泉界のアリア

佐宗

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第三部 天 獄

31焦燥①

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 そのとき、常闇の邦を覆い尽くした、凛然たる白光――。

 暗黒界の砦を守っていた魔族たちは、彼らの生において初めて目にしたその光景を……神々の恐ろしくも典雅な姿を、後々脳裏に刻むことになる。
 忘れ去ろうとしても決して忘れ得ることのない、悪夢として。

 魔族どもの巣窟を踏み躙らんと、三途の河を渡り冥界に侵入してきた神々は、その非情な手で、世にも輝かしい白の紗幕を引く。

 神々の姿はそれぞれ異なっていたが、みな一様に若く、髪の色は豊かな金、白い甲冑を纏い、狩りを楽しむ猟師のように顔には笑みすら浮かんでいた。

 アシュレイドが不安視したとおり、数十基あった投擲器による攻撃も、縦横に宙を駆ける白天馬に軽々と避けられ、まるで効果はない。弩手たちの弓矢も神々の圧倒的神司の前に、たやすく弾き返されてしまった。

 闇をはじく光の天蓋の中で繰り広げられた、戦いというにはあまりに一方的といえる殺戮と蹂躙の中、魔族たちは身分の上下に関わりなく命を賭して己らの国を護らんと奮い合い、神々へ悲壮なる刃を向けた。

 彼らの背後にあるのは闇だけではない……あるのは、死者たちに冥府への導きを与えるエレボス城、そして荘厳さに満ちた、喧噪と背徳の冥府――そして数多あまたの小世界。
 そこに生きる何百万という魔族の、同朋たち、家族たちなのだ。

 護らねばならぬ。これより先に行かせてはならぬ!

 爆風を伴って襲いかかる光の帯に、一瞬にして弾き飛ばされても、神々の、身の丈の数倍はあろうかという長槍に数十人がもろともに薙ぎ倒されても、魔族らの戦意は損われることなく、猛猛しき瞋恚しんいとなって発される。

 彼らの士気の源は、同朋たちへの想いだけではない。
 彼らの鼓膜には、戦歌が聞こえていた。それははじめどこからともなく起こり始め、次第に大きくなり、やがて大気を打つつちのような轟きとなりつつある。

 闇と死の精霊たちの、主神を賛美する歌が、鮮血に彩られた戦場に汪汪と響き渡るのだった。
 高く高く誇らかに、低く低く憤激に満ちた歌声であった。

 精霊たちの自信に充ち溢れた戦姿に、沖天を翔ける黒翼騎士らも砦の兵らも、腹の底から鼓舞されて踏みとどまり、希望を捨てずに剣を振いつづけるのだった。

 だが、種族の間に立ちはだかる優劣は歴然としている。
 アシュレイドの目の前で、数百の黒騎士たちが、たった十騎の神を前に次々と斃れていく。

 神々は残酷なまでの優雅さで鋒を槍を振るっていた。宛ら白天馬に跨る舞い手のように。
 不思議な光でもって彼らの目を晦まし、その白刃でもって黒騎士たちの首をいともあっさりと、雑草でも刈るように刎ねて回るのだ。

「怯むな、持ち堪えよ! 数刻持ちこたえれば、殿下が来てくださる! もうしばらくの辛抱だ!」
 アシュレイドは朗々と腹から声を響かせた。鼓舞を受けた騎士らがなおも威勢を漲らせて神々に踊りかかっていく。

(殿下、なにをしておいでなのだ! 貴方の兵が……陛下から預かりしこの地が、今際のきわに瀕しているというのに!)
 このときにはすでに主君の身が異界へと運び去られていたなどとは、アシュレイドは露も知らぬ。


 戦場を翔ける彼の前にも、一頭の白天馬が顕われた。アシュレイドが対峙しようとすると、
「閣下、危険です、お下がりください!」
 将軍を護るため前に躍り出た騎馬がある。剣を帯びた年若の騎士であった。まだ表情にあどけなさが残っているところからすると、年の頃はイスマイルと同じ位だろう。
「馬鹿者、私を護っている場合か、己の闘いに集中しろ!」

 しかしアシュレイドを庇うように白き神に挑みかかった若騎士は、次の瞬間には、彼の目の前で血飛沫を上げながら首と胴に分かたれている。
 光条のなかに舞う紅い帯のような鮮血。惨劇に瞠目するアシュレイドの前で、乗り手を失った黒天馬が狂騒の嘶きを上げて暴れ、あらぬ方へ翔け出して行った。
 黒翼騎士はひとりの例外なく無双の精鋭。まだ年若とはいえその黒騎士を一撃に仕留めた鞍上の美麗な男神は、次にアシュレイドに目をとめ、唇に笑みを奔らせる。

 おそらくアシュレイドの荘重な甲冑や肩飾を目にして、彼を大将と認めたのであろう。男神は手にした矛を斜に構え、あぶみに置く足に力を込めようとしている。
「来い!」
 アシュレイドもおのが長槍を水平に脇に交い、怒号とともに鐙を蹴った。
「通しはせぬ!我が命に代えても――!!」



 神の切っ先から、尖光が迸った。
 斬撃を受け止め得たのは、奇蹟に違いあるまい。アシュレイドは受け流し、馬ごと飛び退りながら己の運の剛さに驚いた。
 すぐに第二撃が来る。矛先が目前に迫る。アシュレイドはまたも奇蹟的に槍の柄で弾いた。

(神の動きが、見える……!?)

 ――それは奇蹟などではなかった。
 黒々とした霧のように宙空を舞って戦歌を輪唱していた闇の精たちが、何の助力を得たのか今では猛然と力を増しはじめ、神々の光の輝きを突如圧倒しはじめたのだ。
 徐々に、神々の光が、闇に覆い尽くされていく。

(闇の精霊たちが……神々と互角に渡り合っている……!?)

 白天馬の神々は一様に、おのれの神司が弾き返されはじめたのを不審がり、その表情には僅かに戸惑いが浮かぶ。そのときには彼ら各々のはべらす精霊たちも、好戦的な死の精たちによって次々と耗滅されかかっていた。
 その隙をアシュレイドは見逃さず、目の前の神に躍りかかる。

「非情なる神よ、滅し給え!」

 全身の力を槍もつ腕の一点に集中させ、長槍を突き込んだ。
 目の前の神がアシュレイドの長槍を矛で受け止める。だがその動きは明らかに先刻よりも鈍っていた。この地の精霊たちの怒りが黒き濁流となって、彼らの動きを鈍らせているのだ。

 圧倒的な数となった精霊たちに押され、神の斬撃から先ほどまでの勇猛さは既に失せている。

 アシュレイドは長槍を一回転させなおも突きを放った。神がそれを受け止めるのを承知で、矛先におのれの槍を食ませ、強く往なすと、交わしあった矛先に引きずられるように神が躯の均衡を崩す。
 瞬間、アシュレイドの腰元に鋭利な光が奔った。

(精霊たちよ、私に力を貸してくれ!)

 槍から右手を離し腰の佩剣に手をやったアシュレイドは、その剣を抜きざま斜めに跳ね上げた。
 黒金の煌めきを神が目に入れた瞬間には、抜かれた剣が、その喉元を横に切り裂いている。
 驚愕に眼を見開いたまま、名も知らぬ男神は、血を――魔族や人間と同じ赤い血を――噴き上げながら、ゆっくりと天馬の背から落下していった。

 アシュレイドは肩で息をしつつ茫然とそれを見つめていた。
(殺ったのか、私は……?)
 成し遂げたことへの畏怖が、急に脳裏の思考を奪う。残忍な侵略者と敬うべき上位種族というものが、どうしても一線で結びつかないのだ。
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