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「赫の王」との闘い1

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 南信州の妖怪たちから、組織的な抵抗が途絶えていたはずの、この数日。
山間から細かい奇襲を受けることが増えており、『赫の王』の陣営にあって、阿僧祇の懸念が増していた。
 信州の妖怪は、数は少なくないのだが、その拠点がかなり細かく散っており、一か所ごとの兵数は少ない。赤炎郎が蹴散らしたという魏良とやらの一党が、南信州近辺での最大勢力と言えそうだが、それを倒したとはいえ、この後なんの抵抗もなく攻め上がれるとは思っていなかった。
 だから細かい奇襲を受けるのは、予定通りではある。全て反撃し追い返しているののも事実だった。
 だが、今までの散発的な抵抗とは、明らかに違うものがある。
 ただ不意打ちを狙って襲ってくるのではなく、軍の小休止中や、隘路の進行中を狙われることが多い。
 しかも、適当な投石などではなく、精度の高い弓射を受けている。
 敵陣営の、なにかが変わったのだ。明確な意思統一を感じる。

「……『赫の王』よ。献策をお許しいただきたい」

 本陣の奥深く、地面から浮いた輿こしの上で赤いとばりに包まれた暗い空間の中に、阿僧祇は話しかけた。この浮遊する輿での移動は、上位妖怪が好む。

「何用だ」

 ぼり、ぼり、となにかを咀嚼する音が帳の向こうから響いてくる。
 なにを食っているのだろう。まさか、人間だろうか。いや、機嫌を損ねた雑魚のあやかしか。

「すでに今日だけで五度、襲撃を受けております。いずれも小規模のものですが、用心に越したことはございますまい」
「で?」

 義兄弟として長く共に過ごしたが、このところ、恒河沙の声を聴き、その視線の光を見ただけで、阿僧祇は身がすくむ思いがする。
 帳のせいで目を合わせずに済むのが、今はありがたかった。

「はっ。軍を三つに分け、一陣を先に出して露払いしますことで、本陣が――『赫の王』が狙われる危険を排したく」
「危険?」

 ぞく、と悪寒がする。だが、阿僧祇はここで引くわけにはいかない。

「むろん、『赫の王』が有象無象に後れを取ることはないでしょう。しかし、信州征服とその後の防衛のことを考えますと、戦力は極力温存いたしたく存じます。赤炎郎を倒したという南信州軍を探るために出した斥候もいまだ戻らず、敵なしの進軍をしておる時こそ用心すべきかと。野営においては、油断なく柵と土塁を築き、簡易ながら陣を設けます。奇襲してくる敵はせいぜい数十程度の規模、それで防護は万全でありましょう」
「好きにしろ」

「はっ」

 阿僧祇は、それを聞くとさっと中央を後にし、自分の定位置である本陣前方に戻った。
 よくない、とは己でも思う。
 力を頼みに成り上がってきた自分たちであっても、信頼のない集団というのはごくたやすく瓦解するということくらいは分かる。今は幸い聞き入れられたが、恒河沙が阿僧祇の案に難色を示した場合、さらに強く出られたかどうか、阿僧祇は自信をもって是と言えない。
最も近しい者が、王への意見を充分に言えずにいる。これは小さいが確かな綻びだ。
 それでも阿僧祇は、決定的な破局の危機はまだ先のことだと考えていた。
 赤炎郎の敗死は予想外だったが、結局、誰かしら王をいただく軍というのは、王を失わない限り本質的には安泰のはずだ。六士も、阿僧祇自身を含めて五匹も残っている。
 奸計に陥らず、敵の策に乗らず、力で攻め切って勝つ。それだけだ。阿僧祇は、あえて思考を単純化した。
 だがそれこそは、まさに綻びを突いて強者を瓦解させんとする、戦術家たちの好餌でもあった。



 千哉と紺模様は、そろって、「成功した」とまず簡潔に報告を述べた。
 切風が「どのくらい、どんな風に?」と訊く。
 場所は犬神茶房の作戦室、例の飾り気のない部屋である。集められた面々も同じだった。

 茉莉は、裏世界で過ごす時間が増える一方なので、親への説明を余儀なくされた。だが、千哉の口添えに加え、ある程度事情を知らないでもなかった両親の説得は、さほど難航しなかった。まるで、逃れえない運命を受け入れるように。
ただ、夫婦そろって「気をつけて。危なくなったら、すぐ逃げなさい」と真剣な顔で茉莉に言い聞かせた。「こういうことには、いずれなるとは思っていた。でも、思っていたよりずっと早かった。決して無理はしないように」とも。
 茉莉も悟った。子供のころから有していた霊感。祖父母の代からの縁。受け継いだ切風の牙。遅かれ早かれ、こうした状況にはいずれ巡り合うはずだったのだと。

 切風の問いに答えたのは、千哉だった。

「『赫の王』の軍が三つに分かれた。先行する第一軍、本陣を含む第二軍、後詰めの第三軍。とはいえワタヌキの言っていた通り、あまり軍を大きく分けるのは好まないようで、連携はちゃんととれる程度にしか離れていない。細かい奇襲で進軍速度をコントロールしたから、今晩には例のポイントに着く」

 次いで、紺模様。

「敵軍は夜を徹しての強行軍は行っていませんので、かの地、阿智川の南の盆地で野営する見込みです。できれば第一軍が阿智川を渡ってくれると孤立してなおいいのですが、そこまでは望めますまい」

 ワタヌキも加わった。

「マツリ殿と打ち合わせ、奇襲部隊とは別に放った斥候の見てきたところによると、敵はどうやら野営においては単に雑魚寝せず、柵を張り陣を設けるようですわ。これはこちらも助かるところかと」

 茉莉は、わざわざ茉莉の名前を出して持ち上げてくれなくてもいいのに、とワタヌキに目配せした。ワタヌキは、まあまあ、と照れた様子で目配せを返す。
 切風が、伊織に視線を送った。察した伊織が応える。

「地の利は我らにございまする。土地の妖怪に案内してもらい、ちょうどいい間道があることを確認し申した。獣道というにも荒れた道でござるから、よそ者の敵からはまず見とがめられますまい」

 それを聞くと、座っていた切風が立ち上がった。
 全員の目が総大将に注がれる。

「よし。全部、こちらの思惑通りに動いてる。勝手にそうなったわけじゃなくて、みんなの段取りのおかげだ。状況は整った。今夜だ。打って出るよ。これで、少なくとも信州の南の脅威は今日限り取り除く。出発は一時間後。そこから、各隊別行動になる。ゆめ気取られないように。三位一体、小が大を食う戦を見せてやろーよ」

 幹部たちが揃って声を上げ、それぞれが預かった兵のもとへ向かった。
 そんな中、切風が、茉莉を手招きする。

「茉莉、こっちこっち」
「どうしたんですか?」

 切風は、茉莉を犬神茶房の裏手に連れて行った。
 通常ならひとけのない場所だが、兵がひしめき合っている今では、否応なく目立ってしまい、「お、逢引きですか!?」「さすが大将と軍師殿、堂々としておられる!」と兵士たちに囃されてしまう。
 茉莉は顔を赤くして、「ち、違いますっ!」と言ってから、切風を見て「え、違いますよね?」と訊いた。

「あはは、どうかなー」
「もう!」

 裏手には、梯子がかけられていた。
 犬神茶房は、屋根は高いが平屋で、この梯子といくつかの凹凸を足場にすれば屋上へ登れてしまう。
 切風は、平たくなっている屋根へ茉莉をいざなった。
 パンツスタイルの茉莉がそれについていくと、屋根の上に上がった途端、切風が茶と菓子の乗った盆を取り出して見せる。

「いつの間に……どこから……」
「ふっふっふ。まじめな評定の場で、おいしい茶なんて邪魔になるだけだからね。評定に集中すれば茶の味が分からないし、もったいなさすぎるから、終わってからようやく出せるってわけよ」

 茶は、緑茶の知覧茶。菓子は和製カステラともいえる浮島だった。白と黄色の二層になっており、甘く煮た豆が点々と入れ込まれている。
 これまでの茶と比べて、奥深く穏やかな香りは、心が浮き立つというより、しっとりと落ち着いてくる。卵の香りと白あんの味わいがしみじみと感じられる浮島も、これから戦が始まるというのに、場違いなほどに優しい味だった。

「……会って間もない千哉くんに、疑いもなくあんなに重要な役目を任せてくれて、ありがとうございます」
「え? なんで? だって、疑う材料がないもん。信じるでしょ」

 当たり前のようにそう言う切風に、茉莉は吹き出しそうになった。

「気に入らないとこはあるけどね。それとこれとは別」
「え、そうなんですか? 千哉くん、凄くいい人ですよ。私が一番信頼してる人でもあります」

「……ん。あ、そう。まあいーや」

「変な切風さん。……成家さんのことも、信じてるんですね」
「ああ、あのじじいを評価してるのは本当だよ。結局、戦って心の強いやつが頼りになるからさ。数少ない将として、活躍してもらわないと」

「将といえば……魏良さんは、まだ見つからないんですね」
「あー。気になる? 殺されかけたのに」

 切風がいたずらっぽく笑う。

「狂言だったっていうことですし。切風さんの言うように、強力な将が足りませんから……」
「気にし過ぎるなよ。負けても、君のせいじゃない」

 茉莉は、切風をちろりとにらんだ。

「信州妖怪の存亡がかかった戦いだって言ったじゃないですか。軍師の私が、責任感じなくていいんですか?」
「おれに押しつけられた軍師でも?」

 切風は笑ったままでいる。だが、その口角は少し下がったように見えた。

「信じて、任せてくれたんでしょう? 私、押しつけられたなんて思ってませんから。逆です。逃げなくて、……応えることにして、きっとよかったんだって、そう思います」
「……魏良が戻ってきてうちに加わったら、たぶん喜んで君の指示に従うだろうな」

「そうですか? だといいんですけど……。でもここからはもう、私たちには、新戦力の追加は期待できませんよね」
「だから、そう思い詰めるなって。まだ、少しは足しになるやつも来るかもしれないしさ」

「いえ、意思統一できないなら、加勢とは言えません。特に、失敗が許されない時は……」
「茉莉。茶が冷めるよ」

 そう言われて、茉莉は、手の中の茶碗が熱と香りを失いつつあることに気づいた。

「す、すみませんっ。いただきますっ」
「……茉莉。改めて言うよ。君が戦う相手は、もちろん人間じゃない。人間に似てるやつもいるし、言葉も話せるけど、人間じゃないんだ。便宜上、死ぬ、とは言うものの、前にも言った通り多くの場合はいつかどこかでよみがえる」

「……はい」
「それでも、倒して全然平気ってわけにはいかないんだろ? おれたちはともかく、君はさ。敵の断末魔や折り重なる遺骸を見て、しんどい思いもすると思う。それを承知で、……卑怯だけど、言うよ。おれたちを助けてくれ」

 茉莉は茶碗を置いた。

「はい。……それくらい、大変な戦いになるんですね、これから」
「ああ。おれたちの誰かはやられるかもね。そもそも、いいもんでもなんでもないんだ、戦なんて。いいことなんてなにもないんだよ」

 それでも、降りかかる火の粉は払わなければならない。
 茉莉は、切風がなんのために自分を今ここに誘ったのか、分かった気がした。落ち着く茶と、柔らかい菓子。視点が上がるので兵士が見えなくなる、屋根の上。ここには自分と切風しかいない。軍師と大将ではなく、茶を入れる者と飲む者として。
 穏やかだった。裏世界特有の薄暗さを除けば、普通の日常的な昼下がりと変わらないほどに。
 これを守るために、戦わなくてはならないことがある。でも、それを終えればこういう場所に帰って来られる。
 ――君が好んで敵を倒すわけじゃない。頼んだのはおれだ。共に行こう。でも、戻れる場所がどんなところなのか、忘れるな。
 茉莉は、南方を見た。
 まだ姿は見えないが。
 そこに、これから全てをかけて戦う相手が、いる。

 二人は梯子を下りた。
 すでに各将により、部隊の編成は済んでいる。
 そこへ、ワタヌキが報告に来た。

「申し上げますぞ。敵は、前軍千五百、中軍千、後軍千五百。『赫の王』は中軍におり、兵数は少ない者の旗本の多くが王の周りに侍っております。前軍は――名前がついておる表世界の地名で申し上げますが、阿智川の南の運動公園の辺り。後軍は山中で、座禅草公園の辺り。中軍はその中間、天竜公園阿智線に沿って布陣する見込みです」

 茉莉は、そのどれもまだ行ったことがないが、地図だけはワタヌキと一緒に表裏双方のものを見比べて徹底的に頭に入れていた。この地域は、世界の表裏で造りにあまり差異はないのは、覚えやすくてありがたかった。

「よし、一番遠出になる第三軍は、準備できたならもう出発していい。とにかく、くーれーぐーれーも敵に悟られないように! ……任せたぜ、千哉」

 切風にそう言われた千哉は、腕組みを解いて答えた。

「僕の心配をしている場合じゃないだろう。あんたが一番危険な場所に飛び込むんだ」
「ふ。おれが熊ごときに遅れをとるとでも?」

「いやあんたじゃない。一緒に行く茉莉の心配をしているんだ」

 それまで親指で自慢げに自分を指さしていた切風が、さっと険悪な表情になる。
 慌てて茉莉が間に入った。

「わ、私は大丈夫だよ! 千哉くんも気をつけてね!」

 そこへ、雷蘭が小走りで駆けつける。

「マツリ、切風様がいるからめったなことはないと思うけど、必ず無傷で戻るのよ。そうしたら今度は、飯田市の国道沿いのショッピングセンターに、服を買いに行きましょう。誰もが目を見張る、真っ黒な洋服を選んであげる」
「黒限定なんですか……? 雷蘭さんには、全体の様子をつかむために、かなり頑張って飛び続けてもらうことになります。気をつけて……」

「ええ。お互いにね」

 そうして、切風側も三つに分けた軍が、順に進軍を開始した。
 第一軍は、伊織を大将として、成家、紺模様、ワタヌキ。兵数は千。
 第二軍は、千哉を大将として、動物以外の、霧や鏡から生じた妖怪がほとんどの、兵数は二百。
 第三軍は、切風を大将として、茉莉もそこに加わる。兵数は三百。

 最も兵数の多い第一軍は、阿智川を挟んで、『赫の王』軍の前軍と対峙する。
 山路を行く第二軍は、後軍を目指した。座禅草公園を、南から攻撃する手はずである。
 これで、南北から『赫の王』軍を挟撃することになる。それが、勝利のための第一歩の形だった。
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