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5、騎士として
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「もうすぐお茶が用意されるわ。簡潔にお話を済ませましょう」
王妃が立ちあがり、テオドルの側にやってくる。上質な布のこすれる音をさせながら、王妃は少ししゃがんだ。
「この侍女は、事情を知っています。けれど、声が洩れ聞こえることも考えられるので。ごめんなさいね」
王妃の唇が、テオドルの耳に寄せられる。
甘い薔薇の香りがした。
王妃の言葉を聞いたテオドルは、息が止まるかと思った。瞬きをすることも忘れ、眠っている赤ん坊を凝視する。
最初はちらっと見ただけだから、気づかなかった。
小さな手の側に、ガラス細工の小箱が置いてあるのを。透明なガラスを透かして、薔薇色がおぼろげに見えている。
「もうひとつの薔薇水晶を、あなたは持っているわね? テオドル」
「……はい」
テオドルの声はかすれていた。
愛しいビアンカから託された薔薇水晶のピアスは、今も片時も離さずにいる。
首から下げた金の鎖には、小さなケースがついている。その中に、薔薇水晶を入れてある。
「この子がビアンカさまであるという根拠がもう一つあります」
王妃は声をひそめた。
「セシリアが生まれてから、瘴気が満ちた湿地がいくつか消えたそうです。わたくしからのお願いです。テオドル。あなたは騎士になり、このセシリアを守ってあげてください」
「ぼくが……」
まともに言葉が紡げない。懐かしくも残酷な光景が、現れては消えて。眩暈がした。
「あなた以外に適任者はいないわ。理由は分かるわね?」
聖女ビアンカの最期は、二年経った今でもまだ人々の記憶に新しい。
もうひとりの聖女、カイノだけでは国に広まった瘴気を浄化することはできない。
ビアンカには力がなかったというけれど。それは間違いであると、彼女が亡くなってから、皆が気づいた。
ビアンカこそが、常に魔力を放出して、この国を守っていたと。
神殿がその事実を認めたが、もう遅い。
だからこそ、民はビアンカが生まれ変わるのを待ち望んでいる。
(ぼくは、ビアンカの為に騎士を目指している。ビアンカは、必ず戻ってくると約束してくれた)
大切な人の言葉は、今も耳に残っている。決して忘れることなどない。
けれど、目の前の赤ん坊がほんとうにビアンカであるのなら。国民の期待の大きさに潰されてしまいはしないか? 生まれたその瞬間から、国を救う義務を押しつけられて。
(もしかして、ビアンカであった事実など知らない方がいいのでは?)
あんなにも彼女との約束を待ちわびていたのに。
「身勝手なことかもしれませんが。わたくしは、母親としてセシリアが聖女さまであったことを公表はいたしません。セシリアにも教えません」
王妃の口調は強い。
「ですが、瘴気を祓う方法を模索しようと思います。むろん、セシリアにも協力してもらいます。けれど、聖女ひとりにすべてを背負わせる時代は、もう終わりにしないといけません」
「はい」
その通りだ。ビアンカのように使い果たされて、最後は捨てられたなど。そんな過去を繰り返してはいけない。
「わたくしは、セシリアの中にいらっしゃるビアンカさまの魂もお守りしたいのです。神殿の横暴を陛下は止めることができませんでした。わたくし達は、事実を知るのが遅すぎたのです」
王妃は、背筋を伸ばして窓の外を見つめた。
雪はまだ降りやまない。けれど、鈍色の雲の間から、光がこぼれている。
「テオドル。あなたも手伝ってくれるわね? わたくしとあなたで、ビアンカさまを守りましょう」
もう断れない。断りたくなどない。
自分以外の誰が、ビアンカの魂をもった王女を守れるのだ。
「ビアンカさまが約束を果たされたことを、本当に嬉しく思いますよ」
「はい……」
喉に透明な結晶が詰まったように、テオドルはちゃんと話すことができない。
ビアンカは祝福されている。あんなにも惨めに追放されたのに。
ぽたり、と涙が落ちた。
自分が泣いていることに、テオドルは驚いた。
理屈よりも、感情が先にビアンカの再来に感激している。
ビアンカのことが、あまりにも大事だから。あまりにも存在が大きいから。
彼女が命を奪われた日のことは、一時たりとも忘れたことはない。
この二年間、ビアンカの笑顔を何度も夢に見た。
彼女が最期の力で、自分を伯爵家へと飛ばした時。どれほど抗っただろう。
けれど、聖女の力は絶大だ。魔力を失っていたはずなのに、ビアンカはテオドルを一瞬で移動させた。
突然、屋敷の庭に現れたテオドルに使用人は驚いた。テオドルはすぐに立ちあがり、走り出した。けれど、ビアンカが襲われたのは王都のはずれの森。走っても半日近くはかかる。
あいにく、馬車はどれも出払っていた。
テオドルは走った。汗が目に入り、膝が震え、足が重くて動かなくても森へと向かった。何度転んでも、立ちあがった。
その先のことは、もう思い出したくはない。
生まれ変わったビアンカ自身にも、思い出させたくはない。
手の甲で拭っても、拭っても、涙が溢れて止まらない。
(だめだ。これはもう……ぼくは)
妃殿下の御前なのに、侍女もいるのに、王宮だというのに。
「うわぁぁぁっ」
テオドルは声を上げて泣いた。
王妃が立ちあがり、テオドルの側にやってくる。上質な布のこすれる音をさせながら、王妃は少ししゃがんだ。
「この侍女は、事情を知っています。けれど、声が洩れ聞こえることも考えられるので。ごめんなさいね」
王妃の唇が、テオドルの耳に寄せられる。
甘い薔薇の香りがした。
王妃の言葉を聞いたテオドルは、息が止まるかと思った。瞬きをすることも忘れ、眠っている赤ん坊を凝視する。
最初はちらっと見ただけだから、気づかなかった。
小さな手の側に、ガラス細工の小箱が置いてあるのを。透明なガラスを透かして、薔薇色がおぼろげに見えている。
「もうひとつの薔薇水晶を、あなたは持っているわね? テオドル」
「……はい」
テオドルの声はかすれていた。
愛しいビアンカから託された薔薇水晶のピアスは、今も片時も離さずにいる。
首から下げた金の鎖には、小さなケースがついている。その中に、薔薇水晶を入れてある。
「この子がビアンカさまであるという根拠がもう一つあります」
王妃は声をひそめた。
「セシリアが生まれてから、瘴気が満ちた湿地がいくつか消えたそうです。わたくしからのお願いです。テオドル。あなたは騎士になり、このセシリアを守ってあげてください」
「ぼくが……」
まともに言葉が紡げない。懐かしくも残酷な光景が、現れては消えて。眩暈がした。
「あなた以外に適任者はいないわ。理由は分かるわね?」
聖女ビアンカの最期は、二年経った今でもまだ人々の記憶に新しい。
もうひとりの聖女、カイノだけでは国に広まった瘴気を浄化することはできない。
ビアンカには力がなかったというけれど。それは間違いであると、彼女が亡くなってから、皆が気づいた。
ビアンカこそが、常に魔力を放出して、この国を守っていたと。
神殿がその事実を認めたが、もう遅い。
だからこそ、民はビアンカが生まれ変わるのを待ち望んでいる。
(ぼくは、ビアンカの為に騎士を目指している。ビアンカは、必ず戻ってくると約束してくれた)
大切な人の言葉は、今も耳に残っている。決して忘れることなどない。
けれど、目の前の赤ん坊がほんとうにビアンカであるのなら。国民の期待の大きさに潰されてしまいはしないか? 生まれたその瞬間から、国を救う義務を押しつけられて。
(もしかして、ビアンカであった事実など知らない方がいいのでは?)
あんなにも彼女との約束を待ちわびていたのに。
「身勝手なことかもしれませんが。わたくしは、母親としてセシリアが聖女さまであったことを公表はいたしません。セシリアにも教えません」
王妃の口調は強い。
「ですが、瘴気を祓う方法を模索しようと思います。むろん、セシリアにも協力してもらいます。けれど、聖女ひとりにすべてを背負わせる時代は、もう終わりにしないといけません」
「はい」
その通りだ。ビアンカのように使い果たされて、最後は捨てられたなど。そんな過去を繰り返してはいけない。
「わたくしは、セシリアの中にいらっしゃるビアンカさまの魂もお守りしたいのです。神殿の横暴を陛下は止めることができませんでした。わたくし達は、事実を知るのが遅すぎたのです」
王妃は、背筋を伸ばして窓の外を見つめた。
雪はまだ降りやまない。けれど、鈍色の雲の間から、光がこぼれている。
「テオドル。あなたも手伝ってくれるわね? わたくしとあなたで、ビアンカさまを守りましょう」
もう断れない。断りたくなどない。
自分以外の誰が、ビアンカの魂をもった王女を守れるのだ。
「ビアンカさまが約束を果たされたことを、本当に嬉しく思いますよ」
「はい……」
喉に透明な結晶が詰まったように、テオドルはちゃんと話すことができない。
ビアンカは祝福されている。あんなにも惨めに追放されたのに。
ぽたり、と涙が落ちた。
自分が泣いていることに、テオドルは驚いた。
理屈よりも、感情が先にビアンカの再来に感激している。
ビアンカのことが、あまりにも大事だから。あまりにも存在が大きいから。
彼女が命を奪われた日のことは、一時たりとも忘れたことはない。
この二年間、ビアンカの笑顔を何度も夢に見た。
彼女が最期の力で、自分を伯爵家へと飛ばした時。どれほど抗っただろう。
けれど、聖女の力は絶大だ。魔力を失っていたはずなのに、ビアンカはテオドルを一瞬で移動させた。
突然、屋敷の庭に現れたテオドルに使用人は驚いた。テオドルはすぐに立ちあがり、走り出した。けれど、ビアンカが襲われたのは王都のはずれの森。走っても半日近くはかかる。
あいにく、馬車はどれも出払っていた。
テオドルは走った。汗が目に入り、膝が震え、足が重くて動かなくても森へと向かった。何度転んでも、立ちあがった。
その先のことは、もう思い出したくはない。
生まれ変わったビアンカ自身にも、思い出させたくはない。
手の甲で拭っても、拭っても、涙が溢れて止まらない。
(だめだ。これはもう……ぼくは)
妃殿下の御前なのに、侍女もいるのに、王宮だというのに。
「うわぁぁぁっ」
テオドルは声を上げて泣いた。
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