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第1章  ピアニスト

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音楽教室を出た響。
自宅は徒歩で行ける距離なのだが、大通りに出ると、タクシーを拾った。

「みらい中央病院まで」

響が運転手に告げた場所は、大通りからタクシーで15分の距離にある、大病院である。


綺麗な外装の、大きな病院へと着いた響は、受付で看護師に挨拶を交わす。

「麻生さん、今日もお見舞いですか?ここのところ毎日ですね。」

「まぁ・・・日課みたいなもので。ご迷惑はかけませんので・・・」

「迷惑だなんてとんでもない!!たくさん顔を見せてあげてください。きっと喜びますよ」

「ありがとう。」

この病院において、響は看護師たちの馴染みの顔となっている。
それは、これまで幾度となくこの病院に通っているからに他ならない。
迷うことなくエレベーターへ進み、「10F」のボタンを押す。

10階。個室のフロア。
すっかり暗くなった廊下を進み、ある表札の部屋の前で立ち止まる。

『宮下 さくら 様』

ノックもせずに、扉を開ける響。

「入るぞ」

真っ暗な室内に、ピッ・・・ピッ・・・と規則的に闇に電子音が響く。
響は手探りでスイッチに手を伸ばすと、電気を点けた。

「悪い。遅くなったな」

ベッドに横たわる女に声をかけると、傍らの椅子に座る。
横たわる女性は、響の言葉にも反応せず、ただ、眠っていた。
そんな女性に、響が悲痛な表情で声をかける。

「さくら、お前・・・いつ起きるんだよ」

返事のないさくらをただ見つめ、乱れもしない毛布を掛け直す仕草を見せる。



覆面歌手、SAKURAが『初雪』で1位になってから、半年後。
SAKURA本人である宮下 さくらは事故に遭った。

運転手は携帯でメールを打ち込んでいる途中で、赤信号にも横断歩道を歩くさくらにも気が付かなかったらしい。
さくらを轢き、車からは降りたものの、茫然自失で救命措置も通報もしなかった運転手。
たまたま周辺にいた人達が救急車を呼んだ。

運転手はその場で逮捕され、さくらはすぐに病院へ運ばれ一命をとりとめた。
しかし、今もさくらの意識は戻らないまま。

その後、何度か運転手の妻と娘が病室を訪ねてきたが、響は決して中には入れなかった。医療費に、と差し出される現金の束が入った封筒も、受け取らなかった。



響とさくらには両親がいない。不幸にも4人同時にこの世を去った。それも事故死。
だからか、響はさくらを自分の手で守りたかった。

「親子そろって、事故で・・・とか、神様はバカなのか・・・?」

響は、カーテンを開け、真っ暗な外に向かい、呟いた。



目を覚まさない、さくら。
静かな室内。
響く電子音。

ただ、過ぎていく時間。

そんな空間を壊したのは、看護師のノックの音だった。


「麻生さん……すみません。石神さんが……」

『石神』という名前に、響の表情が強張る。
石神とは、さくらを撥ねた運転手と、同じ苗字であった。

「お通ししないようにお願いしてあるはずですが」

看護師は決して悪いことをしているわけではないのだが、つい口調が冷たくなる。

「私もお断りしたんですが……今夜はどうしても、と。」
事情を知っているのか、看護士も対応してくれたのだろう。申し訳なさそうに響に告げる。

困った顔の看護師に、響はつい自分が興奮してしまっていたことに気付き、申し訳なさそうに頭を下げる。

「すみません。あなたのせいではない……」

そして扉の方を見る。小さな磨りガラスに映る、人影がふたつ。
良く、見慣れた人影であった。

「……俺が行きます。」

響は昂りそうになる気持ちを抑えながらも、人影の方へと向かった。


病室から外へ出ると、ふたりほど、響を待っていた。

ひとりは40代ほどの女性。何度も見る顔。
さくらを車ではねた『石神』の妻。
何度も響に金をもって謝罪に来ているが、響は受け取らず、面会すら遠慮するよう求めている。

そして、もうひとりは……
初対面。
見た感じ、高校生だろうか?
細身で長い黒髪。整った顔立ち。
しかしその美しい顔立ちは曇って見える。


「こんばんは。どうかお話だけでも……」

女性が響を見るなり歩み寄ってくる。

響は女性の顔を見ようともせず、
「もう、来ないで欲しい。そう伝えたはずです。」
と冷たく突き放す。

「あ……」
何か言いたげな顔をするも、沈黙し、下を向く女性。響は女性を見もせず、背を向ける。
その時。

「待ってください!お話だけでも!」

女性と一緒にいた、高校生くらいの少女が、響を呼び止めた。

少々驚き、振り返る響。少女はその様子を見逃すことなく、言葉を続ける。

「悪いのは……父です。母は悪くない。お話だけでも、聞いていただけませんか?」

少女は、『石神』の娘だったらしい。その瞳に涙を溜めながら、それでも溢れないよう堪えながら、響に言葉をぶつける。
少女の熱意に、響は心が揺らぎそうになった。
しかし、さくらの様子を思い出すと、揺らぎそうな心が再び凍り付く。

「それでも……帰って欲しい。」

響は、絞り出すように言った。

「貴女達の事情がどうであれ、さくらが轢かれ、目が覚めない、そしてこれからの夢も希望も絶たれているのは……事実だ。貴女方が何と言おうと、それは変わらないし、金で解決できる話じゃない。」

ふたりの気持ちはわかる。だからこそ……

響はふたりに背を向けて言った。振り返ってしまったら、ふたりの表情を見てしまったら、言葉や気持ちが揺らいでしまう、そんな気がしたから。

「失礼します。」

そんな響の背に、深々と頭を下げ、女性は立ち去ろうと歩きだす。そんな女性の背を、

「お母さん!」

と追っていく、娘。

響は、ふたりの足音が消えるまで、その場を動こうとはしなかった。
いや、その場から動くことが出来なかった……。


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