泉界のアリア

佐宗

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第四部 至高の奥園

36擾乱②

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 ……この夕餉の席における騒動の有様について、ことの仔細を記すのはいささか無粋というものであろうから、軽く顛末に触れるのみにとどめておく。

 幸いなことに、その場に居合わせた給仕役らは危険を察し一早く退出したので、怪我人だけは出ずに済んだ。

 侍官らが盆などで身を隠しながら廊下の端から窺っている間じゅう、夕餉の間からは王子の叫喚や罵倒、暴れる音などがしばらく聴こえていた。

  ……ほとぼりが冷めたと思われる頃、給仕役らが夕餉の間を覗いてみると王子の姿はすでになく、蹴散らかされた調度品類のなかで王の周囲だけが切り取られたように静穏を保っていた。
 王が咄嗟に張った結界のおかげか、王の食器類はなにひとつ乱れておらず、燭台の蝋燭も転倒を免れていた。

 冥王は食後の茶の入った椀を廻して、椀の中のさざなみを見下ろしながら僅かに嘆息しただけだった。
「まあ想定の範囲内ではあるがな……」
 独りごちる冥王の背後には、王子が投げつけたと思しき夥しいフォークやナイフ類が、ぶすぶすと壁に刺さったままになっていた。

「仕方ない。いくら説得されても感情として、すんなり肯けぬ気持ちは分かる」
 セダルは己の判断の正当性には自信を持っている。王意を曲げることはありえぬ。ナシェルが落ち着いて頭を冷やし、その判断を受け入れる時を待つのみだ。

 王は椀の中に映る己へ向けて言葉を落とす。そこにおらぬ半身に、鏡越しに呼びかけるように。

「余を非情と謗ることでそなたの気持ちが晴れるならば、いかようにも謗るがよい。
 だがそなたは心の奥では、余の説明の意味をちゃんと理解しているだろう。
 そなたは強情な子だが、愚かな分からず屋ではないのだからな……」

 王は、ナシェルがいつまでもうわべの事象だけに拘ってはいないだろうと予見していた。

 ルゥが天上界で様々なほかの神と触れ合いながら学び、育つこと……、それがまだ幼いルゥにとって大きな利になることは自明なのだ。ナシェルは幼少時にそれができなかった分、より一層それを弁えているはずであった。

 ただ彼は頭で理解しつつも心で認めたくないだけなのだ。
 ルゥはナシェルにとって、本当にかけがえのない存在なのだから。

(衝撃も無理からぬこと。今はそっとしておく方が良い……)

 冥王はそうして穏やかに独り、しばらく椀を揺らしていた。





 一方ナシェルのほうは、王が察した通り「頭で理解することと心で納得することは全く別物である」という葛藤に、苦しめられていた。

しるべは余とセファニアがおおかた立ててやった。
 あとはそなたとルゥがその道を均し、次の世代に受け継がせてゆけ』

 冥王は、ナシェルに確かにそう言ったはずだった。まさかその舌の根も乾かぬうちに、肝心のルーシェを天上界に残して来るなどと。

 自室に籠ったナシェルは、何とかわき上がる憤激と悲しみを鎮めようとしていた。
 夕餉の間で聞かされた、父の説得を反芻した。
 王は真剣な面持ちで、その根底にある事情をナシェルに告げたのだった。


『彼女はまだ未熟だ。神司の大きさこそ今や女神のなかでは最上位級だが、まだ有り余る司を制御する術を持たぬ。ましてやセファニアの記憶を取り戻し、内なる膨大な神司を一気に開花させたことは、彼女の小さな体にはおよそ計り知れぬ負担であろう。
 そんな不安定な状態にある成長期の彼女が、属性の異なるこの冥界で、あの小さな花園に閉じ籠るように暮らすのは不健康極まりないとは思わぬか。
 無論、そなたの言いたいことは分かっておる。彼女は瘴気から身を守るすべを心得ているのだから、狭い疑似天アルカシェルのみを己の住家とする必要はそもそもないのだと云いたいのであろう?

 ……だが彼女が仮にあの疑似天を出て、冥王宮ここ暗黒界エレボスで暮らすとするならば、彼女はつねに瘴気から身を護るための小結界を体の周囲に維持せねばならぬ。疑似天アルカシェルの半永続型の結界とはまた別の形のものだ。癒しの力を使って体内の穢れを払うといった手間も必要になろう。そうしたものが、まだ幼い彼女の成長を妨げる負担になるぐらいならば……と余は考えたのだよ。

 そしてルーシェもまた天上界に行ったことで、己の成長に好条件の世界があることを、身をもってってしまった……。
 ならばこの際、成長期が終わるまでは彼女を天上界に預け、色々と学ばせた方が良い。あちらの世界には彼女が操ることのできる精霊が数多存在し、彼女の成長を阻む障害もないのだからな。
 大丈夫……これは成長期が終るまでの当面の措置だ。あの子にはいずれ冥界で果たすべき大いなる役割があるのだから』

 王の説明は確かにナシェルを納得させるに足るものだった。
 だが、どれだけ懇切な言葉で説得されても、すんなりとは受け入れがたいのも確か。

 冥王が、ナシェルの分かち難い精神的な寄辺よるべであるというのと同じ比重で、幼い女神はナシェルの魂を安んじるもうひとつの大きな支柱だった。

 疑似天にあって幸せな日々を過ごしていたときも、天上界に囚われていたときも彼女は明るく朗らかにナシェルを癒してくれた。まだ周囲に庇護されるべき小さな存在でありながら、その穢れなき母ゆずりの魂は、ナシェルを包む柔らかな被膜のような、優しい存在でもあるのだ。




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