君の思い出

生津直

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第3章 蜜月

44 シャガール

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 二月十三日。千尋は、二ヶ月ほどの予定で来日しているシャガール展を見に来ていた。特に美術に興味があるわけでもないが、駅のホームで見たポスターの深い青が妙に印象に残った。

 暇潰ひまつぶしにはなるし、美術館があるのもトレンディーなエリアなので、ついでにちょっと散策してみるのもいいかな、というほんの思い付き。

(ほんとはこういうところにこそデートで来たかったけど……)

 いざ入館してみると、千尋はこれまでに見たことのない色の世界にすっかり引き込まれた。独特の青に黄、緑、赤……。その間に生み出された幻想的な光。美しいファンタジーのようでいて、静かに、どこかもの哀しく描き出された愛。

 暇に任せて順路を二周したがまだ足りず、展示室のところどころに設けられたベンチに腰を落ち着けた。すると、周囲の人の足音や話し声に、低い振動音が混じった。バッグの中で、マナーモードにした携帯が鳴っている。

 慌てて取り出し、カバーを開くと、「アサバ シュウジ」の文字。思わず声を上げそうになる。とりあえず通話ボタンを押しておいて、非常口のマークが付いた扉の向こうに駆け込んだ。

「もしもし」

「千尋。おめでとう」

 何が? と聞き返そうとしてすぐに気付く。

「おめでと。明けまして。もうとっくに二月ですけど」

「あ、メリークリスマスもまだだったな」

「そうですね」

 千尋は力なく笑った。

「いいエコーだな。今、外?」

 重い扉で仕切られた非常階段は、声がよく響いた。

「はい。シャガール見てました」

「いいね。俺も行っちゃおっかな」

(場所も聞かずに……もしかして、絵とか興味あるのかしら?)

「今、どこですか?」

「駐車場」

「え?」

「じゃ、五分後に」

(え……?)

 半信半疑のまま展示室で待っていると、本当に五分後、浅葉が現れた。エスパーか……とツッコミを入れつつ、あまりにあっけない登場に、二ヶ月待たされた痛みはどこかへ吹き飛んでいた。

 千尋は名画の前で、惜しみないキスを振る舞われた。浅葉は千尋のほおに手を当ててまじまじと見つめ、さも幸福といわんばかりの笑みを浮かべた。

 しかしその笑顔はしだいに、どこか憂いを帯びた面持ちへと転じた。一瞬何か言いかけたように見えたが、何も言わずにただぎゅっと千尋を抱き締める。この二ヶ月、単純に放っておかれたわけではないことは、千尋にも十分伝わった。

(愛されてるな、私……)

「どう? シャガール」

「うん。結構好きかも」

 千尋は、今日見た絵がどれもそれぞれに気に入っていた。これはこの辺が好き、これはよくわからないけど色が綺麗、と一つひとつ浅葉に「紹介」して回る。浅葉は退屈する様子もなく、絵と千尋を交互に眺めた。

 千尋は最後の一枚の前で足を止め、先ほど一人で見ていた時と同じように首をかしげた。

「この人、泣いてるのかな?」

 千尋の視線の先には、ブルーを基調としながらも、他の作品と比べるとだいぶ色彩が暗い一枚の絵があった。

 右下のピンクのドレスの女性が、左側にいる顔が上下反転した人物の方を見て涙を流しているように見える。解説によると、最愛の妻ベラを亡くしたシャガールが悲しみのうちに描いた作品とのことで、「彼女をめぐって」というタイトルが付いていた。

 その絵にしばらく見入っていた浅葉が言う。

「泣いてるんじゃない」

「え?」

「思い出してるんだ」

 千尋は改めてこの女性を見つめた。そう言われるとそんな風にも見えてくる。しかし、反対側にいるこの顔が逆さまになった人物は、一体どうしてしまったのだろう。パレットを手にしているところを見ると、シャガール自身なのだろうか。

「この人は?」

と指差すと、浅葉は一瞬そちらを見、再び右側に描かれた女性に視線を戻して言った。

「今は……そっとしておいてくれってさ」

 逆さまの顔にもう一度見入った千尋の視線が、浅葉のものと交差した。シャガールの青がその空間いっぱいに広がるのを、きっと二人ともが感じていた。
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