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第5章 記憶
89 計画
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浅葉は重い足を引きずり、署内の階段を上っていた。身も心も疲れ果てているようでいて、どちらともが妙にギラギラと何かを渇望している。
出所直後の宇田川との接触は決して簡単ではなかった。尾行などすればそれこそ麻紀勢組と間違われて銃撃されかねないし、当初はどこへ向かうかがわかっているわけでもなかった。
そこで宇田川の恩人である堀崎に目を付けた浅葉は、彼を話のわかる男と見込み、身分を明かした上で私人としての面会を求めた。一ヶ月前にそれが叶い、浅葉は全てを洗いざらい打ち明けて頭を下げた。
警察が、そして自分自身がこの取引の阻止にこだわる理由。宇田川に人生をやり直してほしいという個人的な願い。それがなぜなのかについても。
堀崎自身、宇田川の更生を望み、長年その説得を試みてきた人物だ。宇田川が一人娘への愛情を今でも忘れずにいるという浅葉の推測に堀崎は賛同し、直接宇田川を説得する自信はないとしながらも、職質の機会を作るのには協力しようと申し出てくれた。
かくして浅葉は、出所当日に宇田川に会う予定だという堀崎から、その時間と場所を聞き出した。
禁断の恋が引き金となって道を踏み外し、裏の世界で急速にのし上がった宇田川。そのカタギ時代の妻と娘の存在に浅葉が辿り着くのにそう時間はかからなかった。
捜索願を既に取り下げ、離婚も成立していた田辺千里と娘の千尋には、宇田川の現在の苗字や生業、服役については何の連絡も行っていなかった。
宇田川が起こした殺人未遂。本人の供述によれば、動機は組織間の関係のもつれ。具体的に何を恨んだのかも詳細に記されてはいたが、組織の運営に関しては常に慎重で計算高い宇田川が一体なぜあんな事件を起こしたのか、浅葉には長い間不可解でならなかった。だが、それも人質として娘を狙った輩に対する復讐と見せしめだったとすれば合点がいった。
浅葉は階段を上り切ったところから、廊下の先にあるガラスの扉を見やった。向こう側では重松巡査が一服している。浅葉は廊下を進む代わりに、階段に腰を下ろした。
取引を阻止するため、五歳の時に生き別れた実の娘を使って宇田川を動かす。最終手段として温めていたその考えが、いよいよ八方塞がって唯一の術になってしまうとは……。
しかし、この娘がもし取引やその周辺事情に一枚噛んでいるとすれば、この最終手段すらも通用しなくなる可能性があった。そこで浅葉は、彼女とその周辺について詳しく調査を進めた。
すると、宇田川の娘という単なる肩書きから田辺千尋という一人の女性の姿が浮かび上がり、みるみるうちにその人格が明らかになっていった。今どき珍しいほど無垢で、普段は快活ながら、はっとするほどしっとりと落ち着いた表情を見せることがある。
浅葉はいつしか、取引阻止の副産物として宇田川の更生を願うようになっていた。宇田川がヤクザ稼業に手を染めるきっかけとなった不倫相手は九年前に病死している。
五歳を最後にずっと会っていない娘の情報を部下に調べさせながら、宇田川は一体どんな思いで日々を生きているのか。その心には何がしかの悔いが芽生えているのではないか。もしもあの日に戻れるなら、そこから全てをやり直したい。そんな悲痛な夢を見る夜もあるのではないか。
浅葉は宇田川が完全に足を洗う可能性に賭けていた。そうでなければ、公益のための取引阻止ごときのために千尋を危険にさらすような真似はとてもできなかった。
あの昼下がりの暑さを思い出す。痛いほどの日差しに首筋を焼かれながらも、それを警告と取るような賢者の思考は、あの時の浅葉にはなかった。
ある真夏の炎天下。浅葉は一枚の紙を胸ポケットに忍ばせ、コンビニを転々としていた。
この娘に会ってみたいと思い始めたのはいつ頃だったろう。手段として利用するために未知の要素を徹底的に排除する必要があったことは間違いない。
宇田川に恩義のある小組織苑勇会の取引計画を利用し、敢えて一度参考人として話を聞いておけば、彼女の確実なシロを関係者間の共通認識として植え付けるのに都合が良いという事情もあった。
しかし、そういう論理的な思考から発したものだったなら、参考人に仕立て上げるだけでなく苑勇会にそれが漏れたという話までこしらえて自分の担当下に持ち込もうとしていることの説明がつかなかった。
目的を果たすために口実をでっち上げるのは浅葉にとって初めてではないが、その目的自体が自分の中でぼやけるというのはこれまでにない事態だった。
コピー機の前に佇んでは迷いが生じ、代わりにどうでもいいものを買って店を出る。そんなことを繰り返した。次の店へと向かいながら、浅葉はいつになく乱れた頭の中を整理した。
取引阻止のためにこの娘を利用する。それに備えて自分の目で人間性を確かめたい。今の時点では何も危険にさらすわけではない。それに……。
全てがうまく運べば、この子に父親を返してやれるかもしれない。
四軒目のコンビニで、浅葉はついに送信ボタンを押した。
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