泉界のアリア

佐宗

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第四部 至高の奥園

34甘睡③

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「いつまでも病人ではないのだから、食事を摂る時くらいは夕餉の間に降りて参れ」と冥王に言われ、食事を部屋に運ばせるのをやめて内殿に降りた。
 広い卓に差し向かいで食事をとりながら、ナシェルは王に「明日にでも暗黒界へ戻りたい」旨を明らかにした。

 暗黒界エレボスでは臣たちが帰りを待っているはずだ。崩壊したふたつの砦の復旧工事に追われているアシュレイドらにも早く顔を見せて安心させてやらねばならない。

 静養中にアシュレイドとやりとりした何通かの文で、一応向こうの状況は把握しているのだが、多くの同胞を失った部下たちのことが、気がかりのひとつでもあった。

「実はもうすでに精霊たちに頼んで、幻嶺セルシオンをこちらへ寄越すように手配してあるのです。明日には幻嶺が迎えにくるでしょう。というわけで父上、その節はお世話になりました」

 王の神司である意味『お腹がいっぱいな』状態のナシェルは、そのようにさらりと暇乞いした。
 冥王の紅玉の眼差しがその瞬間、テーブルに置かれた複数の燭台を飛び越え、真っ直ぐにナシェルを穿つ。

「何が世話になった、だ。……誰がそのようなことを許すと思う?」

 ……ん?
 思いがけない王の反応に、ナシェルはフォ-クを動かす手を休め、首を傾いで王を見た。
 冥王は視線を皿に戻し、角鹿肉を口に運びながら一界の統治者として非情な宣告を下した。

「そなたの領地なんぞは、没収だ」
「…………え…………」
「当たり前であろう、かの地を襲った厄災も全て元凶は、そなたが領地を空けたことに起因しておるのだぞ。
 何のために余がそなたを暗黒界の領主に据えていたと思う? すべてあのような事態を未然に防ぐため。異種の侵入を防ぐための牽制であろうが。
 そなたがちゃんと暗黒界にありさえすれば、天上界の連中は三途の河ステュクスを越えた瞬間に、近くにある強大な神司に気づいて、それ以上の侵入を諦めていたことであろう。

 あの三連砦の戦いで多くの兵が失われ、砦も二つが破壊される結果となった。そなたはそれに対し領主として、どう責任をとるつもりであったのだ」
「うっ………」

 厳しい叱責を受けナシェルは居ずまいを正す。通常の政務に戻った冥王がとうに恋人モードではないことには気づいていたが、まさか次に来るのが説教モードとは。
 反論の余地がないが、このまま黙って没収されるわけにもいかない。

「本気でおっしゃっておられるのですか、父上。
 たしかに私には、領地を空けたことで結果的に多くの兵を失った責任があります。ですが領主の地位を降りることが正しい責任の取り方だとは思えませぬ。これからの行いで償うべきだと思っております。
 仮に、私が領主の座をいま降りたとして、ほかの誰にあの地を治めさせると父上はおっしゃいますか」
「他の誰に、だと? そうさな、奮迅の働きで三号砦を死守したアシュレイド将軍に、勲功として爵位を授け、かの地の領主を務めさせるのも良いと思う」

 王はすげなく言い放ち、杯をあおった。甘い官能の夜々とは比べもつかぬ表情であった。
 こうした冷徹な側面もまた冥王の支配者としての本質なのだ。

 ナシェルの指からフォークが離れ、拳が結ばれる。

「……冥界公爵位以下の者が領主になるなど、前代未聞です!」
「公爵以下の者が領主になってはならぬと、誰がいつ決めた?
 慣例などに意味はない。すべて、決めるのは余なのだからな。
 そもそもそなたはフラフラといつも留守がちだし、今とて実質あの者が暗黒界を治めているようなものであろうが」
「いやいや、そんな……! だ、だって」

 冥王が本気であることに気づいたナシェルの口からは、思わず子供じみた逆説の接続詞が飛び出す。

「暗黒界に神族が常駐していることがそれ即ち天上界アルカディアへの牽制になるのだと、今その口でおっしゃったではありませんか! 神司を持つ者、つまりこの私でなければ暗黒界の領主は務まらぬと、そういうことでしょう!?」
「天王とは別れ際に、不可侵の誓約を互いに再確認してきた。今後、まあ先々数百年ぐらいは、天上界との間に戦はありえぬ。つまり天上界からの攻撃に備える必要などもないわけだ」
「そんな話、私は聞いておりませぬ!」
「余はちゃんと天上界で為すべきことは為してきたのだよ。そなたが光の神司を食らって伸びている間にな。
 ……そうなるとそなたがかの暗黒界に居座らねばならぬ理由も、もうないということになる……」
「……ではこれから私はどうなるのです。何をすれば?」
「別に何もする必要はない。今と変わりはせぬ。単なる世継に戻り、この王宮で余と暮らそうではないか」

「……は!?」

 冥王のこの発言に、ナシェルははたと思い至るものがあった。

『やっぱり領地など与えねばよかった。没収してしまおうかな。そうすればまたこの城で余と仲良う暮らせるではないか』
 セファニアの存命中から口癖のように聞かされてきた父の台詞である。その言葉を実行するのに自分は格好の材料を与えてしまったのだ。

「む、無理ですそんなの!」
 今さら父の愛玩物に逆戻りし、怠惰な暮らしをしろというのか。暇すぎて死んでしまう。

「そう申すなら、そなたもこれからは冥王を名乗り、余とともにこの冥界全土を統轄いたすがよい。
  手始めに、魂の審判も交代制にしよう。冥王がふたりとなれば天上界の連中もさぞかし驚くであろうな」
「余計に無理です! 天上界うんぬんよりもまず臣たちが混乱するでしょうが。
 そんなことをおっしゃって、本当はご自分の負担を減らしたいというお考えなのでは!?」

「都合よく詮索するのは自由だが、そなたも自分の状態を自分でも分かっておるだろう?
 余にできることでそなたにできぬことはもはやない。ほとんど空っぽだったそなたに、余の司を半分分け与えたことで、我らは以前よりはるかに、ほぼ同質のものとなり得たのだからな」

「…………」
 同質のものだというならば、なぜこうも展開が読めぬのだ。
 怖ましい沈黙が漂う。
「父上……」

 眩暈めまいで視界がぐるぐる廻り始めた。ナシェルは額を押さえながら精一杯下手したてに出た。

「……どうか私に挽回の機会をお与えください。もう領地を長期間空けるような失態は犯しません」
「言うは易し、だな」
「嘘ではありません!」
「どうかなぁ」
「父上!」

 顔面蒼白で席を立ちかけたナシェルを、王は不意に苦笑まじりに制した。

「ふふふ……まあ、そなたがこれに懲りてこれからは領主業を疎かにせぬというのであれば、余も再考せぬでもないよ……」
「で、では?」
「そなたのことだ。動き回れるようになったら、早速『暗黒界へ帰る』と言い出すと思っておったよ。
 『まだ早い』などと止めても無駄であろう? 没収とでも言わねば収まるまいと思ったが……」

 冥王は葡萄酒の杯を燻らせ、にやりとしてみせる。
「それほど己が城へ帰りたくば、そなたの好きにするがよい……。ただし『行動で責任を示す』と自分で約束したこと、忘れるでないぞ」

 いちいち余のいうことを真に受けるな、とでも言いたげな様子だ。
 そのけろりとした表情からすると、半分は冗談のつもりだったらしい。

 嵌められた……!?
 頬が紅潮する。

「……悪趣味な御方だ! 笑えない冗談は止してくださいッ」
 憤然と坐り直しながらも、内心胸を撫で降ろす。領地没収は本気で洒落にならぬ。

「そなたが帰る前に釘を差しておかねばと思ったのだよ、死の影の王シャフティエル。冗談で言ったのではない」
「だからとて、そのように脅さずとも! 肝が冷えるとはこのことです」
「済まぬ済まぬ。……そなたが帰ると淋しくなるのだよ。引き留めたい余の気持ちも汲んでおくれ」

 冥王は少々寂しげに杯を揺らした。
 それはナシェルとてむろん、同感であった。


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