聖者の漆黒

中岡いち

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第四部「回帰」第2話

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 最初は覚束無おぼつかない足取りに思えた。
 本祭壇ほんさいだんの前に腰を降ろしたのは、御簾世みすよと三十年以上ぶりに相対あいたいする麻紀世まきよの姿。
 御簾世みすよと同じ年数を重ねた麻紀世まきよの立ち振る舞いは、例え当主の座を義理の娘の憂紀世うきよに受け渡したとておとろえてはいなかった。それでも巫女みこ服の着崩れたようなしわが目立つ。服を着替えるのにも時間が掛かるのか、事実として御簾世みすよ祭壇さいだんの前でしばらく待たされていた。
 麻紀世まきよやまいせっているのは伝え聞いていた所。しかし御簾世みすよはそれに情を動かされたとは思っていない。
 総ては亥蘇世いすよの存在。
 数日前に夢に現れた事が始まりだった。

     〝 のろいには、必ず代償だいしょうともないます 〟

 それは御簾世みすよにも分かっていた事。神社で巫女みことしての修行をしてきた人間が知らぬはずが無い。
 それでも御簾世みすよ麻紀世まきようらんだ。
 御陵院ごりょういん家をうらんだ。
 御陵院ごりょういんの〝血〟をうらんだ。
 そして、総ての元凶と思えた〝清国会しんこくかい〟をうらんだ。

     〝 そのおもいは、やがてかたちを持ちます 〟

 何度も繰り返される亥蘇世いすよの言葉は、やがて目が覚めてからも続いた。

     〝 が、やっと見付かりまして御座います 〟

 その意味は御簾世みすよには分からないまま。

     〝 手遅れになる前に、御早く 〟

 数日、亥蘇世いすよの〝まぼろし〟に気持ちをき乱されながら御簾世みすよは悩んだ。
 みずから望んだ未来。それを〝のろい〟で具現化ぐげんかしてきた。そこには何の迷いも無かったはず。その代償だいしょうも見返りも覚悟してきた。そして、事実としてみずからも楢見崎ならみざき家の血の継承けいしょうで苦しんできた。
 男子おのこのろい殺され、女子おなごには傷一つ付けずに守り続けなければならない。
 それでも気持ちのどこかによどみがある。
 それは松明たいまつの下であわく光を放つうずのように、御簾世みすよの奥底に小さくくすぶっていた。
 いつからか、それは御簾世みすよの中で迷いへと変化していたのかもしれない。しかしすでに手遅れだとも感じていた。今更いまさらになって時を戻す事など出来ようはずもない。
 どこかで御簾世みすよあきらめていたのかもしれない。そんな御簾世みすよが、どういうわけか亥蘇世いすよに動かされた。最初は〝今更いまさら〟という気持ちを抱いたのも当然だっただろう。今更いまさら現れてのろいを終わらせろという。簡単に受け入れられるものでは無かった。
 しかし〝手遅れ〟という亥蘇世いすよの言葉が心をつつく。

 ──……手遅れ…………? どうにか出来るとでも…………

 そこにわずかながらの希望を見出したい気持ち。
 そこに踏み込む不安と恐怖。

 ──……私の望む未来は…………

 のろいにおもいの総てを求めた時点で、御簾世みすよは地獄を覚悟してきた。それは宗教概念がいねんとしての人間の作り上げた地獄ではない。
 みずからの残りの人生での地獄。
 そこに〝幸せ〟などあろうはずが無い。
 そして、それを自ら求めた事への贖罪しょくざい等は一片いっぺんも無かった。
 それでも、心の奥底の、鍵を掛けたはずの引き出しの存在を思い出す。そして御簾世みすよはその鍵を見失う。
 その鍵を御簾世みすよに手渡したのは、亥蘇世いすよだった。
 そして、御簾世みすよ御陵院ごりょういん神社を訪れる。
 麻紀世まきよの元を訪れる。
 あの世で相対あいたいするまでは会う事は無いであろうと思って生きてきた。しかしお互いにのろいを掛け続けた結果として、少なくとも御簾世みすよの中で何かが変化してきていた事は認めざるを得ない。もちろん三十年以上会っていない麻紀世まきよの気持ちなど分かりようもなかった。お互いに今更いまさらゆるし合える関係性でもないだろう。
 長い年月の中で、うらみ続けてきた。
 その相手が、今、祭壇さいだんを背に、目の前にいる。
 歳を重ね、やまいのせいかやつれようとも、その立ち振る舞いは御陵院ごりょういん家最後の〝血〟。
 その麻紀世まきよは目の前の板間いたまに落としていた視線をゆっくりと上げた。御簾世みすよと目を合わせれば心を操られるやも知れぬという気持ちはわずかにあった。それでも麻紀世まきよは視線を上げていた。負けるつもりは無いという気持ちの現れとも違う、と麻紀世まきよ自身感じる。
 麻紀世まきよにとっての〝おもい〟から出る行動だった。
 自分は御簾世みすようらんでいるのか。
 いまだに御簾世みすよにくんでいるのか。
 麻紀世まきよ亥蘇世いすよの〝まぼろし〟を見るようになってから、気持ちが揺れ動いていた。もはや自分がどんな未来におもいをせたのか、今となってはそれはまるできりに包まれたかのように見えない。

 ──……私が願ってきたものは…………何だ…………

 ──…………望んだものは…………失ったものは…………

 お互いに口を開く事のないまま、二人の間を時が流れていった。
 やがて、麻紀世まきよの目が、わずかにうるむ。
 そして、その口角がかすかに上がった。
 小さく開く。
「…………元気そうですね…………」
 その声に、御簾世みすよは体を大きく折り曲げ、板間いたまに両の指を着き、深々と頭を下げていた。
 自然と体が動き、そして口を開く。
「……御無沙汰ごぶさたしておりました…………麻紀世姉様まきよねえさま…………」
 わずかに震えるその声を、御簾世みすよは隠そうとはしなかった。
 時は残酷ざんこくだと言われる。
 その意味を、人はあまり考える理由へといたる事は無い。それでも、二人にとってはどうなのか、それは二人にとっても分からない事。分かろうとする必要も無かった。
 時は残酷ざんこくではない。
 時は事実を重ねるだけ。
 そして二人の間には、総てがあった。
 過去ではない。
 今があった。
 お互いに次の言葉が見付からない。
 やがて聞こえる声は、柔らかく、優しい。

     〝 同じですよ 〟

 それは、間違いなく亥蘇世いすよのもの。
 二人とも、ただ耳をかたむける。

     〝 我々われわれには同じ血が流れております 〟
     〝 それは母上から受け継がれたもの 〟

「その血をわかつようにして…………私たちはお互いの〝おもい〟をぶつけ合って参りました」
 亥蘇世いすよの言葉に繋げたのは、御簾世みすよだった。
 御簾世みすよは頭を上げ、さらに言葉をつむぐ。
「今…………その〝血〟は……戻されるべきと感じております…………」
 麻紀世まきよの唇がわずかに震えていた。やがて大きく開いた目は、御簾世みすよの赤い目を見つめる。その柔らかい目元は、麻紀世まきよの初めて見るものだった。
 大きく広がる目尻めじりしわ。そのしわですら今はいとおしい。
 しかし、同時にそのことの難しさに目を閉じる事は出来ない。
「しかし…………」
 やっと声を絞り出した麻紀世まきよが続けた。
無様ぶざまなもの…………あの時はあれほど清国会しんこくかいあこがれを持ち、清国会しんこくかいほっし……それなのに後少しの所で掴み損なった…………今では金櫻かなざくら家の所在すら分からぬ始末しまつ…………清国会しんこくかいも今や存在そのものがちています…………」
 様々な内紛ないふんが起こり得る事は以前から取り沙汰されていた。組織は大きくなればなるほどその管理が難しい。しかも大きくする事には時間は掛かるが、縮小する時は簡単に崩れていく。清国会しんこくかいもその流れには逆らえなかった。
 御簾世みすよ金櫻鈴京かなざくられいきょう行方ゆくえが分からなくなっている事までは知らなかったが、きょうみやこ清国会しんこくかいの力が弱まっていることは伝え聞いていた。
 もはやのろいを掛け合った根源こんげんすらも揺らいでいる現実。
 その中で、御簾世みすよ亥蘇世いすよに気持ちを揺さぶられた。
 何が正しいのか、何が正しかったのか、後悔こうかいだけが自分を苦しめていくのを感じるたびに、頭に浮かぶのは麻紀世まきよの事ばかり。
 その麻紀世まきよが言葉を繋いだ。
「終わらせられるのですか……〝今〟を終わらせねば……また同じ事を繰り返す…………」
亥蘇世姉様いすよねえさまもおります」
 応えた御簾世みすよの声はりんとして清々すがすがしい。

 ──……今日ここに来た事は……絶対に、間違いではない…………

 麻紀世まきよは声を震わせて返していた。
亥蘇世いすよに……私はうらまれてはおるまいか…………」
亥蘇世姉様いすよねえさまは〝まぼろし〟では御座いませんよ……姉様あねさま…………」
 麻紀世まきよは常々、自らが作り出した亥蘇世いすよ幻影げんえいとらわれていると感じていた。時を重ねると同時に積み重なっていくつみの意識なのか、それもまた自分に課せられた〝代償だいしょう〟だとも思っていた生き方。
「今…………私たちの間におります」
 その御簾世みすよの声に、麻紀世まきよは背中に熱を感じた。

 ──……あたたかい…………

 それは決して〝の念〟ではなかった。
 言葉に出来るものでもない。
 ただ、亥蘇世いすよの存在を感じた。
 そして言葉をつむぐ。
我等われらの〝つみ〟を終わらせられるのは…………この御陵院ごりょういん神社しかあるまいな…………」
「古くより……はらい事にけた我等われらの血なら…………」
 その御簾世みすよの返しに、亥蘇世いすよの声が重なった。

     〝 すでに、のろいはかたちを持ち始めております 〟

「〝かたち〟? それは────」
 反射的に口を開いていた麻紀世まきよに、尚も亥蘇世いすよの声。

     〝 もはやお二人のおもいだけでは御座いません 〟
     〝 お二人の手を離れようとしております 〟

御簾世みすよ
 言葉だけではない。
 そこにはしわに包まれたするどい目の麻紀世まきよがいた。
準祭壇じゅんさいだんへ」


      ☆


 音を立てて燃え上がる松明たいまつあかりが、準祭壇じゅんさいだんのある部屋を照らし出していた。
 他に明かりと呼べるものは無い。本祭壇ほんさいだんとは違い、閉鎖的な空間。比べても広さもそれほど無かった。ただ、煙を吸い上げる天井だけは高い。排気用の空間が天井裏をえし、外へと繋がっていた。
 松明たいまつの炎が作り出すものは光源だけにあらず、まるで目に見えるかのような熱。空気をゆがませるうねりが、幾重いくえにもなって麻紀世まきよ御簾世みすよの体に絡み付いていた。
 二人は並んで祭壇さいだんの前。
 顔を上げたまま目を閉じ、両手の指を胸の前でまじわらせる。
 麻紀世まきよ呪禁じゅごんに、御簾世みすよが応え続けていく。
 言葉に〝おもい〟を乗せ、再び、二人の中で気持ちがぶつかり合う。
 それを亥蘇世いすよが支え続けた。
 どれだけの時がったのか、三人の誰も気になど留めないまま、そこにあるのは〝望むべきおもい〟だけ。
 繰り返し繰り返し、松明たいまつが炎を上げる。
 それは、まるで意思を感じさせるものだった。
 しかし二人はおくさない。
 気持ちが引く事などあるはずがない。
 そこには間違いなく、御陵院ごりょういん神社の未来があった。

 やがて、炎が松明たいまつを燃やし尽くす。
 二人の呪禁じゅごんみ、しばらくぶりの静けさが辺りに漂っていく。

 音の静まりと共に、わずかばかりの煙が辺りに溶け始めていた。

 ──…………おさえたか…………

 麻紀世まきよの頭に浮かんだその言葉を、亥蘇世いすよの声が否定する。

     〝 いな 〟

 再び気持ちが張り詰める。

     〝 押さえ込んだだけの事 〟
     〝 終わってはおりません 〟
     〝 ここは御社おやしろ……この祭壇さいだんがある限りはおさえておけます 〟
     〝 残る懸念けねんは………… 〟

「…………楢見崎ならみざき……」
 反射的に御簾世みすよつぶやいていた。
 ゆっくりと、何時間かぶりに重いまぶたを開く。
 そこに映るのは、暗闇の中にあわく光るうずの頼り無げな灯火ともしびだけ。

     〝 楢見崎ならみざき家の祭壇さいだんへ 〟

祭壇さいだん?」
 麻紀世まきよの言葉に、御簾世みすよはすぐに応えていた。
「小さな物ですよ……私が作りました…………総てはあの祭壇さいだんから始まりし事…………」
 事実だった。それは御簾世みすよ楢見崎ならみざき家に嫁いですぐに作った物。もちろん神社程の大きさを誇る物などではない。座敷の一つに隠されるようにして作られた物だった。
 そして、そこで御簾世みすよは〝のろい〟をつむぎ続けた。
「……どうすれば…………」

     〝 行きますよ……御簾世みすよ………… 〟
     〝 待っている人がいます 〟

「誰が────」
 その御簾世みすよの言葉をさえぎったのは麻紀世まきよだった。
「────私も行く」
 しかし、それに返すように今度は御簾世みすよさえぎる。
「なりません……麻紀世姉様まきよねえさまの御体で半日の道のりは御命を縮めるようなもの。かごでも同じ事でしょう」
「しかし────」
麻紀世姉様まきよねえさまは…………」
 御簾世みすよは大きくつばを飲み込むと、続けた。
「ここで、御陵院ごりょういんの為に祈り続けて下さい…………後は私と亥蘇世姉様いすよねえさまで…………」
 すると、麻紀世まきよわずかにかすれた声を張り上げる。
憂紀世うきよ
 すぐに板戸いたどが開き、そこには巫女みこ姿の憂紀世うきよひざを降ろし、麻紀世まきよの言葉を待つ。
「急いでかごを────従者じゅうしゃも三人付けなさい……すぐに楢見崎ならみざき家へ────」


      ☆


 かごでもやはり時間は長い。
 楢見崎ならみざき家は小さな山を一つ超えた先。
 御簾世みすよの乗ったかごの後ろには御陵院ごりょういん神社の従者じゅうしゃの乗ったかごが三つ並ぶ。
 懐かしい感覚だった。
 あの時は、御陵院ごりょういん神社から逃げるように同じ道を歩いていた。
 しかもあの時と同じ深い夜。
 今回はどうなのだろう。ふとそんなおもいが頭の片隅かたすみぎる。

     〝 私も一緒ですから 〟

 亥蘇世いすよの声に、ささやかながらも御簾世みすよに笑みが浮かんだ。少なくとも肩は軽い。あの時は不安だけにとらわれていた。未来など見ようともしなかった。
 しかし今は違う。何かが解き放たれたかのような不思議な感覚。
 そして、一人ではない。

     〝 御簾世みすよそばだけではなく、麻紀世姉様まきよねえさまそばにも私はおりますよ 〟
     〝 御心配無く 〟

流石さすがです姉様あねさま
 小さく御簾世みすよは応えていた。

     〝 御簾世みすよにはかないませんけどね 〟

 その亥蘇世いすよの気持ちまでは御簾世みすよにはもちろん見えない。亥蘇世いすよは総てを見透かしているのだろうとは思っていた。
 あの時、亥蘇世いすよがどんな気持ちで最期さいごを迎えたのか、もはや御簾世みすよには想像するしかない。しかし何故なぜか聞こうとは思わなかった。それは聞く事が怖かったからとも違う。少なくとも違う感覚を御簾世みすよは感じていた。
 過去は変えられないもの。
 事実とは曲げられないもの。おこなったこと、終わったこと、いずれも受け入れるだけ。

 ──……だから私は…………未来を選んだ…………未来を望んだ…………

 やがて楢見崎ならみざき家に到着すると、御簾世みすよかごを飛び降りる。
 玄関から上がるなり、驚く使用人に向かって叫んでいた。
「火を! 祭壇さいだんへ!」
 迷いは無い。
 真っ直ぐと祭壇さいだんへ向かった。
 しかし、その祭壇さいだん先客せんきゃくがいるなど、それはまるで想定していない事。

 暗い座敷の祭壇さいだんの前。
 小さな後ろ姿。
 小さな白い装飾がほどこされた、黒い服。
 首筋の見える長さで切りそろえられた黒髪。
 その人物は祭壇さいだんに向かって座り、その服のすそ板間いたまに丸く広がる。
 小さな背中だった。

 そして、御簾世みすよは動けない。
 動けなかった。
 今まで誰からも感じた事の無い〝強さ〟────。
 その小さな存在は、あまりにも大きい。
 そこにあるものは〝おそれ〟そのもの。

 ──……このかたは…………

 御簾世みすよは廊下から板間いたまに一歩だけ進みり、ひざを着くと両の指を着いて頭を下げていた。
 深々と落とした口を開く。
御陵院ごりょういん家の御血筋おちすじの方と……御見受け致します」
 そこに、返るのは軽い声。
 しかし、伝わるものは重い。
「……嫌だね……血筋ちすじってさ…………どうにも私を離してくれないんだ…………」
 御簾世みすよが何も応えられないまま、その声は続いた。
「私をここに呼んだのは……あなただよね…………御簾世みすよさん…………」

 ──……そうか…………

「私は御陵院西沙ごりょういんせいさ…………御陵院ごりょういんの歴史の中で、一番の能力者…………御簾世みすよさんの、三姉妹の能力は総て私が継承けいしょうしてる。そしてあなたは…………この時を待っていたはず…………」

 ──…………私が………………

御簾世みすよさんと同じ沙智子さちこさんの目の色…………この屋敷の存在を私が知ること…………そして何より、私を上回る能力者…………その総てがまじわる時…………と…………」

 その言葉に、御簾世みすよの目に涙が浮かんでいた。

 ──……ありがとう御座います……亥蘇世姉様いすよねえさま…………


      ☆


「一体どこに行くんですか⁉︎」
 杏奈あんなの車が明らかな山道に入ったところで、さすがに助手席の美由紀みゆきも不安を隠せずに声を上げていた。
 しかも辺りはすでに夜の闇。不安を押し上げるには充分な時間。
 それは確かに西沙せいさからの電話での指示でもあったが、自分ごときが西沙せいさの力になれるなどとは微塵みじんも思っていないからこその不安。西沙せいさからは〝杏奈あんなが迎えに行くから風鈴ふうりんやかたまで来てほしい〟とだけ。
 確かに風鈴ふうりんやかたの話は聞いていた。まだ解決していない依頼であることも事務員としてはもちろん知っている。しかしそれに自分が関わる必要性だけはどう考えても理解出来ないまま。
 その美由紀みゆき風鈴ふうりんやかたまで連れてくるように指示された杏奈あんなの中も疑問だらけ。どうして美由紀みゆきが現場に行く必要があるのかの説明はなかった。
 よって、杏奈あんなが返せる言葉は一つだけ。
風鈴ふうりんやかたって覚えてます? 前に私が依頼した────」
「もちろんです。依頼料がまだ決まってませんのでファイルの一番上のままです。早く西沙せいさと決めてくださいね。西沙せいさってお金に関してはホントに────」
「あ、オッケー分かった分かった」

 ──……あれえ? この間のファミレス代の話は…………

「で? その風鈴ふうりんやかたがなんですか?」
 美由紀みゆきたたみ掛ける。極度の人見知りではあるが、杏奈あんなはなぜか西沙せいさが認めた相手。いつの間にか美由紀みゆきも普通に話せる間柄あいだがらになっていた。
「えっとね、何やらその風鈴ふうりんやかた美由紀みゆきちゃんを連れてきて欲しいって、西沙せいささんから頼まれて…………」
「それだけですか?」
「うん、それだけ」
「私も電話でただ来て欲しいって言われただけで…………」
「いつもにごすんですよねえ、西沙せいささんって」
「ホントですよ。ハッキリしないし…………」
 何も解決しない会話だけを繰り返したまま、車はさらに山の中へと入っていく。
 その日の午前中、西沙せいさ楢見崎ならみざき家に自分の車で向かったことまでは美由紀みゆき把握はあくしていた。午後になっても珍しく連絡がないことで不安は確かにあった。時間と共に退社をしようとしていたタイミングで西沙せいさからの電話を受けていた。
 すでに夜。

 ──……今夜のご飯どうするかも聞いてない…………

 自分の能力に自覚のない美由紀みゆきにとっては頭に浮かぶのはそんなことばかり。むしろそんなことを思わなくては冷静さを保てなかったとも言える。
 西沙せいさが仕事の現場に美由紀みゆきを関わらせるのは初めてのこと。当然、美由紀みゆきは現場での西沙せいさの姿を見たことはない。〝西沙せいさの世界〟に触れたことがなかったし、同時に自分では関わることが出来ないものだと思っていた。今回の西沙せいさの行動の真意など想像すら出来るはずがない。
「でも見付けられるのかなあ」
 ふと杏奈あんなが口にしたそんな言葉が、なぜか美由紀みゆきの気持ちをつつく。
「? どうしてですか? 前回行ってるんですよね」
「そうなんだけど……普通に探しても見付からないんですよねえ。だからオカルト的に盛り上がってるところもあるとは思うんですけど…………」

 ──…………あれ……?

 美由紀みゆきの頭に浮かぶ光景。
 林の中の開けた場所。
 大きな日本家屋かおく
 その中を埋め尽くすような無数の風鈴ふうりん
 その音までが聞こえた。
 それが、頭の中を埋め尽くす。

 無意識だった。
 美由紀みゆきは両手で耳を塞いでいた。しかし頭の中に響き渡る音をさえぎれるはずがない。
 全身を何かが走り抜ける。
「どうしました?」
 美由紀みゆきの変化に気が付いた杏奈あんなが声をかけるが、その声は美由紀みゆきの耳には届かない。
 無意識に瞳孔どうこうが揺れる。

 ──…………気持ち……悪い…………

 全身を何かが駆け巡った。
 体の中を誰かにぜられる感覚。
 前後も上下も分からない。
 不安を隠せない杏奈あんなおびえた目をした頃、車は目的地へ到着した。
 遊歩道の入り口。
 そこにはすでに、ヘッドライトを点けたままの西沙せいさの小さな車。
 そばには黒いゴスロリの西沙せいさと、和服の女性。その二人を杏奈あんなの車のヘッドライトが照らし出し、やがて光源を二人からズラしたところでブレーキを踏み込んだ。
 杏奈あんなはハンドルを握ったまま、振り返った西沙せいさに不安に包まれた視線を向ける。すると西沙せいさも気が付いたのか予想していたのか、近付いて助手席のドアを開けた。
 エアコンで冷やされた車内の空気が漏れる。
 そこには両耳を手でふさいで体を震わせる美由紀みゆきの姿。体を大きく折り曲げてうずくまったまま。誰が見てもまともな状況でないことはすぐに分かるだろう。
 西沙せいさはその背中に右手を当てる。
 熱かった。

 ──…………ごめん…………

 西沙せいさ美由紀みゆきの背中越しに杏奈あんなに声を掛けていた。
美由紀みゆきは大丈夫。この子はよ」
 西沙せいさの目は真剣だった。杏奈あんなの好きな、信じられる目。それでも今まで見たことのない美由紀みゆきの姿に不安を完全にはぬぐえなかった。もはや西沙せいさを信じるしかない。
 杏奈あんな美由紀みゆきの本当の姿を知らない。西沙せいさも何も話してはいなかった。事実として西沙せいさも今までその必要性を感じなかったし、出来るだけ誰にも話すまいと考えてきた。決して杏奈あんなを信用していなかったわけではない。美由紀みゆきが〝自分の世界〟に関わる余地よちを作り出したくなかっただけ。
 西沙せいさ美由紀みゆきそばに置いていたのは〝守るため〟。決して自分の世界に引きこみたいわけではない。しかし今回、美由紀みゆきを求めたのは西沙せいさではなかった。
 エンジンを止めて車を降りた杏奈あんなの表情は未だに不安なまま。それでも西沙せいさの近くにいる和服の女性が気になる。
 すかさず西沙せいさが口を開いた。
杏奈あんなは初めてだよね。楢見崎沙智子ならみざきさちこさん。一緒に風鈴ふうりんやかたに行くから」
 沙智子さちこが頭を下げるが、暗い中でもやはりその立ち振る舞いには美しさが伴う。日常的にこんな和装の女性と関わることはない。杏奈あんなにも少しながら緊張が生まれていた。
「あ、どうも……水月みづきです」
 こんな言葉しか返せない自分を少し恥ずかしくも感じたが、現場の緊張感はそれをしのいだ。それは西沙せいさ沙智子さちこの表情から来るものだけではないだろう。
 その緊張感を西沙せいさが繋ぐ。
「ジャーナリストだけど、信じられるパートナーだから安心して下さい」
 西沙せいさ沙智子さちこに柔らかい笑みを向けた。
 そして再び杏奈あんなきびしい表情を振る。
「入り口はここじゃないから……少し歩くよ」
「違うんですか?」
 反射的に返していた杏奈あんなに、西沙せいさはすぐに応えた。
沙智子さちこさんのお母さんに聞いたの。目印めじるしは無いけど……後は私が感じた情報だけで大丈夫」
 西沙せいさはそれだけ言うと車から美由紀みゆきを降ろし、頭から首、肩から腕、背中をさすり始める。
 やがてまだ少し息は荒いが、まるでそれに応えるように美由紀みゆきの体の震えが落ち着き始めた。
「だいぶ楽になったね」
 西沙せいさがそう言って美由紀みゆきの顔をのぞき込む。
 しかし返すように目を合わせた美由紀みゆきの目はいまおびえたまま。
 無理もなかった。美由紀みゆきにとっては初めての感覚。
 何かが自分の〝中〟に入り込む。
 その感覚を、西沙せいさ美由紀みゆきに味合わせたくなかった。そのために関わらせないようにしてきた。
 西沙せいさは悩み続ける。

 ──……どうすればいい…………これから…………

 ──…………守り切れるの…………?

 それでも今の現実へと振り切った。

 ──……もう引き返せない…………

 西沙せいさは車に戻るとヘッドライトを消してエンジンを切る。小さな懐中電灯を取り出すと小走りで美由紀みゆきの元へ。
「こっち」
 西沙せいさはそれだけで美由紀みゆきの手を引いて歩き始めた。
 杏奈あんなも車から懐中電灯を取り出してスイッチを入れる。
 その杏奈あんな沙智子さちこ西沙せいさたちの後へ続く。
 西沙せいさは遊歩道の入り口から道路沿いの森のふちを歩き始めた。通常なら森の入り口は遊歩道の入り口だけ。他には車を停められるようなスペースすらない。歩いてこんな山の中まで来る人もいないだろう。森の中に踏み込むなら遊歩道の入り口しかないはずだった。
 そしてやはり、杏奈あんなの中には不安と疑問だけではなく、どこか恐怖心も生まれていた。西沙せいさの表情からはずっと緊張感しか感じられなかったからだ。しかも美由紀みゆきを連れてくるように頼まれただけ。しかもそこには西沙せいさから聞いていた楢見崎ならみざき家の人間。
 〝風鈴ふうりんやかた〟に何があるのか。おそらく先が見えているのは西沙せいさだけだろう。
 弱々しい二つの懐中電灯のあかりだけが足元を照らす中、西沙せいさ美由紀みゆきの背中を追いかけながら、口を開いたのは杏奈あんなだった。
西沙せいささんから話はうかがってましたけど…………実は私も少し調べさせてもらってました。西沙せいささんからの依頼で」
「……そうですか……」
 沙智子さちこは寂し気な言葉を返していた。
 しかしその沙智子さちこの声に顔を振った杏奈あんなは驚く。
 そこにはまっすぐと前を見据みすえる沙智子さちこの横顔。しかもその目は力強い。

 ──……何かあったんだ…………

 杏奈あんなは確信した。
 〝風鈴ふうりんやかた〟と〝楢見崎ならみざき家〟、そしてそこには〝御陵院ごりょういん神社〟も絡んでいる。つまりは、今回の一件は西沙せいさ自身にとっても他人事ではなかった。

 ──……でも…………美由紀みゆきさんは…………?
 ──…………何者なの…………?

 そこに前を歩く西沙せいさの声。
「ここ」
「え?」
 驚いた杏奈あんなが無意識に返していた。
 無理もないだろう。他の所と何も変わらない。無数に並ぶ太い木と地面を隠す草の群れ。
 しかも西沙せいさは相変わらずのゴスロリ衣装。沙智子さちこも和装。西沙《せいさ》から服装の指定のなかった美由紀みゆきもロングスカートに低目のヒール。三人とも、とても深い森の中に足を踏み入れられる服装ではない。
 しかも夜。懐中電灯の小さなあかりは足元の総てを照らし出すことすら出来ていない。
「無理ですよ西沙せいささん、そんな所────」
 その杏奈あんなの声を無視し、美由紀みゆきの手を引いた西沙せいさが足を踏み入れた。
 二人とも、普通に入っていく。
西沙せいささん、ちょっと────」
「大丈夫です」
 杏奈あんなの言葉を遮ったのは沙智子さちこだった。
 その声が続く。
「母の言っていた通りでした……私も来るのは初めてですが…………」
 沙智子さちこも二人の後に続く。

 ──……どういうこと…………?

 そして、沙智子さちこの後に続いた杏奈あんなはただ驚いた。
 それまでは地面すら見えなかったはず。しかし今、杏奈あんなのアウトドア用のハイカットブーツは平らな石の上。

 ──…………道がある…………

 しかもそれは目の前を長く続く石畳いしだたみ。明らかに人工的な道。間違いなくさっきまでは見えてなどいなかった。それなのに今は目の前にある。
 なか呆然ぼうぜんとしながらも、杏奈あんなは三人の後ろに続くしかなかった。
 そこに聞こえてきた声は西沙せいさのもの。
「元々住んでた人がいるってことは、どんなに古くても道はある。そう思ってた。でも今は普通の人には見付けられない道になってる…………〝御陵院ごりょういんの血〟を持ってないとね」
「……御陵院ごりょういんの血…………」
 反射的に杏奈が呟く。
 西沙もすぐに返す。
楢見崎ならみざき家の人たちにも流れてる…………」

 ──…………親戚しんせき…………

 西沙せいさが繋げた。
「終わったら……全部説明してあげる。でもごめん杏奈あんな……杏奈あんなの仕事にはなりそうないけど…………」
 その言葉に、やっと杏奈あんなの顔に笑みが浮かぶ。
 そして口を開いた。
「この間、安くしてもらったんで」
 すると、西沙せいさの口にも笑みが浮かんだ。
「あれだけじゃ足りないかもよ」
 そう言った西沙せいさの表情が、なんとなく杏奈あんなには想像出来た。
 知り合って一年近く。
 杏奈あんなはオカルト的な事象じしょうを何度も西沙せいさに相談してきた。もちろんそれは仕事のため。ただの興味本位からだけではない。言わば西沙せいさに助けられてきた。
 今まで科学では割り切れないような事象じしょうをこの目で直接見たのは、せいぜいが西沙せいさが誰かの内面を読み取るような場面だけ。そしてそれに恐怖を感じたことはない。
 しかし、今は、怖かった。
 普通に生きてきた人間が言葉で説明の出来るものではない。
 昔と違い、近代になって科学的に説明されたオカルトの事象じしょうも確かに多い。それは杏奈あんなも勉強して知っている。西沙せいさもそういうことには明るい。ただの能力者ではない。だからこそ杏奈あんなも信頼してきた。
 それでも、いまだ世の中には理解の出来ないことがある。
 それを今、杏奈《あんな》は自分の目で見せられた。

 ──……これが…………西沙せいささんの世界………………

 ただ不思議なだけではない。
 そこに恐怖がともなうことを実感した。

 ──…………覚悟がいる………………

 そして、聞こえる音。
 小さく風に乗っていた。
 木々のざわめきに紛れる音。
 しだいに増える、音の粒が空気に流れた。
 それがゆっくりと周囲に広がっていく。

 ──……あの時と同じ…………風鈴ふうりんの音だ…………

 すでに後戻りなど出来ないことを、杏奈あんなは感じていた。




       『 聖者の漆黒 』
             第四部「回帰」第2話・終
                 第3話(最終話)へつづく
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