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第3章 止まったままの、時間。

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━ねぇ、まだ帰ってこないの?━

━すまない、今渋滞にはまってて……もう少しで帰るよ━

━もう少しで、私の誕生日、終わっちゃう……お父さんは、いつも私の誕生日、仕事だね。━


━急いで帰るよ。大丈夫。今日中にはなんとか帰れそ━



ベッドの上で、メールを何度も読み返す少女がいる。
電気もテレビもつけず、真っ暗な部屋で。

少女の表情は暗く、少々やつれてさえいる。
机には、おそらく母が差し入れてくれたであろうおにぎりが2つ。それも手付かずの状態で残されていた。


「本当に、なんとお詫びを言ったら良いのか……どうか、会わせてはくれませんか?お顔を見て、お詫びがしたいのです……。」

下の階からは、母が電話ごしに何かを懇願している。

「申し訳ございません!申し訳ございません……」

何度も、何度も詫びる母。

その声を聞きたくなくて、少女は布団を頭まで被る。


どうしてこうなってしまったのか。
平凡だが幸せであった日常は、一夜にして悪夢へと変わった。

親友からのメールが届いていた。
少女は内容も理解しないまま、思ったままを返信する。

相手も感情をむき出しにしたような返事が帰ってきたが、今の少女にはそれに真っ向からぶつかるような気力も、精神力も持ち合わせていなかった。

投げるように携帯を枕元へと置き、少女は目を閉じる。

「もう、疲れた……」

吐き捨てるかのように呟いた少女。


「うた……出掛ける準備はできる?もう一度、みらい中央病院前へ行きましょう。」

うたと呼ばれた少女は、少し考え、

「わかった……少しだけ、待って。」

と辛うじて母が聞き取れる程度の大きさの声で答える。


着替えを済ませ、携帯を手に取る。
メール画面を開く。

━なんとか帰れそ━

中途半端な文面で送られた、自分への返信。


「私のせいで……ごめん。」

誰に詫びたのか。うたは涙を堪えながら、絞り出すように呟いた。



母とともに、夜の病院へと向かった、うた。

「もう、来ないで欲しい。そう伝えたはずです。」


しかし、待っていたのは、想像通りの言葉だった。
目の前に立つ、テレビや雑誌でよく見たことのある青年は、冷たく、母にそう言い放った。

「あ……」

予想通りであったものの、言葉が出ない母。
精一杯、青年に誠意を見せようと躍起になっていた。自身は全く関係ないのに。

父が、女性を車ではねた。
原因は、運転中の携帯メールで前方を見ていなかったことによる信号無視。

気が動転していたのか、父は応急処置も通報もしなかった。

幸い、女性は一命をとり止めたものの、未だ意識が戻らず眠ったままなのである。

この青年の背後、個人病棟の一部屋で。

父は、事故後の救護措置、警察への通報を怠ったとして罪に問われ、懲役を課せられた。
気の優しい父は、きっと何も出来なかったのであろう。それでも、一般的な目は厳しかった。
職を失い、信頼も失い、懲役を課せられた父。母はそんな父と離婚もせずに、責任を果たそうとしていた。

「お願いです……お話だけでも!」

そんな母の姿を見ていたら、うたは自然と声をあげていた。

「悪いのは……父です。母は悪くない。ですからお話だけでも、聞いていただけませんか?」

悪いのは父。

その原因を作ったのは、自分。胸がずきずきと痛んだが、必死に耐えて青年に言葉を伝える。


目の前の青年の事は良く知っている。

麻生  響。
天才的なピアニスト。

有名歌手の歌をカバーした楽曲がランキング1位を獲得。
世界的なコンクールやオーケストラへの参加など、若手ピアニスト達の筆頭とも言える存在である。

なにより、うたが惚れ込んだのは、その演奏。
ピアノを奏でるだけで、その楽譜の背景にある様々な感情や情景を想像させるほどの表現力。

そして響が作曲した楽曲を聴いたときの衝撃。
優しさと切なさの詰まった、それでいてあたたかい音色に、一瞬で心奪われた。

『あぁ、この人の伴奏で、一生に一度だけでも歌えたら幸せだな』

この時、うたはそう思ったのだ。

今回、母と同行して病院に来たことにも、理由がある。
あれほど繊細な、優しい曲を作る響であれば、これほどまでに必死な母の誠意をきっと受け止めてくれる、自分が後押しをすれば、彼も分かってくれる。

そう、信じていたから。


「それでも……帰って欲しい」

響の口から発せられた言葉は、うたの期待通りとはいかない、冷たいものだった。

何とか分かって欲しい、そう思い口を開きかけたのを察したのか、それを遮るように響が口を開く。

「貴女達の事情がどうであれ、さくらが轢かれ、目が覚めない、そしてこれからの夢も希望も絶たれているのは……事実だ。貴女方が何と言おうと、それは変わらないし、金で解決できる話じゃない。」

うたは、自分の考えの甘さを痛感させられた。
父が、刑事罰を受けていようとも、母が一生懸命謝罪していたとしても、相手の女性が目を覚ましているわけではない。
普段通りの生活も出来ていないし、何より響自身、活動を制限されているのである。

母が一生懸命だから許して欲しい……と言うのはたぶん、こちら側の勝手なのだろう。

でも、それは自分のせい。
自分が、父にメールしたから。
誕生日、帰りが遅いと拗ねたから。
父は、一生懸命自分と接してくれていたのに。
母は、私の事をひとことも責めず、必死に謝罪してくれているのに……

悔しさが、響に対してではなく、自分に対して溢れてきた。

━それは、全部私のせい━

言葉を発しようとした、そのとき。

「失礼します。」

それを遮るように母が響とうたの間に立ち、深々と頭を下げた。


「お母さん!」

どうして?と言葉に出来ない疑問を母の背中にぶつける。母は答えることなく踵を返し、立ち去ろうとする。

「~!」

何も言えないまま、うたは母の背を追った。


早歩きの母を追っているうちに、病院のエントランスに辿り着いた。。

「お母さん、どうして?私のせいじゃない!私がお父さんにワガママなメールしたから……」

母は振り返らない。

「私が謝ってくる!お母さんは悪くな……」

語気を荒げるうたを制するように、母は首を振る。

「それでもね、相手の方は目を覚まさないし、お父さんがひいてしまって、対応をしなかったの。それは事実。私はそれに対して、謝る義務があるのよ。あなたは関係ない。」

優しく微笑む母に、涙が溢れる。
こんな時にも、原因を作った自分を責めずに、気丈に振舞う母に……

「ごめん……なさい!」

自然と、涙が溢れてきた。何度も何度も、泣きながら母に謝る、うた。
そんなうたを、母は優しく抱き寄せ、耳元で言う。

「お父さんの帰りを心待ちにする甘えん坊な娘の、何が悪いことなの?あなたは悪くないのよ?」


母は、うたを力強く抱きしめ、そう言った。

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