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1巻
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一
老若男女問わず、人に好かれることはいいことだ。
善意に対して好意を持たれるのは素直に嬉しいし、自分のしたことは間違いじゃなかったんだと思えて、自信を持つことができる。
でも、それは一般的な話であって私には当てはまらない。なぜならば……
「森作さん……それってもしかして、ストーカーだったんじゃないの……?」
仕事を終え、エントランスに向かって歩いている時だった。同僚で先輩社員である石田さんが、言いにくそうに指摘してくる。
石田さんは既婚者で、年齢は三十二歳。保育園に通うお子さんを持つ優しい先輩だ。
同じ部署にいる女性は私と彼女だけということもあり、昼時、自分の席で弁当を食べていた私に声をかけてくれたことをきっかけに仲良くなった。今では毎日一緒に昼食を取っているし、予定がなければ帰りも途中まで一緒に帰る。
「やっぱりそうだったんでしょうか……。実は私も、だんだんそうかもしれないと思うようになってきて……」
「まさか、気付いてなかったの……?」
「はあ……いや、なんというか……敢えて考えないようにしていたというか……。それに転職を決めたことで、意識がそっちにいってしまって……」
会社のエントランスを視界に入れながら苦笑する。
そう、私はとある理由で以前勤めていた会社を退職し、この会社に再就職したばかり。今日でちょうど一ヶ月が経ったところだ。
私――森作星良、二十五歳――は、以前はアパレルショップで接客業をしていた。
勤務していたのは若者向けの服飾ブランド。レディースとメンズ両方の服を扱っており、私はレディースの販売スタッフとして働いていた。
元々そのブランドの服が好きだったこともあり、短大卒業後、新卒で採用されて店舗スタッフとなった。接客の仕事は飲食店でのアルバイト以来だったけど、お客様と話すのは楽しかったし、服を身につけた時の嬉しそうなお顔を見るのが好きだった。
その日は売り場の人手が不足していて、たまたまメンズ服のお客様の担当をした。特別変わった対応をしたわけでもないのに、ある男性客が三日と空けずに店舗に通ってくるようになった。
もちろん最初は普通に買い物をしていくだけだったし、いいお客様だと思っていた。
だけど、私が店にいないとわかると不機嫌になって帰ったり、私の出勤日を確認する電話をかけてきたりなど、どんどん行動がおかしな方向へエスカレートしていった。
そしてある日、そのお客様が大きな花束を持って店の前に立っているのを見た時確信した。
これはダメなやつだ、と。
このままではまずい、なんとかしなければと、周囲の人に迷惑をかける前に転職を決意したのだった。
「で、その、問題のあるお客様とはどうなったの?」
「最後に顔を合わせた時、辞めますって報告しました。すごくショックを受けられて、次はどこに行くのか、個人的な連絡先を教えてほしいって何度も聞かれましたけど、職場の人が間に入ってくれて教えずに済みました。それっきり顔を合わせていません」
神妙に聞き入っていた石田さんが、安堵したようにため息をついた。
「そっか、よかったわ~。まあ、ストーカーまでいかなくても、最近一方的に恋心を暴走させた結果トラブルになったとかってよく聞くじゃない? 事件になったりしたら大変よ」
「じ……事件は勘弁です……」
事件なんて言われたら、私だって怖い。
「……いまだにどうしてああなったのか、わかんないんですよ」
表情を曇らせる私を、石田さんが優しくフォローしてくれた。
「森作さん、優しいからじゃない。話しかけやすい雰囲気があるもん。でも、あんまり優しすぎるのも問題よ? 森作さんって、外見がもうすでに優しそうだから、ちょっと冷たいくらいでちょうどいいと思うわ」
石田さんが今言ったことは、過去に家族や友人からも指摘されてきたことだった。
外見に関しては自分じゃどうにもできないが、かといって接客業で意図的に冷たくするというのもなかなか難しい。
「……自分でも気を付けていたんですけど……」
いつだって、私なりにすごく気を付けてお客様と距離を取っていたし、特別扱いすることもなかった。それなのに、なぜかそのお客様は、毎日のように私の職場へ通ってくるようになってしまったのだ。
空しさの極みにがっくりと肩を落とす。
――やっぱりこれも、あれのせいだろうなあ……
そう、なぜだか私は、昔から思い込みの激しい人や、ちょっと変わった人を惹きつけてしまうらしいのだ。
そもそも、森作家の人間は、代々困ったDNAを受け継いでいる。
人が良くて頼まれたら嫌と言えず、なんでも引き受けてしまう。しかもそれは顔見知りに限らず、誰に対してもという、ある意味恐ろしい性質を持ち合わせていた。
『まったく……なんでもかんでも引き受けるんだから。そのせいでうちは、常に生活が苦しかったんだよ? 私がどれだけ苦労したか……』
これは祖母の口癖。祖父は農業をしているのだが、頼まれると他人の畑の作業を手伝ったり、できた作物をタダ同然で配ってしまったりと、お人好しがすぎる人なのだ。
そこをしっかり者で実家が資産家の祖母がカバーし、どうにか破綻することなく生活できている。
そしてそのDNAは息子である父にも受け継がれていて、あれこれ引き受けるだけでなく、土地と家を売らないかという誘いに乗りそうになったり、投資の話に騙されそうになったりと何度も詐欺に遭いそうになっていた。
しかしこちらも、しっかり者の嫁である母と、しっかり者の祖母がどうにかそれを阻止することで事なきを得、我が家は無事に生活することができているのだ。
そんな経緯があるから、祖母や母は私と弟が子どもの頃から常にこう言っていた。
身を削ってまで人に尽くさなくていいと。
口酸っぱく言われてきたおかげで、祖父や父のようにならずに済んだ私だが、今度は別の問題が発生してしまったらしい。
どうやら私はやたらと変わった男の人に好かれやすいようなのだ。
近所でも変わり者と有名なおじさんに異常に可愛がられたり、おそらくヤクザさんと思われるがっつり入れ墨の入ったおじさんからすれ違う度に声をかけられお菓子をもらったり、などなど。
理由はわからないし、自分から話しかけにいってるわけでもない。むしろ親から散々気を付けろと釘を刺されて育ったので、人よりもそういったことには敏感だった。危なそうなものには極力近づかないようにしているにもかかわらず、向こうから私に近づいてくる。
これには祖母も母も困ったようだ。
ただ、これまで以上に周囲に気を配れ、変な人には近づくな、優しくするな。と言われ続けた結果、性質のわりにさほど危ない目には遭わずに生きてこられた。
とはいえ、露出狂の男性には何度も遭遇したし、道で怪しげなおじさんに声をかけられたことは数え切れない。
それに、今思うと学生時代の交友関係も独特だった。
『お……俺と付き合ってください!』
中学二年生の時、初めて同級生に告白をされた。字面だけ見れば甘酸っぱくて、なんの問題もなさそうに思える。でも、告白してきた相手が若干一般人とは言いがたかった。
彼は学校でも有名な地元のヤンキーの総元締めみたいな人だったからだ。
放課後に突然呼び出されて、困惑で泣きそうになっている私に、彼は顔を赤らめて告白してきたのである。
『む……無理です……ごめんなさい……』
即答すると、相手は『だよな』とわかりやすく項垂れた。その姿を見た瞬間、申し訳ない気持ちでいっぱいになったけれど、彼の後ろに控えるヤンキー集団を見たらOKなどできるわけがなかった。
その彼とは一年生の時に同じクラスだった。あまり学校にも来ないし、たまに来れば不遜な態度で周囲を怖がらせる彼には、取り巻き以外、生徒は誰も近づこうとはしなかった。
でも、当時学級委員をしていた私は、相手がヤンキーだろうとなんだろうと与えられた仕事を全うする義務があったのだ。よって、休んでいる彼の家にプリントを届けたり、テスト前には先生が教えてくれたテスト範囲を記した付箋をプリントに貼って届けたりしていた。おそらく、彼に告白された理由はその辺りにあるのではないだろうか。
その結果、告白を断ったにもかかわらず、中学時代は総長の好きな人だからという理由で、卒業まで謎のヤンキー集団に登下校を含めた学校生活を見守られていた。おかげで、幸か不幸かおかしな男が寄ってくることはなかった。
高校へ上がると同時にヤンキー集団との縁は切れたけれど、今度は、委員会で一緒になった学年一の秀才且つ、超コミュ障で誰とも仲良くしない男子生徒に、なぜかよく声をかけられるようになった。
その男子とは特に何があったわけではなかったが、卒業間近に、突然ばかでかいぬいぐるみをプレゼントされたという思い出がある。
他にも、全く面識のない他校の男子学生に通学路で待ち伏せされたり、最寄り駅で夕方になるとギターの弾き語りをしている二十代くらいの男性に、立ち止まったわけでもないのに毎回声をかけられたり、といったことがあった。
その後女子短大に進学して、何人かの男性とお付き合いをする機会にも恵まれた。しかしどの人も表向きは普通に見えるのに、実は変な性癖があったり、理解しがたい趣味を持っていたりして、あまり普通とは言えなかった。
普通の人と恋愛がしたいと思っても、ここまでくると、もうどうやって普通の人と巡り会えるのかわからなくなってしまった。
「く、苦労したのね……」
簡単にこれまでのことを話し終えた頃には、石田さんの顔がさっきよりも疲れているように見える。ただでさえお疲れのところに余計に疲れるような話をしてしまい、申し訳なくなった。
「はい……でも、こうして新しい仕事に就けたので、本当に運が良かったと思ってるんです」
在職中に転職を考え、何度か職安にも通った。初めは希望する仕事がなかなか見つからなかったが、この会社の求人を見つけて、すぐに応募した。面接と適性検査を無事クリアし、今こうして採用してもらえたのだから幸運としか言いようがない。
転職した会社は、事務用品などを扱うメーカーの子会社だ。顧客のアフターサービスなどをメインに行っているので、事務仕事だけでなく営業とメンテナンスをする作業員のフォローが多い。
でも私の担当する仕事は、直接顧客のところへ出向くことはなく、基本的に社内でのデスクワークがメイン。ここならきっと、前職のようなことは起こらないはずだ。
「そっかー。でも、うちも前任者が辞めて以来、なかなか人員が補充されなくて困ってたのよ。何度も人事に求人出してくれってかけ合ったし。だから、森作さんが入ってくれて本当に助かったわ。部署の皆も喜んでるしね」
助かっている、喜んでいる。
この言葉を聞いて、自然と喜びが込み上げてきた。私の中のお人好しDNAが心から喜んでいるのがわかる。
こういう時に思う。祖母と母の教育のおかげで表には出ていないけれど、やっぱり私の体にも祖父や、父から受け継いだお人好しの血が間違いなく流れているのだと。
「そう言っていただけると嬉しいです……! これからもよろしくお願いします」
「ぜひぜひ~。あ、じゃあ私こっちだから。また来週ね!」
「はい。お疲れ様でした」
石田さんが普段利用している地下鉄の駅へ向かうのを、手を振って見送った。
――よーし、今日も無事にお仕事終わりっと。さて……
一人になった私は人の邪魔にならないよう、道の端っこに寄ってからスマホを取り出す。
飲食店の情報が載っているページを開き、目当ての店が今夜確実に営業していることを確認した私は、その店に向かって歩き出した。足取りは非常に軽い。
――ずっと気になってたお店に、ご飯食べに行っちゃおっと。
このところ生活費を切り詰めていたけれど、無事に転職もできたし引っ越しも済んで、ある程度経済的に見通しが立った。だから今夜は、久しぶりに外食をすると決めていたのだ。
――あー、本当に転職できてよかった――‼
母と祖母に転職して引っ越しをすると伝えたら、ものすごく心配されてしまった。転職理由も全部は話していないけど、きっとこの性質のせいだと気付いているだろう。
でも、これでやっと二人に安心してもらえる。それが何よりも嬉しかった。
そんなわけで、ささやかだが転職祝いとして、駅の近くにあるイタリアンレストランで一人ディナーを楽しむことにしたのだった。
商業ビルの中にある店に行くと、夜景の見える窓側の席に案内された。シックな内装で、インテリアはダークブラウン。少しライトを落とした中で食事を楽しむ店の雰囲気は、いかにも大人向けといった感じだ。
「ワインをお注ぎいたします」
「あっ、ありがとうございます」
手慣れた所作で給仕の男性がグラスにワインを注いでくれる。
ああ、なんて素敵なんだろう。
滅多に飲まない白ワインをたしなみながら、新鮮な野菜をふんだんに使ったサラダと、大好きなイカスミのパスタを食べる。一人だから歯が黒くなったって気にしない。締めはティラミスとコーヒー。出てくるものが全て美味しいという、最高の夜だった。
――うーん、幸せ。
転職の原因になったお客様には申し訳ないけれど、新しい環境でのスタートが上手くいってるのは、とてもありがたいし、嬉しい。
これから先も頑張ろうと、やる気が漲ってくる。
お会計をして店を出ると、辺りはもう真っ暗だった。
――夜の九時か……でも、明日はお休みだし、急いで家に帰らなくてもいいかな~。
ほろ酔いのいい塩梅。酔い覚ましに少し歩いて、一つ先の駅から電車に乗ろうかな。
私がふらふらと歩道を歩いていると、突然何かが足に引っかかり、蹴飛ばすような形になってしまった。
「きゃあああっ‼」
勢いよくつんのめって、どうにか地面に手を突くことで転ぶのを堪えた。せっかくいい気分でいたのに、急に現実に引き戻されてしまう。
――え、な、何? 私今、何を蹴って……
道端に段差があったのか、もしくは何か大きなものが落ちていたのか。恐る恐る振り返ったら、歩道の端っこに黒い塊があった。しかも、よく見るとそれは、人の形をしているではないか。
――ひ……人⁉ 私、人を蹴ってしまっ……
サー……と、顔から血の気が引いていく。気が付いたら、私は塊に向かって声をかけていた。
「す……すみません‼ 大丈夫ですか⁉」
青ざめながら急いで塊に近づく。それは、膝を抱えて丸くなっている「人」だった。
勇気を出して顔を覗き込む。こちらの問いかけに全く反応がなくてヒヤヒヤしたが、微かに口元が動いたので生きているのは間違いない。目を閉じ、スー、と寝息らしきものを立てているので、ただ寝ているだけのようだ。
ホッとした私は力が抜けて、その場にへたり込んだ。
――よかった、生きてる……‼ それにしてもこの人、なんで道で寝てるの……?
もう一度よく顔を見ると、目を瞑っているのは男性だ。顔は……なんだかイケメンぽい。
黒いトレンチコートを身につけているが、襟元から覗いているのは白いシャツ。中はおそらくスーツだろう。
――サラリーマン、かな。
すやすや眠っているけれど、さすがにここにこのまま放置していくことはできない。
念のために、何かがあった時に駆け込める交番がどこにあるかマップで確認してから、眠っている人の肩を叩いた。
「お休み中のところ申し訳ありません。大丈夫ですか?」
声をかけてみたが、男性は微動だにしない。
どうしよう。助けを求めて周囲を見回すが、通りかかる人は皆こちらを見ようともしない。多分、ほとんどの人が道で転がっているような男性と関わりたくないと思っているのだろう。
――私だってわかってるよ……見るからに怪しげな人には関わらない方がいいって。
だけど、蹴っ飛ばしてしまったからには、放ってはおけない。もし怪我をしていたら大事だ。厄介なことに、私のお人好しDNAが反応してしまっていた。
気が付いたら、反応がない男性の肩を手のひらで叩きながら繰り返し声をかけていた。
「起きて‼ しっかりしてください‼」
これ以上反応がなかったら、救急車を呼んだ方がいいかもしれない。
――ええと、こういう時ってどうしたらいいんだっけ。確か前職の時に訓練で習ったはず……
そんなことを考えながら、強めに男性の肩を叩いた。すると、ようやく気が付いたのか男性の口が薄く開き、徐々に目が開いていく。男性の目が開いてすぐに思ったのは、この人すごくイケメンだ、ということだった。
でもすぐに、なんでこんなイケメンが道で寝てるの⁇ という疑問に変わる。
「……え、あ……あれ……」
――よかった、起きた。
「あの。大丈夫ですか?」
「あれ……私、今まで何を……」
どうやら、どうして道で寝ていたのか覚えていないらしい。
男性が慌てて起き上がった。一応やらかしてしまったという自覚はあるようだ。
「大丈夫ですか……? どこか具合でも悪いんですか? 救急車を呼びますか?」
救急車という単語が出た瞬間、男性の表情が変わった。
「あ、いや。体は大丈夫です、なんともないんで……ただ、足が若干痛いかな」
足が痛い。それは、きっと私のせいです。
「すみません、それは多分、私が足を引っかけて……というか、蹴ってしまったからだと思います。ごめんなさい‼」
「えっ」
すると、男性が素早く反応した。
「もしかして転ばれたんですか⁉ すみません……‼ お怪我はありませんか」
慌てた様子で私に謝ってくる。
「あ、いえ、大丈夫です。と……とりあえず、これ使ってください。なんか、髪の毛が濡れているみたいなので……」
今まで気付かなかったけれど、男性の前髪が濡れて顔に張り付いている。それが気になって、持っていたタオルハンカチを渡した。
しかし、男性はそれを手にはしたものの、使うのをためらっているようだった。
「いや……お気持ちはありがたいのですが、汚れてしまいますので……」
「差し上げます。だから気にせず使ってください。お家は近所ですか? 一人で帰れますか?」
「あ、ありがとうございます……一人で……えっと……少々酒を飲みすぎたようで……少し酔いが……」
男性が立ち上がろうとするが、すぐに体がぐらつき、尻餅をついてしまう。
――酔っ払ってたのか……
「あの、すぐ戻るので……ちょっとここで待っていてください」
自販機やドラッグストアはないかと周囲を見回す。すると、近くに薬とライトアップされた看板が見える。そこまでひとっ走りした私は、水とフェイスタオルを買って男性の元に戻った。
戻った時、男性は私があげたハンドタオルで顔を拭いていた。髪も手ぐしで整えたのか、さっきまで前髪で隠れていた目が露わになっていた。それにより、彼のイケメン度合いがえげつないことがわかった。
目は吸い込まれそうなアーモンドアイ。高く通った鼻筋と、形のいい適度な厚みのある唇と綺麗な顎のライン。
つまり、極上の顔パーツを持った超絶イケメンであると判明したのだ。
――えっ、えええええっ⁉ この人、こんなにイケメンだったの……⁉
水とタオルを持ったまま固まっていると、男性が私を見て首を傾げる。
「あ、お帰りなさい。どうかしました?」
どうかしたのは私ではない、あなたです。と喉まで出かかった。
このあまりにも綺麗な顔が露わになった途端、通りすがりに彼をチラチラ見ていく女性が増えたではないか。なんてわかりやすいんだ。
「いえ、なんでもないです……あの、これ、水とタオルです」
気を取り直して買ってきたものを彼に渡した。
「え……」
男性が綺麗な目を丸くする。その男性の顔を、まじまじと見てしまった。
なんでこんなに綺麗な顔をした男性が、道端で岩みたいになっていたのだろう。
私が心の中で首を傾げているうちに、男性は受け取った水とタオルにひどく恐縮していた。
「すみません……本当に何から何までしていただいて、申し訳ないです」
「いえ。困った時はお互い様ですから。帰りは一人で大丈夫ですか?」
「はい……近くなので……」
それを聞いてホッとした。だったら、もう一人でも大丈夫だろう。
「じゃあ、私はこれで。気を付けて帰ってくださいね」
「あっ、ちょっと待ってください‼ 水とタオルの代金を……」
男性がジャケットの内ポケットからフラグメントケースのようなものを取り出す。しかし、それを手にして、「あっ」と声を上げた。
「しまった……カードと電子マネーしかない……‼」
現代あるあるだなあと、特に意外とも思わなかった。
申し訳なさそうに項垂れる男性を見ていると、だんだん笑いが込み上げてくる。
「いいですって。本当に気にしないでください。じゃ、私はこれで失礼します」
一礼して去ろうとすると、男性がふらつきながら慌てて立ち上がった。
「あの、せめてお名前を教えていただけませんか」
「え、はい。もりさ……」
反射的に答えそうになって、慌てて口を噤んだ。
――危ない、つい教えるところだった‼ こういう流れはヤバいんだった……‼
本当に、ただお礼がしたいだけなのかもしれない。でも、これまでの経験から、見ず知らずの人に名前は教えない、答えないのが正解だ。
これ以上関わらないよう、今すぐ立ち去ろう。
「ただの通りすがりです。では」
「あっ、えっ、あの……‼」
後ろで戸惑うような声が聞こえてきたけど、私は振り返らずにこの場を去った。
事情はわからないけれど、とにかくあの男性が大丈夫そうでよかった。あとを追いかけてきたりもしてこないし、特別変な人というわけではなさそうだ。
私がとった行動は、きっと間違いではない。
――うん、あの人は多分大丈夫。私、久しぶりにいいことした……!
そう思ったら転職祝いのテンションが戻ってきて、私はご機嫌で駅に向かって歩き出す。
この夜のことは、一週間もするとすっかり私の中から消え去っていたのだった。
それから二週間ほど経過したある日、我が社に大きな変化が起こった。
それは、週明け月曜の朝に恒例となっている朝礼での出来事だった。社長の口から告げられた、聞き慣れない言葉が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
「吸収合併……」
業界五位の我が社と業界三位の企業が合併し、業界二位となる新会社が誕生する。我が社は業界三位の会社に吸収合併されることになり、社名は消滅することとなった。
「やっぱりかー。噂は本当だったのね」
近くにいる石田さんがぼそっと呟く。
実は前々から吸収合併の噂はあったらしいのだが、いよいよそれが本決まりとなり、朝礼で社長から報告されたのである。
会社の名称が変わったり、いくつかの営業所の統廃合や閉鎖、他にもいろいろと変化はあるそうだが、私の勤めている部署の業務に関してはひとまずこれまでどおりと聞いて安堵した。
転職したばかりなのに勤め先がなくなってしまう、なんて事態は勘弁してほしかったから、本当に良かった。
老若男女問わず、人に好かれることはいいことだ。
善意に対して好意を持たれるのは素直に嬉しいし、自分のしたことは間違いじゃなかったんだと思えて、自信を持つことができる。
でも、それは一般的な話であって私には当てはまらない。なぜならば……
「森作さん……それってもしかして、ストーカーだったんじゃないの……?」
仕事を終え、エントランスに向かって歩いている時だった。同僚で先輩社員である石田さんが、言いにくそうに指摘してくる。
石田さんは既婚者で、年齢は三十二歳。保育園に通うお子さんを持つ優しい先輩だ。
同じ部署にいる女性は私と彼女だけということもあり、昼時、自分の席で弁当を食べていた私に声をかけてくれたことをきっかけに仲良くなった。今では毎日一緒に昼食を取っているし、予定がなければ帰りも途中まで一緒に帰る。
「やっぱりそうだったんでしょうか……。実は私も、だんだんそうかもしれないと思うようになってきて……」
「まさか、気付いてなかったの……?」
「はあ……いや、なんというか……敢えて考えないようにしていたというか……。それに転職を決めたことで、意識がそっちにいってしまって……」
会社のエントランスを視界に入れながら苦笑する。
そう、私はとある理由で以前勤めていた会社を退職し、この会社に再就職したばかり。今日でちょうど一ヶ月が経ったところだ。
私――森作星良、二十五歳――は、以前はアパレルショップで接客業をしていた。
勤務していたのは若者向けの服飾ブランド。レディースとメンズ両方の服を扱っており、私はレディースの販売スタッフとして働いていた。
元々そのブランドの服が好きだったこともあり、短大卒業後、新卒で採用されて店舗スタッフとなった。接客の仕事は飲食店でのアルバイト以来だったけど、お客様と話すのは楽しかったし、服を身につけた時の嬉しそうなお顔を見るのが好きだった。
その日は売り場の人手が不足していて、たまたまメンズ服のお客様の担当をした。特別変わった対応をしたわけでもないのに、ある男性客が三日と空けずに店舗に通ってくるようになった。
もちろん最初は普通に買い物をしていくだけだったし、いいお客様だと思っていた。
だけど、私が店にいないとわかると不機嫌になって帰ったり、私の出勤日を確認する電話をかけてきたりなど、どんどん行動がおかしな方向へエスカレートしていった。
そしてある日、そのお客様が大きな花束を持って店の前に立っているのを見た時確信した。
これはダメなやつだ、と。
このままではまずい、なんとかしなければと、周囲の人に迷惑をかける前に転職を決意したのだった。
「で、その、問題のあるお客様とはどうなったの?」
「最後に顔を合わせた時、辞めますって報告しました。すごくショックを受けられて、次はどこに行くのか、個人的な連絡先を教えてほしいって何度も聞かれましたけど、職場の人が間に入ってくれて教えずに済みました。それっきり顔を合わせていません」
神妙に聞き入っていた石田さんが、安堵したようにため息をついた。
「そっか、よかったわ~。まあ、ストーカーまでいかなくても、最近一方的に恋心を暴走させた結果トラブルになったとかってよく聞くじゃない? 事件になったりしたら大変よ」
「じ……事件は勘弁です……」
事件なんて言われたら、私だって怖い。
「……いまだにどうしてああなったのか、わかんないんですよ」
表情を曇らせる私を、石田さんが優しくフォローしてくれた。
「森作さん、優しいからじゃない。話しかけやすい雰囲気があるもん。でも、あんまり優しすぎるのも問題よ? 森作さんって、外見がもうすでに優しそうだから、ちょっと冷たいくらいでちょうどいいと思うわ」
石田さんが今言ったことは、過去に家族や友人からも指摘されてきたことだった。
外見に関しては自分じゃどうにもできないが、かといって接客業で意図的に冷たくするというのもなかなか難しい。
「……自分でも気を付けていたんですけど……」
いつだって、私なりにすごく気を付けてお客様と距離を取っていたし、特別扱いすることもなかった。それなのに、なぜかそのお客様は、毎日のように私の職場へ通ってくるようになってしまったのだ。
空しさの極みにがっくりと肩を落とす。
――やっぱりこれも、あれのせいだろうなあ……
そう、なぜだか私は、昔から思い込みの激しい人や、ちょっと変わった人を惹きつけてしまうらしいのだ。
そもそも、森作家の人間は、代々困ったDNAを受け継いでいる。
人が良くて頼まれたら嫌と言えず、なんでも引き受けてしまう。しかもそれは顔見知りに限らず、誰に対してもという、ある意味恐ろしい性質を持ち合わせていた。
『まったく……なんでもかんでも引き受けるんだから。そのせいでうちは、常に生活が苦しかったんだよ? 私がどれだけ苦労したか……』
これは祖母の口癖。祖父は農業をしているのだが、頼まれると他人の畑の作業を手伝ったり、できた作物をタダ同然で配ってしまったりと、お人好しがすぎる人なのだ。
そこをしっかり者で実家が資産家の祖母がカバーし、どうにか破綻することなく生活できている。
そしてそのDNAは息子である父にも受け継がれていて、あれこれ引き受けるだけでなく、土地と家を売らないかという誘いに乗りそうになったり、投資の話に騙されそうになったりと何度も詐欺に遭いそうになっていた。
しかしこちらも、しっかり者の嫁である母と、しっかり者の祖母がどうにかそれを阻止することで事なきを得、我が家は無事に生活することができているのだ。
そんな経緯があるから、祖母や母は私と弟が子どもの頃から常にこう言っていた。
身を削ってまで人に尽くさなくていいと。
口酸っぱく言われてきたおかげで、祖父や父のようにならずに済んだ私だが、今度は別の問題が発生してしまったらしい。
どうやら私はやたらと変わった男の人に好かれやすいようなのだ。
近所でも変わり者と有名なおじさんに異常に可愛がられたり、おそらくヤクザさんと思われるがっつり入れ墨の入ったおじさんからすれ違う度に声をかけられお菓子をもらったり、などなど。
理由はわからないし、自分から話しかけにいってるわけでもない。むしろ親から散々気を付けろと釘を刺されて育ったので、人よりもそういったことには敏感だった。危なそうなものには極力近づかないようにしているにもかかわらず、向こうから私に近づいてくる。
これには祖母も母も困ったようだ。
ただ、これまで以上に周囲に気を配れ、変な人には近づくな、優しくするな。と言われ続けた結果、性質のわりにさほど危ない目には遭わずに生きてこられた。
とはいえ、露出狂の男性には何度も遭遇したし、道で怪しげなおじさんに声をかけられたことは数え切れない。
それに、今思うと学生時代の交友関係も独特だった。
『お……俺と付き合ってください!』
中学二年生の時、初めて同級生に告白をされた。字面だけ見れば甘酸っぱくて、なんの問題もなさそうに思える。でも、告白してきた相手が若干一般人とは言いがたかった。
彼は学校でも有名な地元のヤンキーの総元締めみたいな人だったからだ。
放課後に突然呼び出されて、困惑で泣きそうになっている私に、彼は顔を赤らめて告白してきたのである。
『む……無理です……ごめんなさい……』
即答すると、相手は『だよな』とわかりやすく項垂れた。その姿を見た瞬間、申し訳ない気持ちでいっぱいになったけれど、彼の後ろに控えるヤンキー集団を見たらOKなどできるわけがなかった。
その彼とは一年生の時に同じクラスだった。あまり学校にも来ないし、たまに来れば不遜な態度で周囲を怖がらせる彼には、取り巻き以外、生徒は誰も近づこうとはしなかった。
でも、当時学級委員をしていた私は、相手がヤンキーだろうとなんだろうと与えられた仕事を全うする義務があったのだ。よって、休んでいる彼の家にプリントを届けたり、テスト前には先生が教えてくれたテスト範囲を記した付箋をプリントに貼って届けたりしていた。おそらく、彼に告白された理由はその辺りにあるのではないだろうか。
その結果、告白を断ったにもかかわらず、中学時代は総長の好きな人だからという理由で、卒業まで謎のヤンキー集団に登下校を含めた学校生活を見守られていた。おかげで、幸か不幸かおかしな男が寄ってくることはなかった。
高校へ上がると同時にヤンキー集団との縁は切れたけれど、今度は、委員会で一緒になった学年一の秀才且つ、超コミュ障で誰とも仲良くしない男子生徒に、なぜかよく声をかけられるようになった。
その男子とは特に何があったわけではなかったが、卒業間近に、突然ばかでかいぬいぐるみをプレゼントされたという思い出がある。
他にも、全く面識のない他校の男子学生に通学路で待ち伏せされたり、最寄り駅で夕方になるとギターの弾き語りをしている二十代くらいの男性に、立ち止まったわけでもないのに毎回声をかけられたり、といったことがあった。
その後女子短大に進学して、何人かの男性とお付き合いをする機会にも恵まれた。しかしどの人も表向きは普通に見えるのに、実は変な性癖があったり、理解しがたい趣味を持っていたりして、あまり普通とは言えなかった。
普通の人と恋愛がしたいと思っても、ここまでくると、もうどうやって普通の人と巡り会えるのかわからなくなってしまった。
「く、苦労したのね……」
簡単にこれまでのことを話し終えた頃には、石田さんの顔がさっきよりも疲れているように見える。ただでさえお疲れのところに余計に疲れるような話をしてしまい、申し訳なくなった。
「はい……でも、こうして新しい仕事に就けたので、本当に運が良かったと思ってるんです」
在職中に転職を考え、何度か職安にも通った。初めは希望する仕事がなかなか見つからなかったが、この会社の求人を見つけて、すぐに応募した。面接と適性検査を無事クリアし、今こうして採用してもらえたのだから幸運としか言いようがない。
転職した会社は、事務用品などを扱うメーカーの子会社だ。顧客のアフターサービスなどをメインに行っているので、事務仕事だけでなく営業とメンテナンスをする作業員のフォローが多い。
でも私の担当する仕事は、直接顧客のところへ出向くことはなく、基本的に社内でのデスクワークがメイン。ここならきっと、前職のようなことは起こらないはずだ。
「そっかー。でも、うちも前任者が辞めて以来、なかなか人員が補充されなくて困ってたのよ。何度も人事に求人出してくれってかけ合ったし。だから、森作さんが入ってくれて本当に助かったわ。部署の皆も喜んでるしね」
助かっている、喜んでいる。
この言葉を聞いて、自然と喜びが込み上げてきた。私の中のお人好しDNAが心から喜んでいるのがわかる。
こういう時に思う。祖母と母の教育のおかげで表には出ていないけれど、やっぱり私の体にも祖父や、父から受け継いだお人好しの血が間違いなく流れているのだと。
「そう言っていただけると嬉しいです……! これからもよろしくお願いします」
「ぜひぜひ~。あ、じゃあ私こっちだから。また来週ね!」
「はい。お疲れ様でした」
石田さんが普段利用している地下鉄の駅へ向かうのを、手を振って見送った。
――よーし、今日も無事にお仕事終わりっと。さて……
一人になった私は人の邪魔にならないよう、道の端っこに寄ってからスマホを取り出す。
飲食店の情報が載っているページを開き、目当ての店が今夜確実に営業していることを確認した私は、その店に向かって歩き出した。足取りは非常に軽い。
――ずっと気になってたお店に、ご飯食べに行っちゃおっと。
このところ生活費を切り詰めていたけれど、無事に転職もできたし引っ越しも済んで、ある程度経済的に見通しが立った。だから今夜は、久しぶりに外食をすると決めていたのだ。
――あー、本当に転職できてよかった――‼
母と祖母に転職して引っ越しをすると伝えたら、ものすごく心配されてしまった。転職理由も全部は話していないけど、きっとこの性質のせいだと気付いているだろう。
でも、これでやっと二人に安心してもらえる。それが何よりも嬉しかった。
そんなわけで、ささやかだが転職祝いとして、駅の近くにあるイタリアンレストランで一人ディナーを楽しむことにしたのだった。
商業ビルの中にある店に行くと、夜景の見える窓側の席に案内された。シックな内装で、インテリアはダークブラウン。少しライトを落とした中で食事を楽しむ店の雰囲気は、いかにも大人向けといった感じだ。
「ワインをお注ぎいたします」
「あっ、ありがとうございます」
手慣れた所作で給仕の男性がグラスにワインを注いでくれる。
ああ、なんて素敵なんだろう。
滅多に飲まない白ワインをたしなみながら、新鮮な野菜をふんだんに使ったサラダと、大好きなイカスミのパスタを食べる。一人だから歯が黒くなったって気にしない。締めはティラミスとコーヒー。出てくるものが全て美味しいという、最高の夜だった。
――うーん、幸せ。
転職の原因になったお客様には申し訳ないけれど、新しい環境でのスタートが上手くいってるのは、とてもありがたいし、嬉しい。
これから先も頑張ろうと、やる気が漲ってくる。
お会計をして店を出ると、辺りはもう真っ暗だった。
――夜の九時か……でも、明日はお休みだし、急いで家に帰らなくてもいいかな~。
ほろ酔いのいい塩梅。酔い覚ましに少し歩いて、一つ先の駅から電車に乗ろうかな。
私がふらふらと歩道を歩いていると、突然何かが足に引っかかり、蹴飛ばすような形になってしまった。
「きゃあああっ‼」
勢いよくつんのめって、どうにか地面に手を突くことで転ぶのを堪えた。せっかくいい気分でいたのに、急に現実に引き戻されてしまう。
――え、な、何? 私今、何を蹴って……
道端に段差があったのか、もしくは何か大きなものが落ちていたのか。恐る恐る振り返ったら、歩道の端っこに黒い塊があった。しかも、よく見るとそれは、人の形をしているではないか。
――ひ……人⁉ 私、人を蹴ってしまっ……
サー……と、顔から血の気が引いていく。気が付いたら、私は塊に向かって声をかけていた。
「す……すみません‼ 大丈夫ですか⁉」
青ざめながら急いで塊に近づく。それは、膝を抱えて丸くなっている「人」だった。
勇気を出して顔を覗き込む。こちらの問いかけに全く反応がなくてヒヤヒヤしたが、微かに口元が動いたので生きているのは間違いない。目を閉じ、スー、と寝息らしきものを立てているので、ただ寝ているだけのようだ。
ホッとした私は力が抜けて、その場にへたり込んだ。
――よかった、生きてる……‼ それにしてもこの人、なんで道で寝てるの……?
もう一度よく顔を見ると、目を瞑っているのは男性だ。顔は……なんだかイケメンぽい。
黒いトレンチコートを身につけているが、襟元から覗いているのは白いシャツ。中はおそらくスーツだろう。
――サラリーマン、かな。
すやすや眠っているけれど、さすがにここにこのまま放置していくことはできない。
念のために、何かがあった時に駆け込める交番がどこにあるかマップで確認してから、眠っている人の肩を叩いた。
「お休み中のところ申し訳ありません。大丈夫ですか?」
声をかけてみたが、男性は微動だにしない。
どうしよう。助けを求めて周囲を見回すが、通りかかる人は皆こちらを見ようともしない。多分、ほとんどの人が道で転がっているような男性と関わりたくないと思っているのだろう。
――私だってわかってるよ……見るからに怪しげな人には関わらない方がいいって。
だけど、蹴っ飛ばしてしまったからには、放ってはおけない。もし怪我をしていたら大事だ。厄介なことに、私のお人好しDNAが反応してしまっていた。
気が付いたら、反応がない男性の肩を手のひらで叩きながら繰り返し声をかけていた。
「起きて‼ しっかりしてください‼」
これ以上反応がなかったら、救急車を呼んだ方がいいかもしれない。
――ええと、こういう時ってどうしたらいいんだっけ。確か前職の時に訓練で習ったはず……
そんなことを考えながら、強めに男性の肩を叩いた。すると、ようやく気が付いたのか男性の口が薄く開き、徐々に目が開いていく。男性の目が開いてすぐに思ったのは、この人すごくイケメンだ、ということだった。
でもすぐに、なんでこんなイケメンが道で寝てるの⁇ という疑問に変わる。
「……え、あ……あれ……」
――よかった、起きた。
「あの。大丈夫ですか?」
「あれ……私、今まで何を……」
どうやら、どうして道で寝ていたのか覚えていないらしい。
男性が慌てて起き上がった。一応やらかしてしまったという自覚はあるようだ。
「大丈夫ですか……? どこか具合でも悪いんですか? 救急車を呼びますか?」
救急車という単語が出た瞬間、男性の表情が変わった。
「あ、いや。体は大丈夫です、なんともないんで……ただ、足が若干痛いかな」
足が痛い。それは、きっと私のせいです。
「すみません、それは多分、私が足を引っかけて……というか、蹴ってしまったからだと思います。ごめんなさい‼」
「えっ」
すると、男性が素早く反応した。
「もしかして転ばれたんですか⁉ すみません……‼ お怪我はありませんか」
慌てた様子で私に謝ってくる。
「あ、いえ、大丈夫です。と……とりあえず、これ使ってください。なんか、髪の毛が濡れているみたいなので……」
今まで気付かなかったけれど、男性の前髪が濡れて顔に張り付いている。それが気になって、持っていたタオルハンカチを渡した。
しかし、男性はそれを手にはしたものの、使うのをためらっているようだった。
「いや……お気持ちはありがたいのですが、汚れてしまいますので……」
「差し上げます。だから気にせず使ってください。お家は近所ですか? 一人で帰れますか?」
「あ、ありがとうございます……一人で……えっと……少々酒を飲みすぎたようで……少し酔いが……」
男性が立ち上がろうとするが、すぐに体がぐらつき、尻餅をついてしまう。
――酔っ払ってたのか……
「あの、すぐ戻るので……ちょっとここで待っていてください」
自販機やドラッグストアはないかと周囲を見回す。すると、近くに薬とライトアップされた看板が見える。そこまでひとっ走りした私は、水とフェイスタオルを買って男性の元に戻った。
戻った時、男性は私があげたハンドタオルで顔を拭いていた。髪も手ぐしで整えたのか、さっきまで前髪で隠れていた目が露わになっていた。それにより、彼のイケメン度合いがえげつないことがわかった。
目は吸い込まれそうなアーモンドアイ。高く通った鼻筋と、形のいい適度な厚みのある唇と綺麗な顎のライン。
つまり、極上の顔パーツを持った超絶イケメンであると判明したのだ。
――えっ、えええええっ⁉ この人、こんなにイケメンだったの……⁉
水とタオルを持ったまま固まっていると、男性が私を見て首を傾げる。
「あ、お帰りなさい。どうかしました?」
どうかしたのは私ではない、あなたです。と喉まで出かかった。
このあまりにも綺麗な顔が露わになった途端、通りすがりに彼をチラチラ見ていく女性が増えたではないか。なんてわかりやすいんだ。
「いえ、なんでもないです……あの、これ、水とタオルです」
気を取り直して買ってきたものを彼に渡した。
「え……」
男性が綺麗な目を丸くする。その男性の顔を、まじまじと見てしまった。
なんでこんなに綺麗な顔をした男性が、道端で岩みたいになっていたのだろう。
私が心の中で首を傾げているうちに、男性は受け取った水とタオルにひどく恐縮していた。
「すみません……本当に何から何までしていただいて、申し訳ないです」
「いえ。困った時はお互い様ですから。帰りは一人で大丈夫ですか?」
「はい……近くなので……」
それを聞いてホッとした。だったら、もう一人でも大丈夫だろう。
「じゃあ、私はこれで。気を付けて帰ってくださいね」
「あっ、ちょっと待ってください‼ 水とタオルの代金を……」
男性がジャケットの内ポケットからフラグメントケースのようなものを取り出す。しかし、それを手にして、「あっ」と声を上げた。
「しまった……カードと電子マネーしかない……‼」
現代あるあるだなあと、特に意外とも思わなかった。
申し訳なさそうに項垂れる男性を見ていると、だんだん笑いが込み上げてくる。
「いいですって。本当に気にしないでください。じゃ、私はこれで失礼します」
一礼して去ろうとすると、男性がふらつきながら慌てて立ち上がった。
「あの、せめてお名前を教えていただけませんか」
「え、はい。もりさ……」
反射的に答えそうになって、慌てて口を噤んだ。
――危ない、つい教えるところだった‼ こういう流れはヤバいんだった……‼
本当に、ただお礼がしたいだけなのかもしれない。でも、これまでの経験から、見ず知らずの人に名前は教えない、答えないのが正解だ。
これ以上関わらないよう、今すぐ立ち去ろう。
「ただの通りすがりです。では」
「あっ、えっ、あの……‼」
後ろで戸惑うような声が聞こえてきたけど、私は振り返らずにこの場を去った。
事情はわからないけれど、とにかくあの男性が大丈夫そうでよかった。あとを追いかけてきたりもしてこないし、特別変な人というわけではなさそうだ。
私がとった行動は、きっと間違いではない。
――うん、あの人は多分大丈夫。私、久しぶりにいいことした……!
そう思ったら転職祝いのテンションが戻ってきて、私はご機嫌で駅に向かって歩き出す。
この夜のことは、一週間もするとすっかり私の中から消え去っていたのだった。
それから二週間ほど経過したある日、我が社に大きな変化が起こった。
それは、週明け月曜の朝に恒例となっている朝礼での出来事だった。社長の口から告げられた、聞き慣れない言葉が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
「吸収合併……」
業界五位の我が社と業界三位の企業が合併し、業界二位となる新会社が誕生する。我が社は業界三位の会社に吸収合併されることになり、社名は消滅することとなった。
「やっぱりかー。噂は本当だったのね」
近くにいる石田さんがぼそっと呟く。
実は前々から吸収合併の噂はあったらしいのだが、いよいよそれが本決まりとなり、朝礼で社長から報告されたのである。
会社の名称が変わったり、いくつかの営業所の統廃合や閉鎖、他にもいろいろと変化はあるそうだが、私の勤めている部署の業務に関してはひとまずこれまでどおりと聞いて安堵した。
転職したばかりなのに勤め先がなくなってしまう、なんて事態は勘弁してほしかったから、本当に良かった。
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