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第四部 至高の奥園
35擾乱①
しおりを挟む……話題を変えようと思い、ナシェルは今一つの気がかりを口にした。
「暗黒界に戻る前に疑似天に立ち寄らなければ。
ルゥやサリエルがどうしているか心配です」
「―――ルゥ?」
姫の名を聞くなり冥王の、杯を回す手がぴたりと止まる。
王は、いつもの泰然自若とした王らしからぬ微妙な表情で、重大な事実をナシェルに告げた。
まことの衝撃はこの直後、脳天を劈く勢いでナシェルの頭上に、落ちてきた。
「―――――は…………?」
穴のあくほどに冥王を見つめ、ナシェルは同じ問いを繰り返した。
「もう一度、おっしゃってください。今、なんと……?」
「だから、ルゥは疑似天にはおらぬ、と云っておる」
「では……では姫は今、いずこに」
「天上界だ」
「―――――は…………ッ!?」
室温が零下まで一気に下がる。
素っ頓狂な声を発し、ナシェルは背もたれに背中をぴたりとくっつけたまま、硬直した。
この数日というもの冥王にさまざま振り回されたり衝撃を与えられたりしているが、とりわけこれは極めつけだった。
「な―――、なン、な、何故……ッ!?」
ナシェルは帰ってからの数日、彼らのことを失念していたわけではない。冥王のあの話の流れから、てっきり一緒に無事に帰還し、疑似天に着いているものと思いこんでいたのだ。
せっかく王との関係が雪解けしたばかりだというのに、閨の中でルーシェルーシェと云うのは無粋だし、王が拗ねるだろうと思い、話題にするのを避けていた。
「姫はまだ人質に取られているということですか! 奴らの手から取り戻すことができなかったのですか!?」
冥王は一瞬頷きかけた。ナシェルの怒りの矛先を逸らすという意味においては、彼女が人質として残ったことにしておくのが一番『無難』な理由なのだが、そうするとナシェルは恐らく「取り戻しに行く」といって聞かないだろう……。
そこで冥王は首を振った。
「いや……そうではない。残ったのは姫の意思だ。彼女が『居心地が良いからしばらく残りたい』と申すのでな」
「―――はああぁっ?!」
ナシェルは頭から爪先までぶるぶる震えはじめた。
全身に生汗が浮かぶのを自覚しつつ、口をぱくぱくさせ、なんとか問い返す。
「の、残りたい!? 姫が!? う、嘘でしょう!」
「本当だよ。疑似天よりも広いから過ごしやすい、などと言ってな」
「それで貴方はそれを真に受けて彼女を向こうに置いてきたというのですか!?」
「落ち着けナシェル……。椅子に座れ」
「落ち着いてなどいられるか! どうするつもりなんだ!? 何でそんな酷いことができるんだ貴方は! ……彼女が自分の本当の娘じゃないからか!?」
「何を言っておる。そなたもルゥも、大切な余の子供だよ」
「何をちゃっかりと!……あの子は貴方の子じゃない、私の娘です! いや、そういうことじゃなく」
ナシェルは一度置いたフォークを無意識に握り締めていた。
「だいたい貴方はこの世界の将来について周到に考えておられたのではないんですか!?
混血種の彼女がいなければ冥界に将来はないとか私たちに後を任せるようなことを私に散々言い含めておきながら、なんで肝心のルゥを置いてくる?!
あの子が天上界に奪われてしまったら、本末転倒ではないですか!」
「……まだ成長期の彼女のためにはあの狭い疑似天などよりも、あのまま天上界でのびのびさせてやったほうが良いと判断したのだよ。成長期の間はな」
「天上界で、のびのび!? できるはずない! とんでもない連中ばかりなのに! 異端の神の血を引くとか何かで忌まれ、疎まれ、貴方がかつて味わったような蔑視を受けるに決まっています」
ナシェルは天上界でのルゥの様子を思い出していた。いじめられたといって、顔に傷を作っていたような。(実際にはルゥは同世代の少女神たちに冥王の悪口を言われてキレ、ケンカして勝利した栄誉の負傷なのだからこれはナシェルの一方的な事実誤認だ)
「いや……実際のびのびしておるように見えたがな……。まあ、あの天王とも対等に渡り合っておったし、大丈夫だろう」
ルゥが天王との論争時に割って入り、天王をばっさり両断したときのことを冥王は思い出していた。当然ながら昏睡していたナシェルはそれを見ていない。
「なにを根拠に大丈夫などと!? こんなことしている場合じゃない、とにかく一刻も早く取り戻しに行かなければ!」
「取り戻しに行く必要などないよ。残るのは彼女の意思だと云ったであろう。留学するだけだから心配するなと言われたよ。とりあえずは天上界の神位表で頂点を目指すとか何とか言っていたな。
……それに彼女は自分の役目についてはきちんと理解しておる。『その時』が来たら帰ると、ちゃんと余に約束した」
「や、約束って……相手は幼児ですよ!? まともに取りあうほうがどうかしている」
「忘れたのか。彼女は見た目は幼いがセファニアでもあるのだよ。記憶が融合している今となっては、そなたよりよほど歳上といってもいいぐらいに成熟している」
「……で、では『その時』とは一体、いつのことですか」
「さあ。はっきり約したわけではないが、ざっと600年か700年後ぐらいであろうなぁ……」
600年か、700年。
ブツッ……
なにかが焼き切れる音を、確かに体の深い部分で聴いた気がした。
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