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死んだふり令嬢、黒い噂の奴隷伯爵に嫁ぐ。

後編

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 夕食後、部屋に閉じこもっていたヴァネッサだが、決意をするとすっくと立ち上がった。

 やっぱりこのまま知らない人に抱かれるなんて、絶対にイヤ!!

 家の借金問題は結婚したことで援助をもらって解決しているし、たとえ離婚しても返済義務は一切生じないような契約になっている。
 子どもたちのお世話は自分でなくても問題はなく、ブラン好きな人には見向きもされていない。
 もはや、ヴァネッサがここに留まる意味などなかった。
 ヴァネッサはいくらかのお金を手に持つと、ランタンを窓の近くのサイドテーブルに置いた。そしてスカートをたくしあげて、部屋の窓枠に足をかける。防犯上、二階以上の方がいいと言われていたのだが、高所恐怖症のために一階の部屋を希望していて助かった。これくらいなら越えられる。ブランがひょいと飛び越えていたのを思い出し、ヴァネッサも窓枠を越えようとした時。

「よいしょっ……きゃあ!!」

 どべしゃああっと音がして、ヴァネッサは見事に窓枠からすべり落ちた。
 一階だからと油断していた。ここの屋敷は、ヴァネッサの生まれ育った家よりも、さらに建物の基礎が高かったのだ。

「い、いたぁ……っう!!」

 足首が異様に痛い。たった今負った怪我だというのに、もう腫れ始めている。

「う、そ……立てない……」

 赤ちゃんのようなハイハイすらできず、しかたなく匍匐ほふく前進する。が、こんな状態でどうやって逃げ出せというのか。

「少しでも離れて、隠れないと……ノワール様がきちゃう……!」

 地べたに這いつくばってもがきながら動いていると、通りから馬車の音が聞こえて、この屋敷の門の前に停車する音がした。

「おかえりなさいませ、旦那様」
「ああ」

 帰ってきた。あれがきっとノワールだ。
 ヴァネッサは首だけで後ろを見上げた。自分の部屋からのランタンの灯りが、ばっちりとヴァネッサを照らしている。

 あああ、消しておけばよかったのに、私のばかっ!

 屋敷から出る時には気にされなくとも、門から入ってくる時には、必ず見える位置にヴァネッサはいた。それも暗ければ素通りされていただろうが、思いっきりランタンの灯りがヴァネッサを照らしている。

 私は草よ! 草!
 動かなければ、きっと気にも止めずに屋敷に入っていくはず!

 ヴァネッサは死んだふりさながら、大地に顔を埋めて呼吸を止めた。

「あいつは一体、なにをしているんだ?」

 が、秒でバレた。

 やだ、どうしよう! 近づいてくるわ!

 今さら顔を上げられず、ヴァネッサはそのまま身を伏せて死んだふりを続ける。

「お、奥様?! 奥様ではありませんか!! ノワール様、この方が奥方のヴァネッサ様でございますよ!」

 使用人がノワールの妻であるヴァネッサを紹介するとは、なんという滑稽な状況であろうか。

「わたくし、人を呼んで参ります!」

 そう言って使用人は屋敷に向かって走っていき、逆にノワールは近づいてくる気配がする。

「大丈夫か、ヴァネッサ。ここでなにをしている」

 死んだフリを決め込んでいたヴァネッサが、強引に振り向かされて抱き上げられた。
 その、ノワールの顔。
 ふんわりと後ろに流された前髪で、整った顔立ちがしっかりと見える。切れ長の目に、バネッサはじっと見つめられた。
 黒縁の眼鏡をかけてはいたが、誰が見ても美形だと声を揃えて言うだろう。

 思ったよりずっと若い……!
 この方がノワール様?!

 思わず見入っていると、足を悪くしたことを忘れて動かしてしまった。

「い、いたっ」
「怪我をしたのか?」
「は、はい……」
「まったく、気をつけろ」
「……ブラン?」

 今の『気をつけろ』の呆れたような面倒くさそうな、それでいて本当に心配している物言い。
 それがブランにそっくりで、つい口から漏れてしまった。

「あ、すみません、私、つい……」
「どうしてわかった?」
「……え?」
「今まで誰にも気づかれたことはないというのに」
「ええ?! じゃあ、本当にブランがノワー……」
「っし!!」

 バフンと手で口を閉じられる。

「後で説明する。わかったな」

 ヴァネッサがこくこくと頷くと、ブランの後ろから数人の使用人たちがやってきた。

「大丈夫ですか?! 奥様を家に運びましょう!」
「いや、いい。俺が運ぶ」

 そう言うと、ブランはひょいとヴァネッサを抱きあげてしまった。

「きゃあ! あの、ブ……ノワール様、私、汚れていますから!」
「それがどうかしたか? 大人しく俺に抱かれていればいい」

 平然とした顔でそう言って、降ろされることなく屋敷に連れて行かれた。

 ああ、もう! すごいこと言ってるのに、無自覚なんだからー!

 屋敷に入ると手当てを受け、ブランと二人っきりになる。
 灯りのある部屋はしっかりとブランを照らしてして、その端正な顔立ちをヴァネッサはじっくりと観察するように見た。

「なんだ?」
「ブランがこんなに格好よ……んんっ、あなたがノワール様って、どういうことなの?」

 ヴァネッサが言葉を変えると、ブランは訝しげな顔をしながらも答えてくれる。

「ノワールは俺の腹違いの兄で、俺はただの身代わりだ」
「身代わり?」

 オウム返しすると、ブランは首肯した。

 やだ、仕草はいつもと変わらないのに、目が見えるだけでいつもよりドキドキしちゃうわ……!

 目が合うたびドキドキして視線を外してしまうので、話も上滑りしてしまっていたが、要はこういうことだった。

 本物のノワール・ファリエールは、この家の正当な後継者として育てられた。
 一方ブランは、当主である父親が気まぐれに下働きの女に手を出して生まれた子どもだったのだ。
 ブランの母親はノワールの母親に詰られ罵られ、屋敷を出ざるを得なかった。それから十年もの間、ブランの母親はブランを育てながら必死に働いたが、過労で亡くなってしまったのだそうだ。ブランが十歳の時だったらしい。
 その後、ブランには生きる術がなく、奴隷商に目をつけられて奴隷にさせられたのだという。
 過酷な労働。衣食もまともなものはなく、絶望していた時に救ってくれたのが、腹違いの兄であるノワールだったということだ。

「奴隷の労働環境はひどいものだ。使えなくなったらすぐに処分される。健康な者でも五年生きられればいい方だと言われるくらいだ」
「そんなに……」
「俺は二年で奴隷生活から解放された。運が良かったんだ。普通は死ぬまで、奴隷は奴隷だ」

 二年と簡単に言ったが、それはどれほどの長い地獄であったのか。ヴァネッサには想像もつかない。

「苦しかったわね……」
「過去の話だ」

 そう言いながらもブランは苦しそうで、ぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られる。
 しかしその間もなく、ブランは淡々と先を語った。

 ブランより二つ年上のノワールが十四歳の時、ノワールの母親がこの家を出て行った。つまり、離婚だ。
 ノワールは幼い頃から、母親の恨み節を聞かされて育ったので、ブランの存在を知っていたらしい。
 母親が出て行くと、ノワールはブランを探し出して買い取ってくれたのだという。誰にも内緒で。

「ノワールに会った時は驚いた。瓜二つの顔をしていたんだ、俺と」

 ブランは自分の出生を、そこで初めて知ったという。ノワールは内緒でブランを買っていたため、異母兄弟だとバレないようにブランは顔を隠さなければならなかった。それでノワールは伊達眼鏡をかけるようになり、ブランはずっと前髪を鬱陶しいくらいに伸ばしていたのである。

「ノワールは、俺の奴隷という過去を消し去り、一般的な経歴に書き換えてくれた。そして、教養を身につけさせてくれ、この屋敷でやがて家令という重要な役割を与えてくれた」
「その、本当のノワール様は、今どこに?」
「四年前に出て行ったよ。身分の低い者を好きになって、父親に反対されて駆け落ちした」
「駆け……落ち」

 つまり、三ヶ月前に結婚した時には、ノワールはここにいなかったということになる。

「それからずっとブランがノワール様を演じているの?」
「ああ、昔から入れ替わりはよくやってたんだ。さすがに、二度と帰ってこないと言われた時には驚いたが……」
「この家のために?」
「結局はそうなるが、ノワールのためだな。次期当主が消えれば混乱を招く。それをあいつは望んでいなかったから、俺が身代わりとなった。ノワールの恩に報いるために」

 そこまで聞いて、ヴァネッサはようやくどうしてこういう事態になっているのかを理解した。
 先代は一年前に亡くなって、今はノワール……つまりブランが正式な当主だ。それで落ち目の子爵令嬢であるヴァネッサを、誰に咎められることなく受け入れることができたのだろうが。

「でも、どうして私を助けてくれたの?」

 ヴァネッサの呈した疑問に、ブランはなぜか顔をそっぽに向けた。
 ブランが奴隷を買って救っている理由はもうわかった。地下に押し込めていたのも、〝ノワール〟の名を穢さないためにしたことだったのだろう。結果的に逆効果だったわけだが。
 しかし、ヴァネッサは落ち目の令嬢ではあったが、奴隷ではない。結婚までして援助をしてくれた理由が、どうにもわからず首を捻る。

「……俺は昔、奴隷だった時代に、一人の少女に出会った」

 今度はどんな話が始まるのかと、ヴァネッサはブランの目を見て傾聴する。

「その女の子は……殴られている俺を見て、元気を出せとキャンディをくれたんだ。奴隷になってからそんな風に人に気遣ってもらったのは初めてで、思わず涙があふれた」
「え……あ、あの時のお兄さんが、ブランだったの?!」

 ヴァネッサが驚いて声を上げると、横を向いていたブランが視線を戻して目を細めている。

 やだ、ブランったら、こんなにやさしく笑うの……?

 胸がドクンと鳴る。耳まで赤くなっていることが、自分でわかる。

「俺は、ノワールと……そしてヴァネッサ、君のやさしさに救われたんだ。だからヴァネッサの家が騙されたと知った時、助けたいと思った」

 ブランのまっすぐな瞳に射抜かれたようだ。嬉しくはあるが、同時にそれはヴァネッサに苦しさも与えてくる。

 やさしすぎよ、ブラン……
 あなたは自分の身を犠牲にしてまで人を救っているの?

 そう思うと、ヴァネッサの目からほろりと涙があふれた。

「ヴァネッサ? どうして泣いているんだ」
「だって……恩があるというだけで、一生ノワール様の身代わりになって。恩があるというだけで、私を妻にしようと思ったの? ブランの意思は、自由は、一体どこにあるの?」

 声に出すと、いっそう悲しみが湧いてくる。

「かわいそうなブラン……」

 かわいそうなのは自分ではなくブランなのだからと思っても、なかなか涙は止まらない。
 しくしくと泣いていると、ブランの手がふんわりとヴァネッサの頭を往復した。

「ブラン……?」
「ヴァネッサ。結婚は俺の意思で決めたことだ。どうして最初、ノワールとしては会わずに、ブランとしてあなたと過ごしたと思っている?」

 ブランの問いに、ヴァネッサは首を傾げた。

 ブランがノワール様として会わずに、ブランとして私に会った理由?
 確かに、同一人物ならノワール様として会っても同じだったはず……どうして?

 考えてみたが理由はわからず、ヴァネッサは降参した。

「わからないわ。どうして?」
「ヴァネッサには、ノワールではなく、ブランを好きになってほしかったからだ」
「え?」

 パチリと目を見開くと、ブランに強い視線を送られる。今までに見たことのない、真剣な瞳。

「あのやさしい女の子なら、俺のことを見てくれると思った。理解してくれると思った。そしてそんなヴァネッサを、嫁に欲しいと思ったんだ。これは俺の意思で間違いない」
「ブラン……」

 彼はずっと、ヴァネッサのことを信じていてくれたのだ。
 キャンディの女の子のことを。真のブランを理解してくれると。

 その気持ちはわかったわ。でも──

「その割にはブラン、私に無愛想だったわよね?」
「許せ、それは元々そういう性格だ」

 ばっちりと絡み合う視線の先は、お互いに大真面目な顔で。
 二人は同時にプッと吹き出してしまう。

 やっぱりブランは不器用な性格なんだわ。
 でも、私にはわかる。すごくやさしくて、素敵な人なんだって。

「ところで、どうしてヴァネッサはあんなところで倒れてこんな怪我をしていたんだ?」
「う、それは……会ったこともない人と初夜を迎えるなんて……イヤで……だって」
「だって?」

 ブランに促されるも、顔が勝手に熱くなって、言葉が出てこない。
 そんなヴァネッサを見てブランは跪き、そっと手を差し出してくれた。

「改めて、俺と結婚してほしい。ノワールとしてではなく、ブランとして」

 ノワールの格好をしているとはいっても、彼は間違いなくブランなのだ。
 その彼が、自分の意思でヴァネッサを選び、嫁に欲しいと思ってくれた。
 断る理由など、逃げる必要など、もうどこにもない。
 ヴァネッサは己の手を伸ばし、ブランのその筋張った男らしい手を取る。

「ブラン、どうか私をあなたの妻にしてください。私はあなただけを永遠に愛し続けます……不器用でやさしいブランが、大好きだから!」
「ヴァネッサ……」

 ブランは立ち上がり、嬉しそうに細められた瞳は潤んでいる。

 こんな純粋な涙は、きっとこの世でブランだけだわ。

 ヴァネッサは手を伸ばすと、今にもこぼれそうな目尻を拭ってあげた。
 するとその手を取られ、手のひらに彼の唇が当たる。

 きゃあ?!
 やだ、もう手が……顔が熱い……っ

 熱くなったヴァネッサの手は、そのままブランの頬を温めるように囚われた。

「ノワールとしても生きなければいけない俺だが、約束する。ブランとして、一生ヴァネッサだけを愛していくと」
「ブラン……」

 結婚が決まった時、誰がヴァネッサにこんな幸せがくると想像しただろうか。
 ヴァネッサの目からも、今度は嬉し涙が込み上げてくる。

「ヴァネッサ、好きだ」
「私もよ、ブラン」

 ヴァネッサとブランは視線を重ねて微笑み合うと、どちらからともなく唇を寄せる。
 二人はこの上ない幸せを噛み締めながら、お互いを慈しみ合ったのだった。



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