君の思い出

生津直

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第1章 護衛

3  隠れ家

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 浅葉は、突き当たりの大部屋で上司の石山いしやまを呼び止めた。

「課長」

「ん、もう出るのか」

 振り向いた石山に、端的に告げる。

「部屋を変えます」

「何?」

 浅葉は一枚の紙を石山に手渡した。候補物件の一つに赤線が引いてある。

「随分急だな」

苑勇会えんゆうかいは、頭脳と戦力は大したことありませんが、耳の早い集団です。念には念を」

 石山は一瞬怪訝けげんな顔をしたが、もう一度その赤線の住所に目をやり、浅葉に返した。

「まあ、いいだろう。大勢に影響ない。しかし部屋の準備が……」

「できてます。それから」

「何だ」

「要員を増やしてもらえませんか」

 石山は眉間みけんしわを寄せた。

「何だと? お前も状況はわかってるだろう」

 このところ各所で急な動きが続き、課の人員は出払っていた。

「今じゃなくていいです。長期戦になった場合」

「まあ、その時の様子次第だな」

「可能でしたらお願いします」

と頭を下げると、先ほどの物件リストをシュレッダーにかけ、浅葉は再び廊下に出ていった。紙が粉砕ふんさいされる音を聞きながら、石山はその背中を見送った。

「相変わらずだな」

 時々よくわからない行動に出る。しかし好きにさせてみれば結果オーライ、という展開が常だ。昔から、どういうわけか鼻がく奴というのがいるものだ。そんな奴ほど岩のごとく頑固だと相場が決まっている。

「親父ゆずりか……」

 石山は冷めたコーヒーをすすり、デスクに戻った。



 個室が三つある、どこにでもある女子トイレだった。急いで用を済ませた千尋は、手を洗いながら、鏡に映った自分の顔に幻滅げんめつしていた。もともと器量は悪くないつもりだが、寝不足と飲み過ぎがうかがえる顔色だ。

 髪もボサボサ。もともと少し茶髪気味で一度も染めたことがないせいか、傷んでいないのが自慢ではあるが、今日は緩くうねった毛先が鎖骨の辺りで好き放題に散らばっている。

 昨晩は予想外に盛り上がってしまい、三次会の後カラオケに行って、そのまま「朝までコース」だった。思えば一年の頃は徹夜オール明けでそのまま一限に出ても特にバレることもなかったが、このところ顔に出るようになった気がしている。二十一なんて、もう若くない。

 今朝は始発で帰って二時間ほど眠ったが、午前中からバイトがあった。そのバイト先で休憩時間に着信記録を見付けて折り返してみれば、警察からの呼び出し。

 着の身着のままとは言わないが、何とかシフトを引き継いでもらって抜け出し、急いで自宅に戻って最低限のものを詰めるのが精一杯だった。護衛が付くのが一体いつまでになるのか、予定は未定、と言われている。大学の夏休み中だからまだいいようなものの……。

 と、その時、勢いよくドアが開いた。

「五分ったぞ」

容赦ようしゃなく言い放つ浅葉の目は千尋の顔をとらえてすらおらず、その姿はすぐに廊下へと吸い込まれていく。

「あ、はい、すみません」

(ていうか普通、女子トイレ開ける?)

 慌ててバッグを手に追いかける。浅葉はジャケットにそでを通しながら、さっさと廊下を歩き始めていた。外に出て、駐車場の一角へと向かう。その懐から取り出されたキーに反応したのは、ごく普通の白の乗用車だ。

(そりゃ、パトカーじゃ目立っちゃうもんね)

 浅葉は振り向きもせず運転席に乗り込む。千尋は、怒られてはかなわないと、急いで後部左側から乗り、助手席の後ろに座った。運転も荒っぽいのだろうかと身を縮めていると、車は滑るようにいつの間にか発進していた。

(機嫌が悪いってわけじゃないみたいね……)

 千尋は諦めにも似た気分で、おとなしく車に揺られることにした。



 三十分後、車は速度を落とし、住宅街を走っていた。

(あれ? ここ、さっき……)

 同じごみ捨て場をちょっと前に見たような気がした。

(まさか迷ったわけでもないだろうけど)

 間もなく、車が端に寄ってまった。浅葉がドアを開けて降りていく。

(何もご指示はないけど、私も降りろってことね、当然)

 ドアを開け、どうせこの人はまたさっさと行ってしまったのだろうと思いつつ歩道に降り立つと、目の前にその姿があった。しかしその目は千尋を見ずに、周囲を見回していた。

「いいか、よく聞け」

「はい」

「ここから四分歩く」

(四分って……こまかっ!)

「俺から離れるな」

「えっ?」

 真剣な目だった。

「一歩以上遅れるな。行くぞ」

(えっ、ちょっと……)

 千尋が事態を飲み込めないうちに浅葉はもう歩き出している。千尋は必死で後を追った。

 付いていくのがやっとで、どこをどう通ったか定かでない。何となく人通りが少ない場所のようだった。着いたところは、三階建てのアパート風の建物。かなり年季は入っているが、ボロいというほどではない。階段で二階に上がる。中ほどの部屋の前で浅葉は足を止め、鍵を出してドアを開けた。

 中に入ると、すぐ左手にバスルームらしきドア。一つしかないところを見ると、洗面台とバス、トイレが一緒になっているのだろう。その向かいのくぼみに二口のコンロがあり、あとはごくシンプルな長方形の部屋が一つあるだけ。

 左手の壁沿いにベッドが置かれ、右手には簡素なデスクと椅子。椅子を下げたらベッドに当たる距離だ。デスクの隣に冷蔵庫、小さなテーブルの上に電子レンジ、その向こうにテレビがあった。窓にはカーテンが引かれている。

 浅葉はその隙間すきまからしばらく通りを見ていたが、やがて鞄からノートパソコンを取り出し、デスクの上にセットし始めた。

「あの……」

「何だ」

 特に迷惑がっている風でもないが、少なくとも愛想を振りまく気はないらしい。

「ちょっと寝てもいいですか?」

 昨日の徹夜が響いていた。浅葉は、手を止めるでも視線を寄こすでもなく、自分の作業を続けながら淡々と言う。

「好きにしろ」

「あの……」

「何だ」

「ベッドが一つしか……」

「それはお前のだ」

(お前呼ばわり……)

 こうなったらこっちもいちいち気をつかってなどいられない、と千尋は開き直った。

「そうですか。じゃあ好きにします」

とベッドカバーをめくったが、何かがおかしい。よく見ると、ベッドは窓側を頭にして置いてあるのに、枕は壁側、つまり足元に置かれているのだった。まあホテルじゃないから間違いぐらいあるか、と枕を頭側にぽんと放ると、浅葉の鋭い眼光が突き刺さる。

「頭が壁、足が窓だ」

「はい、すみません」

 いちいち怒られるから早く寝てしまおう、と布団に潜り込む。意外にも寝具は新しく用意されたもののようで、洗い立ての香りがした。千尋は一分とかからず眠りに落ちていた。



  * * * * * *



 微かな寝息が徐々に深くなっていくのを聞きながら、浅葉は彼女の姿に目をやらぬようおのれを律していた。

 まだ記憶に新しいあの日のほろ苦い逢瀬おうせから、今背後で眠っているこの女性を理性で切り離す必要があった。

 今日までの一週間と、今日からの一週間、どちらが長いだろう……。



  * * * * * *

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