君の思い出

生津直

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第1章 護衛

4  鼓動

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 九月四日。千尋は、さっきからあくびばかりしていた。寝ようと思えばいつでも寝てよいのだが、眠いわけでもない。とにかく退屈で仕方なかった。

 この部屋に来て三日目になる。部屋が殺風景なのは目的を考えればまあ当然とも言える。その割にはバスルームアメニティの類は妙に充実していた。

 綿棒にカット綿、カミソリ、保湿クリームなどが揃い、ドライヤーの質も良いし、歯ブラシもビジネスホテルなどにありがちなものではなく、ヘッドが小さくて毛先の柔らかいものが用意されていた。

 浅葉から言い渡されたルールは「頭が壁」だけではなかった。千尋は他に居場所もなくベッドの上で一日の大半を過ごしているが、浅葉の真後ろには座ってはいけないという。パソコンの画面にはのぞき見防止フィルターが貼られているが、真後ろからは見えてしまうからということらしい。

 シャワーは十分以内。テレビは音を出さないこと。耳を「空けておく」意味でイヤホンも禁止。

 パソコンは署が用意したものを文書作成には使用していいと言われたが、インターネットには接続不能と聞いて断った。そんなパソコンに用はない。

 スマホは署に預けさせられたままだし、読むものと言えば、たまたまバッグに残っていた講義資料だけ。刑務所か……とでもぼやきたくなる。せっかくの夏休みをどうしてくれるのだ。

 ろくにすることもないのでベッドの上でストレッチなどしながら、つい浅葉の後ろ姿に目が行く。いかにつっけんどんと言えども、容姿は間違いなく良い。そんな年上の男性とここで二人きりで過ごすことに、千尋はおもはゆさを感じ始めていた。

 幸い煙草を吸う様子はなかった。時々カーテンをつまんで外の様子を見、あとはパソコンに向かって何やら作業をしていることが多い。ほとんど休みもせずよく続くものだと千尋は感心した。

 画面に見入っていると左肩が少し前に出る。時々左の親指でこめかみをぎゅっぎゅっと押し、左から順に腕を返して筋を伸ばす。その仕草を、千尋はつい何度も頭の中で反芻はんすうしてしまう。

 たった一度浅葉があくびをした時、そのあごの関節が立てたぎしっという音。眠くなるとその辺りを動かしてぐりぐりと鳴らす癖があった。お陰で、千尋も今ではインスタントコーヒーを入れるタイミングをすっかり心得ていた。

 お砂糖とミルクどうしますか、という質問には、どっちでもいい、という返事が下ったため、ブラック、砂糖のみ、ミルクのみ、両方、と毎回量を変えながら出していたが、今朝砂糖を三本入れてやった時に少し減りが遅かった以外は特に変化がない。好みがうるさそうなイメージを抱いていたから、これは意外だった。

 カップは左に置き、持ち手は真正面よりも少し左にずらしたぐらいが心地良いらしい。飲み干してから決まって三度はからのカップを手に取るが、二杯目は入れてやってもほとんど口を付けない。トイレに行く回数を極力減らすためだと、昨日差し入れに来た長尾から聞いた。

 長尾隆平ながおりゅうへいは、浅葉に休憩を取らせるための一時的な交代と食料補給を兼ねて、おおむね一日おきにこの部屋を訪れることになっている刑事。二十代後半といったところか。ラガーマン風のがっちりした体格で、顔の下半分はひげで覆われている。

 普段は浅葉のパートナーとして共に任務にあたることが多いそうだが、今回千尋の護衛は一名体制ということで、長尾は取引現場を押さえるための捜査に回っているらしい。浅葉とは対照的でノリが良く、千尋にとっても一見強面こわもてだが話しやすい刑事さんという印象。

 浅葉は基本的に、床に寝袋を広げてごく短い仮眠をぽつりぽつりと取る程度だったが、昨日は長尾が来ている間にいくらかまとまった睡眠を取った。その間はさすがに長尾も集中していなくてはならなかったが、浅葉が二時間後に目を覚ましてシャワーを浴び、歯を磨いて出てくるまでの五分かそこらの間、千尋は長尾とちょっとした雑談をした。

 浅葉が少なくとも結婚していないことは、長尾との会話で判明した(もちろん、長尾自身に家族があるのかどうかを先に尋ねるのを千尋は忘れなかった)。仕事ばっかしてるから顔はえらいけてるけど、と断った上で、年齢はおそらく三十か三十一だろうと教えてくれた。二人は同期にあたるが、年齢と階級は浅葉の方が上だという。



 千尋がうつらうつらしていると、ピンポン、と呼びりんが鳴った。浅葉が人差し指を立てて、静かに、と千尋に合図し、玄関を見にいく。長尾なら昨日来たばかりだし、呼び鈴は使わず、ドアをノックするはずだ。四回、二回、三回の順、と決めてあるようだった。

 浅葉が戻ってくるのと同時に、隣の部屋の呼び鈴らしき音がピンポン、と小さく聞こえた。

「何か、セールスみたいだな」

 それを聞いてホッとしたついでに、浅葉に話しかけるタイミングをうかがっていた千尋は、これ幸いと口を開いた。

「あの……」

 浅葉は早くも座ってパソコンに向かっている。そのままの姿で、声だけが返った。

「何だ」

「実はですね、ちょっと……」

 浅葉はマウスで画面をスクロールさせている様子。千尋が黙っていると、その手が止まり、まばらに髭の伸びた顔が半分だけ振り向いた。床に落ちた視線は、相変わらず千尋のものと合うことはなかった。鋭いようでいてどこか物憂ものうげなその目に、千尋はつい言葉を失ってしまう。

「どうした?」

と再びたずねる浅葉の声に、はっと我に返る。

「あの、必要なものがありまして」

 浅葉はまばたきを一つすると、

「ああ」

と独り言のように呟くなり、また画面に戻ってしまった。

(え? ちょっと、何がるのかぐらい聞いてよ)

「あの……明日辺りから、始まりそうなんです。その……」

 千尋は遠慮がちに付け足す。慌てて出てきたので、女子としての準備をすっかり忘れていたのだ。忘れていても、来るものは来てしまう。

 浅葉は低く、しかしはっきりと答えた。

「ちゃんと間に合うように用意してやる。心配するな」

 ちゃんと通じたのかしら、という幾許いくばくかの不安が、思わずはっとするほど温かいその響きにたちまちかされていった。
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