンも「確かにな」と笑った。そして、サリエルの肩に廻した腕にそっと力を込めた。
「サリエル……、俺の所に帰って来てくれるなんて、正直思いもしてなかった。天上界に連れ戻されて、もうそれきりだと思ってた。こうして俺たち二人、一緒にここにいるのが今でもなんだか不思議な感じがする。
だけど……ホントにこれでよかったのか?」
「はい。貴方と離れ離れになって、ようやく気がついたんです。出会った形はどうであれ、私が心から愛し、私を心の底から愛してくださる方は、貴方だけということ……。そして姫さまや殿下といった素晴らしい方々にも囲まれて、私はこの冥界で真実の幸福をすでに得ていたのだと。
私は永い間、『誰かが幸せにしてくれるのを待っている』消極的な自分でいました。けれど天上界で貴方を思い浮かべるたび、幸せとは自分で今一歩踏み出さねば得られないものなのだということを、つくづく思い知らされたのです。
だから自分からレオンさまに『冥界に戻りたい』と告げたんです。ここへ戻ることに躊躇いなど微塵もありませんでした。レオンさまに別れを告げることができて、むしろとてもすっきりしたんですよ」
「サリエル……」
「ヴァニオンさま。貴方と出会っていろんなことがあってから、私は……すごく精神的に強くなれた気がします。私を愛して下さって、ありがとうございました」
「……出会い方あんな最悪だったのに、お前にそういう風に言ってもらえるなんて……思ってなかったよ」
「もう、いいんです。過去のこと、天上界のこと、全て捨ててもう一度ここに戻ると決めたとき、また一から貴方と始めようって決めたんですから」
サリエルはヴァニオンの肩の下から顔を覗かせ、少し頬を赤らめた。
「……だからヴァニオンさま、早くお怪我を治してくださいね。そうしたら今度は私が貴方を、もっと幸せにして差し上げます」
ヴァニオンはそのいつになく力強い宣言に、一瞬驚いたように動きを止めたが、やがて彫りの深い端整な相貌に微笑みを浮かべ、サリエルをぐっと抱き寄せた。
二人は唇を重ね、時が恋人達の間だけ止まったように、静かに流れていった。
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