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6、不愛想なテオドル
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――わたくしの初めての記憶は、泣き声でした。
誰に問われても、王女セシリアはそう答えた。
五歳の時も、十歳の時も。そして、十六歳になった今も。
「本当よ。男の子の声だったの。とても苦しそうな声だったの」
「そうですか」
セシリアが話しても、彼女を護衛する騎士テオドルの返事はそっけない。
勉強の終わった夕刻。セシリアは王宮の近くの公園を散歩していた。
初夏の夕暮れは長く、ラベンダーの薄暮に染まった公園では、木々が影絵のように見える。
「テオドルは本当に無口なのね」
「姫さまをお守りするのが、私の仕事ですから」
「答えになってないわ」
ぷうっとセシリアは頬を膨らませる。さらりとした金髪も、夕空を映したラベンダー色の瞳も、王にも王妃にも似ていない。彼女の兄であるイーヴァルにも。両親と兄はそろって蒼い瞳だ。
「ねぇ、どうしてテオドルはいつも黒い服を着ているの?」
隣を歩くテオドルを、セシリアは見あげる。セシリアは踵の高い靴を履いても、ようやくテオドルの二の腕くらいにしかならない。
「姫さまにお聞かせするような理由ではありません」
「もーぉ、会話にならないじゃない」
「楽しく話をなさりたいのであれば、別の方をあたってください」
共にいることの多い騎士と、できることならば仲よくしたいとセシリアは思っているのに。
季節を問わず黒を身にまとい、黒髪に琥珀色の瞳のテオドルは、黒騎士と呼ばれることも多い。
(テオドルにとっては、わたくしの護衛なんて押しつけられた迷惑な仕事なんだわ。どうせなら、国王であるお父さまや王太子のお兄さまの護衛の方がよかったわよね)
道に転がっている小石を、セシリアはつまさきで蹴った。王女としても、レデイとしても行儀は悪いが、お目付け役の女性に見張られているわけでもない。
テオドルは常にセシリアの周囲に注意を払っているけれど。セシリア自身を見ることは少ない。
(むしろ目が合うと、すぐに視線を逸らすんですもの)
「そろそろ夕食の時間です。王宮に戻りましょう」
「……まだ歩きたいわ」
「無理を仰らないでください」
立ちどまって進まないセシリアに、テオドルが手を伸ばす。けれど、すぐにはっとした表情を浮かべて、手を引っ込めた。
「わたくしが子供の頃は、手をつないでくれたわね」
「迷子になられると、お守りすることができませんから」
「じゃあ、今もわたくしが迷子になりそうになったら、手をつないでくれる?」
テオドルの返事はない。
眉を下げて、一瞬だけセシリアを見つめるだけだ。
(どうしてわたくしは、すぐにテオドルを困らせてしまうのかしら)
自分でも分からない。
でも、両親にも兄にも言わない我儘を、なぜだかテオドルにはぶつけてしまうのだ。
セシリアは、自分のてのひらをじっと見つめた。
十年以上も前。子どもだった頃にテオドルの大きな手をしっかりと握りしめていた感覚を、セシリアは今も覚えている。
「まぁ。姫さまではありませんか」
前方から、供を連れた女性が歩いてくる。
三十代の半ば頃だろうか。神官長がまとう足首まである白く長い服に、赤い髪を一つに結っている。
セシリアは足を止めた。
確か相手は神殿の聖女にして神官長であるカイノだ。王女として挨拶をするだけのことなのに、笑顔を浮かべることができない。
紫色に染まった空を、鳥の黒い影が渡った。
「こんな夕暮れに出歩くなんて。散歩でしたら、王宮の庭を歩けばよろしいのでは? ああ、わたくしは王宮に用がありましたのよ」
カイノはにこやかな笑顔を浮かべる。
「確かそちらは黒騎士と呼ばれる、えーっと名前は何でしたかしら」
「神官長どのに、名乗るほどの者ではありません」
テオドルの声は冷たい。
「まーぁ。冗談よ。テオドル・ブラントでしょう? 子供の頃に、よく神殿に遊びに来ていたじゃないの」
さほど暑いわけでもないのに、カイノは扇を開いて顔をあおいだ。
流れてくる甘ったるい香りをかぐのは、初めてなのに。セシリアは、その匂いを知っていると思った。
「姫さまはご存じないでしょうけれど。このテオドル坊やは、小さい時はよくしゃべる子だったのよ」
「そうだったんですか」
セシリアはかろうじて笑顔を浮かべた。
テオドルにしても、子供の頃の話なんてしてほしくもないだろう。実際、隣に立つテオドルからはぴりぴりと緊張した空気が伝わってくる。
(どうして神官長は、わたくしにテオドルの話を聞かせるの?)
早くこの場を立ち去りたい。
「でも、お可哀想にねぇ。姫さまも。テオドル坊やは、とても大事にしている女性がいたのよ。ご存じでしょう? いつも笑顔で、それはもう仲がよかったのよ」
(え?)
聞いたこともない。
生まれてからずっと、テオドルはセシリアの傍にいる。けれど、彼の私生活も交友関係も、セシリアは知らない。教えてももらえない。
すっと体温が下がるのが分かった。
指先が冷たくなっていく。
「申し訳ございませんが。王宮に戻る時刻です。失礼いたします」
まったく謝っているようには聞こえない口調で、テオドルがカイノの話を遮った。
ぎゅっと手を掴まれる感覚。見れば、テオドルの大きな手が、セシリアの手を握っていた。
誰に問われても、王女セシリアはそう答えた。
五歳の時も、十歳の時も。そして、十六歳になった今も。
「本当よ。男の子の声だったの。とても苦しそうな声だったの」
「そうですか」
セシリアが話しても、彼女を護衛する騎士テオドルの返事はそっけない。
勉強の終わった夕刻。セシリアは王宮の近くの公園を散歩していた。
初夏の夕暮れは長く、ラベンダーの薄暮に染まった公園では、木々が影絵のように見える。
「テオドルは本当に無口なのね」
「姫さまをお守りするのが、私の仕事ですから」
「答えになってないわ」
ぷうっとセシリアは頬を膨らませる。さらりとした金髪も、夕空を映したラベンダー色の瞳も、王にも王妃にも似ていない。彼女の兄であるイーヴァルにも。両親と兄はそろって蒼い瞳だ。
「ねぇ、どうしてテオドルはいつも黒い服を着ているの?」
隣を歩くテオドルを、セシリアは見あげる。セシリアは踵の高い靴を履いても、ようやくテオドルの二の腕くらいにしかならない。
「姫さまにお聞かせするような理由ではありません」
「もーぉ、会話にならないじゃない」
「楽しく話をなさりたいのであれば、別の方をあたってください」
共にいることの多い騎士と、できることならば仲よくしたいとセシリアは思っているのに。
季節を問わず黒を身にまとい、黒髪に琥珀色の瞳のテオドルは、黒騎士と呼ばれることも多い。
(テオドルにとっては、わたくしの護衛なんて押しつけられた迷惑な仕事なんだわ。どうせなら、国王であるお父さまや王太子のお兄さまの護衛の方がよかったわよね)
道に転がっている小石を、セシリアはつまさきで蹴った。王女としても、レデイとしても行儀は悪いが、お目付け役の女性に見張られているわけでもない。
テオドルは常にセシリアの周囲に注意を払っているけれど。セシリア自身を見ることは少ない。
(むしろ目が合うと、すぐに視線を逸らすんですもの)
「そろそろ夕食の時間です。王宮に戻りましょう」
「……まだ歩きたいわ」
「無理を仰らないでください」
立ちどまって進まないセシリアに、テオドルが手を伸ばす。けれど、すぐにはっとした表情を浮かべて、手を引っ込めた。
「わたくしが子供の頃は、手をつないでくれたわね」
「迷子になられると、お守りすることができませんから」
「じゃあ、今もわたくしが迷子になりそうになったら、手をつないでくれる?」
テオドルの返事はない。
眉を下げて、一瞬だけセシリアを見つめるだけだ。
(どうしてわたくしは、すぐにテオドルを困らせてしまうのかしら)
自分でも分からない。
でも、両親にも兄にも言わない我儘を、なぜだかテオドルにはぶつけてしまうのだ。
セシリアは、自分のてのひらをじっと見つめた。
十年以上も前。子どもだった頃にテオドルの大きな手をしっかりと握りしめていた感覚を、セシリアは今も覚えている。
「まぁ。姫さまではありませんか」
前方から、供を連れた女性が歩いてくる。
三十代の半ば頃だろうか。神官長がまとう足首まである白く長い服に、赤い髪を一つに結っている。
セシリアは足を止めた。
確か相手は神殿の聖女にして神官長であるカイノだ。王女として挨拶をするだけのことなのに、笑顔を浮かべることができない。
紫色に染まった空を、鳥の黒い影が渡った。
「こんな夕暮れに出歩くなんて。散歩でしたら、王宮の庭を歩けばよろしいのでは? ああ、わたくしは王宮に用がありましたのよ」
カイノはにこやかな笑顔を浮かべる。
「確かそちらは黒騎士と呼ばれる、えーっと名前は何でしたかしら」
「神官長どのに、名乗るほどの者ではありません」
テオドルの声は冷たい。
「まーぁ。冗談よ。テオドル・ブラントでしょう? 子供の頃に、よく神殿に遊びに来ていたじゃないの」
さほど暑いわけでもないのに、カイノは扇を開いて顔をあおいだ。
流れてくる甘ったるい香りをかぐのは、初めてなのに。セシリアは、その匂いを知っていると思った。
「姫さまはご存じないでしょうけれど。このテオドル坊やは、小さい時はよくしゃべる子だったのよ」
「そうだったんですか」
セシリアはかろうじて笑顔を浮かべた。
テオドルにしても、子供の頃の話なんてしてほしくもないだろう。実際、隣に立つテオドルからはぴりぴりと緊張した空気が伝わってくる。
(どうして神官長は、わたくしにテオドルの話を聞かせるの?)
早くこの場を立ち去りたい。
「でも、お可哀想にねぇ。姫さまも。テオドル坊やは、とても大事にしている女性がいたのよ。ご存じでしょう? いつも笑顔で、それはもう仲がよかったのよ」
(え?)
聞いたこともない。
生まれてからずっと、テオドルはセシリアの傍にいる。けれど、彼の私生活も交友関係も、セシリアは知らない。教えてももらえない。
すっと体温が下がるのが分かった。
指先が冷たくなっていく。
「申し訳ございませんが。王宮に戻る時刻です。失礼いたします」
まったく謝っているようには聞こえない口調で、テオドルがカイノの話を遮った。
ぎゅっと手を掴まれる感覚。見れば、テオドルの大きな手が、セシリアの手を握っていた。
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