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第一部 血族
9 堕ちし月神①
しおりを挟む黒天馬の騎影が、疾風のように暗黒界の宙を駆けていく。
その背に跨るのは一人の男。纏う衣装はすべて漆黒で、冥い宙空に溶け込んでいるかのようだ。
ただひとつ、たなびくマントの色だけが、闇を焦がす炎の色をしている。前方を見据える闇色の瞳は苛烈なほど細められ、見るものに怖れを抱かせるほどだ。
長めの前髪が、吹き荒ぶ風を受けて激しく揺らめく。眼に入る髪を鬱陶しげにかきあげ、男は乗騎の腹を蹴った。
この暗黒界で彼の名を知らぬものは皆無だろう。緋色のマントは彼の一族のみに許された、地位の証。
王子の護衛役にして、炎獄界の領主家の息子・ヴァニオン・ヴェルキウス卿であった。
「ったく、ナシェルの馬鹿野郎……。おかげでひでぇ目にあったぜ」
遠い冥界の王府にいる乳兄弟に、何度となく愚痴をこぼす。ナシェルがヴァニオンに身代わりを頼んで出かけてからいつまでたっても帰って来ないため、結局目付役のアシュレイドに不在がばれ、ヴァニオンは逃走を手助けした罪で大目玉を食ったのだ。
「それにしても死の精たちがやけに騒いでやがる。死者どもがまた反乱でも起こしたかな」
剣呑なことを云うが、口元は不敵に笑んでいる。彼の領地は炎獄界。この暗黒界のことは、ナシェルに任せておくにかぎる。
「と、いっても、当の領主殿下は冥府の王宮にお里帰り中、か……。今ごろ誰とナニしてんだか……マジで、どうなっても知らないからな」
死の精たちが風に乗って、ざわざわとささやきながら飛び去ってゆく。
厄介ごとに巻き込まれるのはかなわんと、ヴァニオンはさらに馬を叱咤した。ナシェルの幻嶺に負けず劣らずの名馬である炎醒は、黒々とした翼を羽ばたかせ、優雅に暗黒の空を舞う。
闇と同化した中で、ただ緋色のマントだけが焔のように煌いた。
「嵐が来るのかね、この世界にも」
手綱を握る手を緩めて、ヴァニオンは闇の世界を見下ろす。嵐とは雨風のことではない。血なまぐさい風に混じる、騒乱の気配を確かに彼は感じ取っていた。
『そなたの忠告には感謝する……だが、理性だけではどうにもならぬこともあるのだ』
親友ナシェルが、秀麗な頬に笑みすら浮かべて云った投げやりな言葉が、一瞬脳裏を掠める。
ヴァニオンの詰問を躱すようにつかのま伏せられた、あの濃青の眼差し……。
間違いなくあの王子は、この冥界に乱をもたらすだろう。セファニアの孕んだ、小さな命を巡る乱を。
「……それでも俺は、お前について行く覚悟なんだぜ、馬鹿馬鹿しいことにな」
そんな事態にならぬようにと願いつつ、むろん決心はついている。
親友ナシェルが万が一、冥王と訣別するようなことになったら、自分はそれに従おうと。
とうの昔から、その決意は口には出さぬだけで、ヴァニオンの心の奥にいつも準備されているものだ。
自分たち魔族には到底理解できぬ、神族である主君親子の、尋常でない関係を知ってしまってからずっと。
呼びかける相手は遥か彼方。一番文句を云いたい相手がいなくては、重大な決心も虚空に吐き出すより他なく、ヴァニオンは独り苦笑する。
「ま、今さら愚痴ってもしょうがないか……」
彼は手綱を握る手に再び力を込めた。騎馬は更に加速して行き、その姿は黒い風となって暗黒の大地を吹き抜ける。炎醒が一声をあげると、その嘶きは宛ら雷鳴のように大気を打った。
騎影が完全に闇に溶け込むまで、大して時間はかからなかった。
ヴェルキウス公爵家の屋敷は、領地である炎獄界に城砦のように聳え立っている。冥府にある冥王宮や、暗黒界のエレボス城には及ばぬものの、冥界貴族に相応しい威容を誇る城館だ。
帰宅したヴァニオンは、馬の手綱を家僕に預け、真っ直ぐ館に入った。
自室で寛いだ服に着替えていると、執事のグレイドルが現れた。
「お帰りなさいませ、ヴァニオン坊ちゃま」
短い髪を後ろでぴったりと撫でつけ、姿勢がよく、常に隙のない男だ。足音さえ立てない。
冥界軍の総司令でもある父・ヴェルキウス公爵から、炎獄界の些事はすべて任されているヴァニオンであるが、ヴァニオン自身もまた炎獄界の些事はすべてこのグレイドルに任せている。平たく云えば彼がこの炎獄界を仕切っているといって良かった。
「坊ちゃまはいい加減よせ。留守中、親父から何か言付かっているか?」
「いえ、公爵様からは火急のお言付はございません。いまは前線におかれまして、陣の移動の指揮で手一杯のご様子です。こちらのことはこちらに任せると」
「あっそ……。あいつはどうしてる?」
ヴァニオンが無造作に椅子の背凭れに引っ掛けたマントを、グレイドルは手際よく仕舞いながら答えた。
「サリエル様は自室においでです。ヴァニオン様がおられぬ間は、日がな手琴を奏でておられました」
「相変わらず、だな」
「ヴァニオン様……差し出がましいこととは存じますが、あの方をこれ以上この世界にお留めするのは、ヴァニオン様を含め誰にとっても利益となるとは思えません。あの方がこれ以上悪くならないうちに、再考されてはいかがです」
「いまさら何をどうしろってんだ。天に返せとでも?」
「ヴァニオン様……」
「……それぐらい、俺だって分かってるんだ。ほっといてくれ」
恐縮するグレイドルを残したまま、彼は着替えもそこそこに自室を後にし、サリエルの住む離れに向かった。
廊下を歩きながら、彼はサリエルと初めて出会ったときのことを思い出していた。
天から落ちてきた月の神。いや、『月の神であった』という方が正しいか……。
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