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第三部 天 獄
30血煙に霞む②
しおりを挟むはっと彼方に視線を遣れば、よろよろと心許ない曲線を描きながら飛来する一騎の黒天馬が見えた。
騎手は鞍上に凭れ落ちるようにしてがっくりとうな垂れ、傾いだ頭が振り子のように右に左に揺れている。馬自身も、羽撃きから鋭さが失われ、真っ直ぐ翔ることができないのか大きく蛇行して、城崖の端付近に着地するとみえた。
「伝令か!?」
アシュレイドは犇めく兵等を押しのけるように、着地点に向け砦の上を走った。
遠目ですら、騎手も馬もかなりの深手を負っていると判る。よくあの距離をこの翼で……と、見る者を絶句させるほど。
羽の抜け落ちた翼を何とか掻いて主を運び終えた馬は、砦の上にどうと倒れ込むように着地した直後、沫を吹いて絶命した。
「しっかりしろ!おい!大丈夫か!」
手綱を己の腕に結びつけるようにしていたため落馬を逃れた騎士は、駆け寄った同僚や兵らによって死んだ馬から引き剥がされ、抱き起こされた。
「こ…、ここは……」
「三号砦だ! もう大丈夫だぞ、すぐ手当てしてやるからな!」
「衛生兵! 衛生兵はいるか!」
怒号が飛び交う中アシュレイドは、人山を掻きわけ駆け寄って気づいた。この怪我ではもう駄目だ、と。
騎士の腹部は、至近距離で大鉈でも振るわれたかのように甲冑ごとぱっくりと割れていた。そして、剣を抜くべき右腕は肩から先が欠落し、所属を示す徽章さえ見当たらない。
「あ、あ……静鳴…静鳴…死んだのか……?」
黒翼騎士が命の次に愛するのは馬である。己も死に瀕しながら、翼ある相棒の名を譫言に口走る彼の壮絶な姿に、その場にいる誰もが絶句し涙を堪えた。
アシュレイドには、しかし悲壮ぶっている暇はない。意識を飛ばしかける彼の両頬を叩き、声をぶつける。
「所属はどこだ、二号砦か! 戦況を報告しろ! 砦はどうなっている!?」
「……二号、です…、…もう……敵、が…」
何かを云いかけ、口を開閉させる騎士の、黒い双眸が急速に白濁ってゆく。
「…、…」
ここまで生きて辿り着いたこと、それのみで充分奇蹟足りえただろう。
己を見つめながら絶息した者を、アシュレイドはなおも現世に繋ぎとめようと頬を叩き続けた。
「砦は落ちたのか! まだ戦っているか!? 答えろ!」
返ってくるのは沈黙ばかり。彼を抱き支える同僚騎士の手が、ずしりと増した哀しい重みに思わず震えた。
なるほど。もはや、ここがまさに最後の砦なのであろう。自明であった。
アシュレイドはまだ温みのある頬から両手を引き剥がし、血だまりから膝を起こして立ち上がった。
―――死戦になる。
それも明らかだ。
アシュレイドは生まれてこのかた一度も目にしたことの無い光景を、それから次々に目に入れることになる。
手始めが、そのとき差し込んできた数筋の、(地上界に生きる者であれば)夜明けの光明とでも譬うべき光であった。
アシュレイドは至極冷静な声色で、砦上の兵らに命令を下した。
「射撃、投擲用意! 槍兵構え、突撃に備えよ! 歩兵は抜剣しつつ待機。騎兵は前へ!」
そして自らも黒天馬の背に跨り、長槍を脇に交い込んだ。
(――畜生。ひとりも生かして帰すものか!)
大事な部下を今まさに万単位で奪われているのだ。得体のしれぬ白い神々への憤怒が胸中にみなぎる。
いっそ怒りの赴くまま、魔獣のように野蛮に獰猛に、我を失せられればいいのだが。
冷静さを失えぬ己の立場が、恨めしかった。
「来るぞ!!」
黒翼騎士の中から雄叫びが上がる。
一筋二筋と増えつづけていた、見たこともない眩い光の帯がやがて、彼らの前方で煌く白の紗幕のように、闇の全てを覆い尽くしはじめる。
砦壁上の彼らの影が、背後に長くくっきりと、急峻な山のように伸びた。
「将軍閣下! ご命令を!」
影を引きずる投擲兵から焦りの声が挙がるのをアシュレイドは制する。
「未だだ! 相手の姿が見えてからだ」
投擲器の威力は凄まじいが一度投じてしまえば2投目までに時間がかかる。全騎に突入して来られた場合、下手をすれば投擲の機会は一度きりになるだろう。
いやそもそも、圧倒的な神の力を前に、投擲器など通用するのか?
「眼を護れ!光でやられるぞ!」
片腕を挙げて眼を保護しながら彼は叫んだ。
常夜の国を覆いつくす光は、絶望的な神秘の波濤となってその瞬間、砦の上に打ち寄せた。
浩々と溢れ、その場の全てを埋め尽くさんとする光芒の中、目を瞬かせたアシュレイドは振り仰ぎ、見た。
この澱んだ洞窟世界をおびやかす者らの姿を。
雪の如き白羽を舞わせ、目映き光の加護を受けて突撃してくる、残酷なまでに美しい騎馬らを。
卑怯な白の耀きをもって、彼ら魔族の愛する黒き邦を打ち果さんとする神々の姿を。
「今だ! 撃て!!」
号令を下し、鐙を蹴る。アシュレイドの黒天馬は舞い上がり、白光の中の黒い帯筋となった。
「騎士団は私に続け!」
応えた黒天馬が次々と宙空に舞い上がる。
――光を押し戻せ! 奮い立て! ここは冥王の美国ぞ、あの者等の胸魂に闇の杭を打ち立てよ!
集結し、圧倒的な数となりつつある死と闇の精霊たち。高らかに昏黒を賛美するその戦唄に呼応して、黒翼騎士らは暴風の如き雄雄しさをもって神々の懐に飛び込んでいった。
果たしてそれは神々にとっては、魔を払拭するための聖戦であったのか。
……何をして正義と云うのか?
光とは聖か? 闇とは邪か。
たちまち嵐に包まれた戦場において、迎え撃つ何者の中にも、その疑問を内に呈する者はおらぬ。
何をも思考する猶予は与えられなかった。
ただ動じることなく神々の聖剣が運ぶ白き閃光、まばゆい殺戮の中に、身を投じていくのみであった。
***
そのころ、精霊らの先導で暗黒界へと早駆けする冥王セダルは、気狂いするほどの葛藤の只中にある。
己の分身であるナシェルに譲っていたはずの、冥界のおよそ半数にも及ぶ精霊たちが、今は己の傘下に入り、己の意を汲んで暗黒界へと集まっている。
ナシェルが生まれてよりこのかた初めて味わう感覚であった。
(王子の精霊のほぼ全てが、余の配下となりつつある……。
譲ったはずの神司が徐々に戻ってきている!)
そのことが冥王を焦らせていた。
(地上界へ出たぐらいであれの持っていた神司が余の元へ戻ってくるはずがない。あれは以前にも地上界へ出たことがあるが、その時とて、こんな感覚はなかった。
ならば……考えられる可能性は二つに一つ。
――もはや消滅したか。
――天上界へ連れ去られたか。
急速に気が萎んだことからすると、その両方かもしれぬ)
冥王は唇を噛みしめる。
暗黒界から吹き込む豪風が、先を急ぐ彼の頬を容赦なく叩く。
闇嶺を叱咤し嵐を起こす勢いで暗黒の窟門を飛翔しつつ、王は心の裡にある大きな、灼けつくような矛盾に、気付いている。
万が一、世継ぎナシェルが消滅したとするならば、余がこの泉下の国を頑として守り通すことに一体なんの意味があるのか?
もしそれが現実ならばもう、三界などになんの未練もないのに!
……それでも統治者として常に冷静な自己がいて、王馬を全速力で三連砦の方角へ向かわせているのだ。
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……否、急速にそなたの神司が戻ってきてはいるが、まだ全てではない。
そなたは必ず生きている!
吾子よ、絶対に消滅してはならぬ。余を置いて創世界へ逝くなど許さぬ。
かならず余がそなたを救う。もう一度繋ぎとめてみせる!
愛しいナシェル。
この腕に取り戻す時まで、何があろうと余のみを信じよ。余を呼び続けよ……)
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