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第一部 血族
23寵愛と枷①
しおりを挟む王妃の葬送の儀など一連の蕭やかな行事を終えたナシェルは、暗黒界に戻り、普段の政務に戻っていた。
彼にはセファニアの死をいつまでも嘆き悲しんでいる暇はなかった。
というよりも寧ろ、心の空虚感を埋めるため、ことさら忙しく振舞っていたという部分のほうが大きい。
父・冥王は服喪していたとはいえ征服中の氷獣界をこれ以上空けるわけにはいかず、王妃が遺していった忘れ形見の赤子ルーシェルミアとの対面もそこそこに、再び魔族の精鋭軍を率いて前線へと戻っていった。
ナシェルは必然的に王女を押し付けられる形となり、生まれてすぐ母をなくした赤子のために、まず最優先で乳母の手配をしてやらねばならなかった。
無論セフィは何も用意していなかったわけではない。自分の死期を予感して、周囲の者に侍女や乳母の手筈を整えさせてから逝ったのだが、生まれた王女は乳母が気に入らないのか、それとも魔族の乳など不味くて飲めぬということなのか、含むや否や小さな口でぶうっと乳を吐き、周囲の者を当惑させたのだ。
何人かの女が試したが、どれもだめだった。
ナシェルが物云わぬ王女の強情さに震撼し当惑していると、側近中の側近であるアシュレイド将軍が今さらながらに申し出た。
「殿下、うちの家内も乳が出ます」
「本当かそれは。なぜ早く云わぬ。連れてきてくれるか」
妙な会話だが仕方が無い。アシュレイドが新婚であるのは知っていたが、息子が生まれたという話は聞いていなかった。王妃の病状を鑑み黙っていたのだという。
アシュレイドの新妻イリスが乳飲み子アシュタルを伴って訪れ、こわごわ王女に乳を飲ませてみると、王女は空腹には勝てなかったのかとうとう意地を張るのを諦めイリスの乳を受け入れたので、イリスは乳母、アシュタルは王女の乳兄と唐突に決まった。夫婦は突然の成り行きに困惑したが、名誉なことで断る理由もなかった。
「乳兄弟が男とはまずいな、将来姫に手を出さぬようくれぐれもしっかり教育せよ」
「無論でございます。王家のご厚情に甘んじて臣下の分際を忘れることなどあり得ませぬ。どこぞの公爵家の軽薄な御曹司とは違います」
「……そ、そうだな」
顔が引き攣りそうになるのをこらえ、ナシェルは頷く。領主を返答に窮させたアシュレイド自身は、何故、一瞬の間があいたのかには気づいていないのだった。
姫の様子はどうか、と冥王から委細を訊ねる文があり、乳母探しうんぬんの一件をしたためて闇の精霊に持たせ、報告を上げた。
すると再び王から返信があり、『魔族の乳など飲ませて大丈夫か』などと憂慮しているようなのである。
ナシェルは文面に目を走らせ思わず「は?」と呟いた。
魔族の乳。心配はそこか。ではどうしろというのだ。現に王女は腹をすかせているし、アシュレイドの妻の乳を受け入れて飲み始めている。
神族であるから基本、何も食べなくても生きていけるが腹は減る。
王女がそれで良いなら良いではないか。
それにそもそも王よ、忘れたのか。幼い自分も同じように生まれてすぐ実母を亡くし、魔族であるナシリア(ヴァニオンの母)の乳を飲んで育ったのだぞ。
というような反論を再度、文にして奏上すると、また返信があり、
『説明しづらいが神司に影響がないかを憂いておる、まあ王女がいいなら、それで良い』
というものであった。神司に影響? だから何だというのだ。そういえば父は神司が衰える(神としての力が弱まる=神格が下がる)ことを昔から異常なほど気にする。神司に影響するような行為を慎めとは、よく云われているが…。
しかし腹をすかせた赤子を前にそんなことを忖度している場合か。魔族の乳でたとえ神司が一時的に減ったとしても寝れば回復する程度のことではないのだろうか。
ナシェルは父王の憂慮の真意が分からず、それ以上、返信するのを止めた。
それにしても王女ルーシェルミア、すでに愛称でルーシェ、ルゥなとど呼ばれていたが、彼女の神司は凄まじかった。本人はただ眠ったり起きたりしているだけなのだが、泣くとその涙から命の精フェルミナが次々生まれて、日に日に勢力を増しているように見える。躾のなっていない死の精をはべらせているナシェルなどは、敵対勢力の筆頭ぐらいの勢いで彼女たちにつつかれるのだった。セファニアが連れていた命の精はもっとか弱げだったが、同じ精霊でも主が異なるとこれほど性質が違うものだろうか。
精霊たちに邪魔されつつも、ルーシェという小さな命の耀きを、ナシェルは両腕にそっと抱いてみる。
赤子はむぐむぐと身じろぎし、手足を元気よくばたつかせた。
なんという可愛らしさだろう。このふっくらした桃色の唇。小さな眉!
まだ生まれたばかりであるのに、死んでしまったセフィをそのまま小さくしたような美貌ではなかろうか?
そう思うのは私の親馬鹿だろうか?
セファニアの生まれ変わりでありながら、ルーシェの命の鼓動はセファニアのそれとは比べ物にならないほど強い。儚げでいつ消えるとも知れなかったセフィとは違い、ルーシェの命には、眩しいほどの耀きがあった。
ルーシェのあどけない瞳は、いつでも生の喜びに溢れきらきらと煌いているのだった。
ルーシェの瞳……。
今はあの、“毒の公爵”の薬によって眼の色を、セファニアと同じ翠に変えられている。ナシェルが依頼した例の薬だ。
しかし本来ならば、自分と同じ色をしているはずだった。黎明のような群青色……。
(ルゥ。もし何かのはずみで全てが明らかになってしまったら、お前はどうなるのだろう? 父上は……この私を、どうなさるだろう)
娘の瞳を見るたび暗雲の如く垂れこめる不安。
己の限界を分ける一本の線を、ナシェルは胸中に感じ始めている。
後悔と罪の意識に苛まれ、しかしこうしてしまった以上は後戻りなど出来るはずもなく、まるで張りつめた細い綱の上を渡っているような感覚に陥る。
(いや。大丈夫だ。父上は全く気づいておられない。私はこの先もずっと、隠し通せる……)
躊躇いを押し殺すように、ナシェルは己に言い聞かせるのだった。
ところで生まれたばかりの女神ルーシェは、そんなナシェルの懊悩などまったくお構いなしに、日々侍女たちに愛想を振りまいて可愛がられているのであった。
彼女はしかし、ただ赤ん坊らしくおぎゃあおぎゃあと泣くだけではなく、配下の命の精を通じて己の要求を伝えてくるという凄技まで見せた。
命の精たちは水滴のドレスを揺らしてナシェルに訴えた。
女神さまはお花畑を所望しておられると。お花畑でなければ嫌だとおっしゃっていると。
「花畑が欲しいだと? でたらめを云うな」
ナシェルが一言で片付けようとすると、ルーシェはその意を解して反発するかのように途端に泣き止まなくなり、要求が事実であることを証明したのだった。
「花畑……だと? この冥界にか?」
横暴な要求に困り果てたナシェルは、前線から「姫は元気にしておるか?」などと他愛ない内容の文を次々寄越してくる冥王に、この厄介事を押し付ける手を思いついた。
王女が花畑を所望している、何とかしてくれという旨を返信としてしたため、闇の精霊に運ばせた。
この無理難題を、冥王がどう解決するか見ものであった。
◇◇◇
ナシェルがそのように、セファニアの死をあらためて悼む暇もないほどの多忙の中で忘れかけていた別の悩みを、否が応でも思い出させる出来事が起こった。
エレボス城に招かれざる客人が訪れたのだ。
ナシェルはその日執務室で、腹心アシュレイド将軍を前にして頭を悩ませていた。
公務時間は終わってほとんどの者は退っているが、二人は熱い茶の湯気を顎に当てながら議論を交わしていた。
幻霧界との間をつなぐトンネルの掘削工事が思うように進まず、腐るほどいる死者の奴隷たちを突っ込んで畳み掛けるか、それとも少しは軍の余剰人員を割いて回すよう冥府の後方総指揮官ヴェルゼブル将軍に交渉するかで、二人の意見は割れていた。
死者の奴隷たちは動きが鈍いのでこの工事にはすでに百年単位の時間がかかっている。しかし新たな硬い岩盤の層があらわれて工事が中断していた。軍の人員が来てくれれば作業は効率的になるだろうが、冥界軍を動かすとなれば費用が増大する。暗黒界に割り当てられた工事費に余剰はないので無理であるというというのがアシュレイドの結論だった。彼は軍備費から鐚一文回す気はないらしかった。頭の堅い司令官を説得するか、それとも別の手でこの場を乗り切るかで、またナシェルは頭を抱えた。
そこへ扉が叩かれ、若い衛士から来客が告げられる。
「面会の予定があおりでしたか、失礼、存じ上げませんでした」
とアシュレイドは椅子を立とうとする。ナシェルは首を傾げた。
「そうだったかな。誰だろう」
「画材を持っておいでで、宮廷画家であると名乗っておいでです。殿下に取り次げば分かるとおっしゃいまして……。ですが小官がお顔を拝見しましたところ、どう見てもヴァルトリス公爵様にしか……」
「ブッ」
衛士が困惑気味にそう告げるのを聞き、ナシェルは思わず茶を噴いた。
「ファルク、あ、あの馬鹿……」
「お通ししてよろしいでしょうか、殿下」
「ああ……。いや、私室の方に通せ。アシュレイド、さっきの件は明日だ」
「了解しました。ヴァルトリス公と何かあったのですか。私室にお通しするほどの仲とは存じませんでしたが」
「まあ色々あってな……。このことは、ヴァニオンには黙っておけよ」
咳払いするナシェルを不審そうに見ながらも、アシュレイドは退出した。
王女の瞳の色を変える薬を作ってもらう見返りに、絵のモデルになる約束をしたのをすっかり忘れていた。
どうしてこう次から次に難題が降りかかるのか……。ナシェルは机に突っ伏して嘆息した。
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